トシコロのありのままの暮らし


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絶望の反対として

2020-11-30 17:07:26 | 日記
「いきなり人類愛・友愛」と理念を頭から叩き込む、コンパや活動を通して心に染み込ますと、「私・我々は何でもできる」と多くのメンバーは思いこんじゃう。又は、「教会組織=神」と信じると、そのような組織にいると「私・我々は何でもできる」と思い込んじゃうようだと。それは「絶望」とは対極の発想。傲慢そのもの。確かに、以上二つからは祈りは生れない訳だ。心通じない。例の伊藤節男伝道師はその会の一つを「して上げる主義。同情や傲慢」と言っていたが、同情も結果の一つに過ぎなかったと思う。実際はもっと深刻な問題があったと。
それと祈りなき恋愛は何なのか。以上だが、感情のぶつかり合いになったり、例の教会関係は性欲の追及に各自終始。恋愛でも、何でもなかった。非常におかしかった。単に身障者やマイノリティは差別されるという次元の事でもなかったわけです。

祈りとは何か?

2020-11-30 13:28:16 | 日記
基本的には意識を極度に集中して念じたり、もっと深く、人間をはるかに越える者に身と心をゆだねる事だと思う。その前に、自分・他人の別なく、人間の力の限界を悟る事も必要だろうが。そして、自分も人間だが、神仏を意識しようが、しまいが、「はるかに越える者」にゆだねるため、自分の心もはるかに自動的に越えるから、他人と心通じる。このようなメカニズムではないか。


  「祈り」を検索すると、まず「お金や健康を神仏に願うこと」という通俗的な事が出てきた。確かに、それも祈りである。でも、お金も、健康も、それを願う事は自己中心的な事であり、自分の心も越えられず、他人とも心通じないのである。祈りの醍醐味は出てこない。ただし、祈りの入門編にはなるから、それはそれで意義があると見ている。僕は子供の時から神社などではそのような祈りはした事がないが。でも、神社の建物やそこに生えている草木が大好きだから、時々散歩には行くわけである。

  話を戻し、他人と心通じれば、親友なり、恋人ができて、親友が自分に必要な情報や仕事を持ってくることも多く、又、恋人と結婚出来る場合も多いだろう。恋愛自体が幸福の例も多い。つまり、「多くの人たちと心通じるから」結果的に何かの願望が叶うことも多いわけである。相手と心が真に通じない場合はエゴが両方丸出しになり、裏切る・裏切られたり、ケンカにもなるが、通じた場合は相手の気持ちも判るから裏切る、ケンカは起きないわけである。

  また、深い祈りの前には絶望が絡む事も多い。その典型がイエスの最後の言葉の「主よ、何故、私をお見捨てになりましたか」という言葉だろう。その言葉は旧約聖書の詩編第22章に書いてある言葉である。その冒頭には「何故、見捨てたのか」とあり、しまいは「子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救いを後に生まれた民にのべ伝えるでしょう」とある。つまり、神様賛美になっている。絶望をバネにして。そのイエスの言葉は別に挫折の言葉ではないのである。(かなり前だが、アメリカの何かの哲学者が「イエスは挫折者なり」という本を書き、日本語訳の広告を僕は見た事がある。学説は自由であり、否定はしないが、その人は旧約聖書をどれだけ知っているのかと、又、それ以上に絶望効果についてどう思っているのか、疑問に思った。その本は買わなかった。因みに、僕はその事は1980年代、遠藤周作の何かの本で知り、理解したわけである。おかげで、イエスはニヒリストという誤解はしないで済んだ。絶望する事とニヒルとは違うから)。


   祈りと言えば、例の伊藤まつさんは僕に「良い彼女が見つかりますように」と祈ってくれた。うれしかった。でも、嬉しく感じた事は、その時の僕はすでに祈りを知っていた事なる。僕は誰から祈りを教えられたのか、と辿っていくと、先日から話している伊藤節男伝道師になるのかもしれない。喜んで伊藤節男氏の話を聞いている内に。人間を越えた者にも想いが行き、祈りの心が伝授されたとこ考えられるから。尚更、ありがたい親友であった事が判る。深い感謝の祈りを伊藤節男伝道師と伊藤まつさんに送ることにしよう。


祈りがないとその果ては殺人や戦争ではないのか

2020-11-28 13:30:03 | 日記
 相模原の障碍者大量殺人の犯人、15年くらい前の小学校大量殺人事件の犯人、オウムの麻原、ポル・ポト、ヒットラー、スターリン。それらに共通したものは、祈りがなかった事である。そして、他人には理解不可能な理屈をこねていた点も共通。祈りが欠落すると他人と心通じなくなる。他人の痛みも感じなくなる。そこに何かの恨みとか、権力闘争、経済要因が絡むと、他人の痛みも感じなくなっているから、人を殺してしまう。こんなメカニズムではないのか。「相模原の犯人」、犯行を精神障碍に求める事は余りにも短絡的である。根拠もない。他の精神障碍者への偏見を広めかねない。確かに、その人は命尊重以前に報道される限りでは、祈りの心が欠落していた。また、今の日本社会に言える事だと。その事件も「小学校大量殺人事件」の繰り返しに過ぎない。更にその事件も、麻原が命じたサリン散布の繰り返しに僕には見えて仕方ない。祈りが乏しく、心通じないと人間はこうなるわけである。


