トシコロのありのままの暮らし


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執行猶予の教会

2022-06-30 11:14:33 | 日記
  その教会は、日清戦争からアジア太平洋戦争までの日本が起こした戦争に協力し、結果的に日本含む、多くの人たちを殺したわけだから、神から見れば大罪になる。諸々の戦争に命を張って反対した教派や牧師、信徒、仏教や神道系の人たちもいたのに。それでも、存続していたのは、無期限の執行猶予みたいになっていたからだと考えられる。

  十戒にもある姦淫罪の最たるものであるレイプを3人の牧師がして、内一つはこれも十戒の一つのウソに含まれる隠ぺい工作を牧師会が行なった。まさに刑の執行である。信徒たちが離れるという形で起きているわけである。

  何が根本的におかしかったか。「神以外の何ものをも崇拝してはならない」とあるのに、神の被造物に過ぎない教会組織を、明治の初めから神自体だと思い込み、絶対視し、信仰してきたからだろう。その場合、特に牧師と教会役員は教派内にしか目が行かなくなり、世界どころか、日本国内の人たちにも無関心になり、教会組織を守るため、軍国主義の脅しにも屈し、戦争協力にも至ったと。

  時代が違うので、単純な比較はできないが、確かにオウム真理教はサリンをまき、多くを死傷させたが、戦争加担はしなかった。レイプしたのも麻原だけだった。オウムよりも悪質で、罪は重いように僕には思える。オウムよりも恐ろしい所に僕は行っていたようである。

西洋文明の混同

2022-06-27 10:40:27 | 日記
     80年代に行った教会の教派。聖餐式の見方は分かれていたが、信徒たちの大勢は、コンパみたいなものであり、仲間関係を作る目的であった。同じ見解を持つ一神学生からもそのように聞いた。聖餐式するには、堅信礼を受けなければならないが、当時の僕はすでにコンパにも、仲間関係にも魅力を感じなくなっていた時期なので、聖餐式も受けたくなく、したがって堅信受けないまま、教会もやめた。コンパや仲間意識がキリスト信仰や愛になるとは、当時の僕にも思えなかった。それらは人のすることだと。

  後年、放送大学やNHKラジオ講座で、西洋文明の源流はギリシア・ローマと、ユダヤ・キリストの2つがあり、それぞれ違うこと、そのギリシア社会にはコンパ文化もあり、酒を酌み交わしながら、議論して交友していたことも知った。

  ならば、明治からそのような聖餐式を解釈する信徒が多いその教派。西洋文明の源流の区別ができず、聖餐式もギリシアのコンパと同じに思い、あのような解釈もし、さらに当時の教育勅語の「仲良く」も当てはめ、本当に独特の聖餐式解釈になったかもしれない。

  その教派は日清戦争以降の日本の全戦争に積極的に協力し、軍人信徒も多かった。戦後はレイプ牧師を3人出し、内一つは牧師会が隠ぺいしようとした。どちらも反キリストとも言える大罪だが、なぜそのようになったのか、僕は考え込んでいる。別の場で同じことが繰り返されないためにも、僕はそこに行った一人として忘れてはならないと思う。また、西洋文明の二源流を混同し、さらに教育勅語の思想も絡めば、まともなキリスト信仰には教派ごとならず、果ては戦争協力とレイプにもなりますね。...

