トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

死についての想いの続き

2022-05-30 10:33:23 | 日記
    「死が近づくと脳が活性化」の研究事例はまだ少なく、中には逆の例も考えられる。殺人者や戦争犯罪人は潜在的に自己否定の意識が強いから、特に死が近くなると脳の活動が低下し、吹雪や暗黒世界などの幻も見るようになる。古来から伝えられている地獄の正体もそのようなものかもしれない。

  それにしても、「気」の事が解明されなければ死関係の事も判らないと僕は見ているし、意識の正体も同じだと思う。今は神経や脳神経から意識の正体を探っているようだが、神経とは痛覚などの伝達と、脳の指令伝達の通路に過ぎないのではないか。神経が意識に絡むとしても、それを支配する何かがあるはず。それは今の科学では解明はできないと思う。

  一部にしろ、気を出して他者を眠らせたり、病気を治す例もある。気の伝達速度が超光速ならば、時間も超えるから、ノストラダムスみたいに未来が見えるようなことも説明付くし、技術と結びつけばタイムマシンや、瞬時にして宇宙のはるか彼方に行く機械も作れるわけである。推察は楽しいし、そこから未来科学や社会も作れるわけである。

本の紹介

2022-05-28 16:22:31 | 日記
「いのちゆいのち」。遠藤滋著、七月堂。
遠藤氏は僕の先輩。長年寝たきりの身ながら、自立生活を続け、最近75歳を目前に他界されました。福祉の参考にもなりますから、ぜひお読みください。

死について想う

2022-05-27 16:28:30 | 日記
  母校の一先輩が他界されたので、死について想っている。

  最新の脳科学によると、脳は死が近づくと活性化し、死ぬ瞬間に最高潮になるそうだ。または、臨死体験の時に。理由はまだわかっていない。本人の意識も覚醒状態になるそうだ。今はここまでしか判っていない。でも、推察はできる。鍼灸医学で言われている気が本当にあれば、脳が最大に活性化するのならば、死の時はそこから気も多く発生しているのではないか。死者が遠く離れた知人の夢枕に立つ現象もこれで説明が付くかもしれない。また、気が全宇宙に通じているのならば、臨死体験者が宇宙や地球を見た現象も察しが付くものだ。さらには、本人の意識は地球や宇宙と合体し、途方もなく、広がるかもしれない。今までの死後は輪廻転生、天国と地獄、意識消滅が言われてきたが、どれも説に過ぎず、科学的証拠はない。雨が降るメカニズムとは違うわけである。今は最初に述べたことが判ってきた段階に過ぎないが、脳科学が発達し、「気」の事も解明されれば、意識の正体とか、死後意識の事も判ってくると僕は見ている。今の科学でも、「死はパワフル」だとわかりつつあると言えるのではないか。

 死の時に脳が最高に活性化するのならば、そこから強い気も発生し、生者たちの意識に影響を与えることも十分に考えられる。特に大量に死ぬ戦争や虐殺の時は。歴史を見るに、例えば、ナチスがユダヤ人を大量に殺した後、世界はユダヤ人に味方した。同情と正義感だけだろうか。未来科学はどのように見るだろうか。今のウクライナ戦争は。死はパワフルという見方が世界的に定着したら、戦争、虐殺は消え、殺人も減るかもしれない。死は無力という見方がそれらの根の一つにあるから。

  冒頭に書いた一先輩も僕にも気を送っているのならばありがたいことだし、今頃は生前は見られなかった地球や宇宙の姿も見ているかもしれないとも思うわけだ。

 「友情ほど、当てにならないものはない」を吟味する

2022-05-23 10:28:09 | 日記
  1928年生まれの映画監督・教育評論家の羽仁進氏の著書「放任主義」に書かれてあった言葉である。羽仁氏は「子供にそう教えろ」とさえ述べている。また、小中学時代、僕もそのような事を多くの大人たちから聞いたし、同様に聞いていた同級生たちもいた。当時の大人はすべて戦前世代。それゆえ、友人を作らない当時の大人もたくさんいたわけである。今の僕は2つの面からみている。

  1.友情の定義と持つ性格.