  明治初期、日本で廃仏運動が繰り広げられ、それまでの祈りの心は衰えていき、その後の教育勅語では、祈り抜きでいきなり友愛や仲良く。ムリであった。その後、日清戦争以来、度重なる戦争や、ハンセン氏病患者の強制収容。検証は難しいにしろ、日本に祈りが衰退した後、何故か戦争や差別が増えた。また、祈りがなく、心通じないと人は猛烈に寂しく、「同調」を求めて、外に敵を作る。すでに日清戦争にはその傾向はあったようである。日露戦争の時、「君死に給うなかれ」が非常に叩かれた事でも判る。昭和初期の政治腐敗や、軍部の独走だけでなく、人々の「同調圧力」も中国侵略などを作ったようである。戦後も変わらず、祈りで心通じないから、ライ予防法とか、福祉の遅れ、島田療育園の挫折、僕の見てきた福祉、身障、教会関係の挫折にもなり、今の非婚化や親子、兄弟の不和の激増にもつながっているわけである。

  日本の歴史を見ると、やはり、経済第一主義で祈りが弱まった平清盛の後、戦乱になっている。お坊さんたちもわがままになり、富を求めたり、殺人もした。ほぼ同時のヨーロッパでは十字軍戦争。当時の教会に真の祈りはあったのだろうか。敵のイスラムに対してまとまったが、それはイエスの説いた「敵への愛」に反しているわけである。そのほか、アヘン戦争の時のイギリス。国教会含め、祈りがあったかも疑問である。僕の行った教派も、教会組織=神だから、真の祈りはなく、戦前は戦争奉仕、戦後は牧師レイプにもなったようである。その教派の一部の人たちが「祈りとは何か、判らない。私は真剣に祈った事がない」と暗い顔をして言っていたのが印象的だった。僕もその教会ではまともに祈れなかった。...。(旧友の中には「仕事や社会活動、ミニコミ文みたいなものが人を結ぶと言っている例もある。僕もその影響は受けたが、今は否定的な考え。それらも祈りが絡まなければ他人と通じない。又、祈りがあれば、それらをしなくても他人と通じるからである。それらも価値は認めるが、相対的なものにしか過ぎないと断定もしている)。


  今後日本社会に祈りは蘇るのだろうか。蘇って欲しい。そうしないと、日本に住むすべての人たちが不幸になるし、アジア・世界もそうかもしれないからだ。


聖書を超える理念、更に

2020-11-27 15:50:30 | 日記
『正義と力とは主のみにある』。今開いた旧約聖書・イザヤ書45章24に書いてある事です。カギかっこで書いてある以上は、それ以前の抜き書きでしょうが。
例の福祉会や世田谷関係の理念、僕の行った教会関係の3つをバッサリ切り捨てていますね。その一つの理念書を見て伊藤節男伝道師は激怒したわけですよ。新旧聖書には「神中心」の個所はいくらでもあります。僕よりもはるかに聖書に詳しい人には違いないから。他の2つを見ても、激怒すると思います。
 強いて言えば、例の福祉会は元々「人類愛」という大きな観念だからまだマシだったと。それが最初から「いきなり友愛・友人になる」ならば、最初からケンカばかりして、2年で潰れたと思います。会員同士が祈りなしで干渉し合うとエゴも衝突し、そうなる。思考実験して、「いきなり恋愛・結婚」の場合はもっと悲惨な結果になりますね。
 僕の行った教派。イエスが安息日に人を救った事から「ユダヤ教は神中心だが、イエスは人間中心の考え方だ。だから、友愛を説いた」と1983年にその青年信徒たちや神学生から聞きました。牧師たちは「人の為の事をしなさい」とお説教。人間中心の教会。今の僕は何がおかしいか、よく判りますが、当時は判らず、そのままついて行きました。そうしたら、内部で例えば牧師が在日韓国人を差別して大ゲンカになるなど、入信後におかしさが少しずつ判ってきた。やアイヌ系への差別もひどい。一身障男性は「セックスしかつなぐものはない」と言い、「神や祈りがつなぐ」と言い返す者は誰一人いない。牧師含め。教会組織が神。次第に僕は嫌気が差し、止めました。やめた後は本当に地獄になりました。(イエスが安息日に救ったのは、むしろ、隣人愛を尊重する旧約の考えに従ったまで。「安息日の掟よりも、隣人愛の掟が優先されるよ」と。まさに神中心です)

フェイスブック投稿から

2020-11-27 11:50:00 | 日記
ネットでは書けない事例も、例の福祉会の「その後」にはたくさんあります。精神の土台が崩れると、障碍の有無に関係なく、自立もできなくなる。ならば、自立の一番の基礎は心だとも言える。心を一番損なうのは傲慢ですね。
  その役員の中には、「この会の人たちは甘えている」と常に言っていた人がいた。複数の役員の人たちが言っていたのかな。でも、実際は甘えという次元の生やさしい事ではありませんでした。本当に理念で皆の精神の土台が崩れていたからでした。
  同時に入っていた世田谷の福祉関係の綱領にも「友人になる」と。まさに「いきなり友愛」であり、同じ理念です。それは早い時期からケンカばかりして潰れた。実際はかなりあったと思います。更に、僕の行った教派も「教会組織が神」。これも一種の人間絶対化。今思うと、イエスと対立したファリサイ派と同じです。
  以上3つと、明治に作られた教育勅語は理念がそっくりです。関係はありましょうが、検証には膨大な資料を要するはずだし、そのような事に時間を掛けても始まらないので、僕のする事てもないかと思います。ただし、僕の今の置かれた状況理解には因縁理解が役立ちました。
  以上の理念は戦後の日本社会を貫いていたと思います。らい予防法、優生保護法、障碍児教育の遅れ、人体実験になるまで島田療育園が狂った理由。かつては身障者だけが結婚難、今はほぼ全員の日本人が結婚難。恋愛レスで、アダルトになり、レイプも増えた事にもつながると思います。根は深い。