0計算発想と教育勅語

2022-06-25 15:17:21 | 日記
明治に作られた教育勅語も「仲良く」を強調するなど、人間本位で0計算発想は見出せない。陸軍と海軍が、諸政党が仲良くできなかったなど、戦前もすでに弊害が出ていたが、その流れを受け継いだと思われれる戦後の福祉関係や身障団体も、仲良くなろうとして内紛や団体同士、個人間のケンカが多く、早く潰れている。社会的な広まりも乏しく。戦前に話を戻すと、当時の日本の頂点ではあるが、これも神や無限ではないはずの天皇を神聖なものに置くなど、いかにも0計算発想や仏教の空思想がないものであることが見える。
 日本は一応1945年で打ち切られたが、教育勅語を真似たものを取り入れ、天皇を国家元首に変えた、ソ連などの共産圏では戦後もその影響が続いている。北朝鮮は言うまでもないし、一度はソ連崩壊したロシアも今はその揺り返しで、戦争にもなるなど、その影響は本家の日本よりも深刻である。1989年のモスクワ放送で聞いたが、レーニンは旧ソ連南部の東方キリスト教徒とイスラムの争いを仲良くさせようと努力したが、89年の時も仲良くできてないと、嘆きとも思える事を報道していた。実現しないまま、ソ連は崩壊したわけだが。人間の努力だけで争いは解決するのか、非常に難しいわけである。(異教徒の争いみたいなことは、両方は一応神を信じているが、実際は0計算や無限ではなく、有限=人だけの発想だから、そこに経済利害なども絡み、最悪の時は戦争にもなると思われる。「私は神を信じている」と言っている人でも、実際は違う場合も多いわけである。)

0計算発想と宗教

2022-06-24 13:16:29 | 日記
大切な事として、諸宗教も7÷0=∞という発想が本当は不可欠。ユダヤ・キリスト・イスラムの神の方程式がまさにそうだし、仏教の全教派もそうである。親鸞上人が説いているように、点数100の人も、0.1、つまり、生きるために悪業をせざるを得ない人とか、重い何かの障碍を持ち、大したこともできない人も自分の弱さを自覚し、仏の慈悲に頼めば、無限の気力も与えられ、生きている間も幸福になれる、むしろ、そのような一見救いから遠いと思われる悪人の方が自分の弱さを知っているから、仏は救うという発想である。
 ところが0の計算が根本になければ、以上の神や仏の方程式も成立せず、多くの人たちは無神論者になる。信仰を持とうとしたら、しょせんは有限の計算だから、人為的な神になる。数式の答えが一億だろうが、8兆だろうが、無限とは大違いだから。中には、宗教を利用して、信徒や労働者から搾取する人も出る。マルクスの述べた「宗教は心のアヘン」も連想させられるし、オウム真理教、さらにはコーランの自己流解釈からのイスラム原理主義のテロを見ると、心のサリンになっていると言いたくなる。そのほか、教祖や教団組織を神と思い込む例とか。いずれも幻想に過ぎないわけだが。僕が若いころに行った教会関係も、教会組織を絶対化したものだったが、そのように思い込む人たちにしか通じず、全人類の愛と救いを説いたキリスト教とは根本的に違うものだった。僕はそのようには思い込めなかった。(その教派はその後、3人の牧師がレイプをし、最初の例は牧師会が教会組織を守るために隠ぺい工作もした。1945年までは諸々の日本の戦争に協力もしたし。明らかにおかしいわけである)
 神の死を宣告したニーチェは超人を説いたが、超人になることは不可能だし、なっても有限の存在には違いないから、ムリがあるように思われるが。

コロナと気

2022-06-23 17:14:39 | 日記
 日本のコロナ死亡率は5%。死ぬ人と死なない人の区別理由が少ししか報じられていない。他の疾患や煙草多く吸うとか、基礎体力がないと報じられているだけで、それらが数値化されてのデータではないわけですね。また、陽性と患者、その中間とあるはずなのに、今は陽性者数だけ報道。コロナが発表されてからかなりになるのに、相変わらずの非科学的報道。ちゃんと数値化しないと、科学的な報道にはならないし、日本に住む人たちも科学的な理解はできず、不安感ばかりになる。おかしい。
  そのほか、気力の類も大きいね。何のウィルスにしろ、感染自体は物理現象だが、同じ基礎体力でも、気力がある人は免疫力も倍加して、軽く済むかかからない例もあるが、気力のない人はそのまま重くなる。同じ人でも、気力が充実しているときは風邪にもかからないのに対し、気落ちの時は病気にかかりやすいことはだれも経験の通り。
 ただし、精神主義的に「病は気から」は今は言えないね。意識とか気持ちみたいなことは、数値化され、科学的に認められたわけではないから。今の科学は意識や脳に関してはまだ原始的。脳性麻痺が治せず、コロナどころか、風邪も治せないわけですね。気とか意識を数値化しない限りはどうにもならない。それには、3÷0とか0÷0の計算が欠かせないと思われます。