  仏典には随所に「修行や利他行為を通した善友」という言葉が出てくる。修行は学問やスポーツも含まれるし、利他行為は現代語では社会活動に当たる。確かに、それらは心結ぶし、励まし合い、たたえ合いも生まれる。まさに友情。僕も共に学んだ結果、心通じ合い、真の友人になれた人たちは多い。一緒に子供会活動した旧友とか。すがすがしくて、良いものだ。

  ところで、かつてはそうした友人に、例えば、「お金の工面をしてくれ」と頼む例も昔から多い。ジャッキー・チェンの映画にも面白く出てくる。その場合、依存や甘えの関係になり、断れば絶縁にもなりかねない。応じた場合、もっと無理な要求もしてきて、関係も腐っていくわけである。お金までにはいかなくても、約束し合った時間に「友人だから判ってくれるだろう」と思い、遅刻して、ケンカになるとか、人間の意見は様々で理解力も限界があるのに、「わかってくれない」と怒るとか。友情が崩れるパターンは無数にあり、危ういものである。そこからも「友情ほど、当てにならないものはない」という結論も出る。依存や甘えが友情を破壊するわけである。



 2.友情と仲良くの混同.

  教育勅語に「仲良く」という言葉が多く出てくるため、戦前世代のほとんどはその区別が付かないようだし、戦後世代にも多い。学問や社会活動などを通さず、いきなり他人と仲良くしようとすることである。そのために一緒に酒を飲んだり、芸能人の話もして。ムード的に仲良くなれるが、普通の友人よりも早くに依存と甘えが出て、ムリも押し付け合い、ケンカになることが多い。100%かもしれない。大正デモクラシーのバブルみたいなものがはじけた昭和初期には、不景気とも絡み、そのようなケンカが多かったようだ。しかも、多くは仏典は読まないから、仲良し=友情だと思い込んでいる。まさに、子供の時の僕などが聞いた「友情はダメ」の根である。世代柄、羽仁進がそう思ってもおかしくない。



 今現在の僕が判っていることは以上である。日本では、以上2つが重複しているのかもしれない。また、教育勅語のコピーをした旧ソ連でもそのような社会のゆがみが強く、ゴルバチョフが困ったわけだし、今の独裁者プーチンを生んだことにも通じているとみている。この件は継続して述べたい。

高島平団地、島田療育園、全生園に行き、X君と関わった目的

2022-05-16 10:53:46 | 日記
  人権、経済、医療、教育と、この自分と多くの共通点があり、他人事ではないし、自分を知り、改善するヒントもあるはずなのがまずですね。又、それは日本に住む人たちはもちろん、世界のすべての人たちにも通じる事です。今のウクライナや北朝鮮の人たちにも。だから今も忘れられない。でも、その目的が見えてきたのはそれらに関わり合った10年以上後の放送大学で、特に法律や経済系のものを学ぶようになってからです。高島平団地に多かったカギっ子の件、島田の麻薬投与や恋愛抑圧、ハンセン氏病関係の隔離、精神障碍者の差別問題と、根は憲法や法律の不履行と、世界的とも言える経済問題であることに次第に気が付き、関わり合った時よりもはるかに身近にも思えてきて、特に島田の件は熟成期間を経て、小説にまで書けるようになっています。それらに行っていた時も一応通信大学はしていましたが、法律と経済は学ばないなど、偏った学び方で、それら以前に法律や経済が自分の生活に深い影響を与えていることには気が付きませんでした。それらに同行していた学生・若者たちもほとんどそうでした。中には経済の大切さを説く人もいましたが、僕も皆も話が判らなかった。島田の状況も僕は単に「施設だから悪い」と言っていたし、学生も「権力者だから園長が悪い」と言うだけだった。短絡的でしたね。また、行く目的が誰も見えず、「何のために行くか」と自問にふけり、皆早くやめました。「皆で遊んで楽しくやれば、心の壁も消え、差別は消える」と言い出した者も出たわけです。

  今思うと、同行者に限らず、小学から高校まで公立校にいた人たちは社会科と理科を暗記科目と誤解し、試験のための暗記ばかりしていたから、基礎学力がなく、大学に入っても法律や経済のテキストを読んでも人権の事には気が付かない。自分の生活に絡んでいることも。恐らく、憲法の柱の基本的人権や国民主権も理解できていないでしょう。それならば、以上の場に行っても人権や経済との辛みは判らず、訳も分からず、早くやめていった。僕も大して変わらなかったですが、放送大学で経済や人権の事に目覚め、行った所の状況が見えてきた。放送大学が判った理由はそれらの見聞と共に、母校の光明養護学校の社会科と理科の勉強が思考をさせるものだった。母校の教育が良かったからかもしれませんね。公立校で学んでいたら、放送大学も判らず、一生「何しに島田などに行ったのか」と自問にふけっていた気もします。光明養護学校に入れてよかったと思います。乙武氏とは違い、僕は教育学は学んでいないので、光明の事を著書にはできませんが、島田小説や子供向け文の背後には光明の教育があるわけです。