トシコロのありのままの暮らし


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仲間関係、イジメ、昔の施設と軍隊

2021-05-31 10:40:05 | 日記
「隔離の文学(荒井裕樹著・書葎アルス)」によると、ハンセン氏病療養所・長島愛生園では、園全体が大家族的なものを目指したわけだから、仲間関係を作ることを元患者は強制されたわけである。それは極例にしろ、昔の施設や療養所は個室はなく、大部屋だったから、入所者は自動的に仲間関係になる事を求められた。僕の見た島田療育園もそうで、彼らは「煩わしさ」と「寂しさ」を述べていた。煩わしさは誰でもわかるだろう。「寂しさ」だが、「周りに仲間がいれば寂しくないじゃないか」と反論する人たちも多く、僕も最近まで説明できなかった。「仲間関係」は常に全体優先。どんな仲間関係でも構成員は全体だけに目が行き、一人一人の個性・人格・人権には目が行かなくなる。個人レベルの交友もできない。友情も育たず、寂しい。施設のほか、昔の福祉会や身障会でもあった事である。僕の行った教会関係でもそうだった。だから、僕も経験したわけである。ただし、福祉会などは自分の意志でそのような所に行くわけだが、昔の施設や療養所はそうではないし、入ると強制されるから、その分は違うわけである。


   全寮制で個室もない、施設みたいな養護学校を経験した身障の人から「いじめられた。寂しかった」と辛さを訴えられた。気持ちは僕にも伝わったが、無論、いじめられた理由はその人にはなく、わからない。又、元患者の伊藤まつさんからも「個室がない時はイジメが多かった」と聞いた。メカニズムは以下かもしれない。

   煩わしく、プライバシーもない仲間生活をする事は誰でも猛烈なストレスが出る。イヤな気持でも。従って、誰かをいじめて、その人が困る姿を見て、「あいつよりは幸せだ」と優越感を持ち、ストレスを晴らそうとする気持ちから出たのではないか。加害者も被害者には違いないが。自分よりも不幸な人やバカな事を言う人を見ると優越感を抱くから。「笑いは差別」という一落語家の話も聞いた事があるし。また、時々週刊誌の広告に「少年院内のイジメ」も書かれているが、同じだと思う。

   その種の問題は、陸軍生活を経験した父は詳しかった。以上の通りのイジメが軍隊内で行なわれていたと何回も聞いた。また、「オウム真理教の中のイジメは、昔の軍隊と同じだ」とも言っていた。比較はおかしいにしろ、軍隊内はもっとひどかったようだ。アメリカや中国といった敵に構え、仲間関係があるはずなのに、内部ではイジメ。軍隊ほど、個性・人格・人権が無視されるところはないからね。歴史を更にさかのぼり、明治から学校で子供たち向けにわかりやすい言葉で「仲良くなりましぇう」と日本人としての仲間意識を作ろうとしたが、国や民族性に限らず、仲間意識とか仲良し関係を人々は求めているのか。その辺も問題である。僕は「まったく求めていない」である。聖書の愛とか、仏典の広大無辺な慈悲は求めても。だから、愛と仲良くの区別も早くにできた。仲間意識を求める人たちとも出会うが、本当にそれを求めているのか、疑問に思う。口先だけで本音はどうなのか。健全者でも、また、今は徴兵はなくても、オウム真理教のような共同生活はやろうと思えばできるから、本当に求めていたら、そのような生活を有志を集めてやるわけだが。(僕は学校現場を見たわけではないから、参考を述べるに留めるが、ある教育評論家がTVで「仲良くを先生が言えば言うほど、イジメが増える」と指摘していたのも思い出します)


仲間主義の弊害

2021-05-28 16:15:44 | 日記
世論が仲間主義の時はヘルパーという仕事も出てこない。何故なら、介護を必要とする人たちに広く関わるのがヘルパーだが、仲間主義は内輪の人たちの世話しかしないようになるから。現に、昭和・1980年代までの日本社会はそれが当たり前だった。昭和の頃の福祉会の話し合いや文章を思い出すと、「多くの人たちが集まる仲間関係を作って、そこに身障者や盲人も入れて、仲間内で介護する」という論調が多かった。身障者の中にも同調の動きがあった。でも、例えば、「寝たきりの父親の介護に疲れ果てた28歳の娘が金づちで父親を叩き殺して、逮捕」というニュースがあるなど、当時から高齢者介護の問題は深刻で、ヘルパーの需要はあったが。とにかく、福祉関係もものすごく内向き。その場合、ヘルパーも、ボランティアも成立しないわけである。ボランティアをする人たちも次第に合コンみたいな仲間関係作りに精を出す始末。もっとも、当時は政界は宴会政治が当たり前だったし、会社関係もそれで仲間関係作りに精を出していた。日本全体がそのような感じだったようだ。その果てが会社不正を皆で隠ぺいした雪印、東芝、三菱電機だったし、悪用したのがオウム真理教を作った麻原である。


  障碍者施設やハンセン氏病療養所内では、彼ら同士の仲間関係作りを強いられた。これは自分たちの意志ではなく、世間に強いられたわけだから、もっと始末に悪い。障碍や病気も仲間関係作りの材料になると思われたらしい。僕と親しくなった元患者の伊藤まつさんも、島田の身障園生たちも、それについては「煩わしい」と嫌っていた。仲間、仲間と言われては、個性とか自分の意志が消えてしまうからね。

  時はかなり逆上り、明治後半以降。政府は小学を通して、「日本人としての仲間意識」を持たせる政策を行ない、次第にエスカレートしていった。ピークは第二次世界大戦の時であった。その意識は終戦でどうなったのだろうか。確かに、民族主義は影を潜めた。でも、「日本」という大枠は崩れたが、仲間意識追求心は残り続け、家庭や学校を通して戦後生まれの世代にも受け継がれ、以上書いた様子にもなったとも考えられる。心理的な問題だから、物証はないにしろ、そのような気がしてならない。

  因みに、仲間関係と友情は全く別のものである。昔の僕も両者の言葉の区別が付かなかったが、何かの仲間でなくても友人になれた人達はネット以前にもたくさんいる。逆に、何かの会の仲間で一緒にコンパして楽しんでも、すぐに縁が切れた人たちも多い。友情には互いの個性の尊重があるから、良いものだと思う。でも、一緒に何かするだけで個性を認め合わない関係は僕の価値判断では、良くないになる。

   以上は世界的にも当てはまる。今もかなりの国がそうかも知れない。「ドイツ民族の仲間意識」を非常に尊重したドイツはナチスを生んだではないか。ある若い伝道師は「同じ人間という仲間意識を持たないとダメだ」と在日韓国人差別問題に因んで言っていた。でも、そのような仲間意識は可能なのか。可能として、何かの宇宙人と戦争になった時だけだと思う。自分の近い方が仲間意識になることをその人は気が付いていなかったようだ。第一、新約聖書を読んでも、イエスは仲間意識は尊重しなかった。そのキリスト教関係は明治から仲間意識を尊重してきたが、非常におかしい。愛と仲間意識は根本的に違うわけである。仲間意識は内向きで狭いが、愛は外向きでどこまでも広いわけだから。伊藤節男無教会伝道師も僕にそのように教えてくれた事も思い出します。


差別構造の根本理由

2021-05-27 10:54:40 | 日記
世界の人類のほぼ全員が自分中心の狭い見方ばかりするからだと思われる。そこに力関係と経済が絡み、今の世界になっているわけである。


  日本の健全者を例にとると、まず、自分が本位。自分と違う立場の障碍や難病を持つ人、その他のマイノリティの事は無関心になりがち。または、上べだけの同情とか。「マイノリティ」でも、自分と別の文化を持つアイヌや琉球、在日韓国人たちにはもっと冷たい例が非常に多い。そのマイノリティよりも外国人のことには無関心の例が更に多い。「外国人」でも、同じ黄色人種の韓国人や中国、ベトナム人よりも、白人種に冷たく、一番差別されるのは黒人系統らしい。テニスの大阪なおみ選手も自ら差別を受けた経験があるのだろうか、アメリカの黒人差別事件を数年前に抗議しましたね。僕も同感でした。大阪なおみ選手はしっかりした考え方を持つ人だと思います。


どこの国の人たちも古代から以上の通りでしたね。自分中心だから、それに感覚的に、人種的・文化的に「より近い」人たちと「仲間関係」を作り、仲間をまとめる為の王様や貴族も設置し、普段は他の仲間の人たちには無関心。食料の取り合いが他の仲間と生じた時は「戦争」にもなった。仲間関係は発展し、次第に国家になった。仲間=国家と言って良いものです。その二つの根は元々は自己中心の見方=エゴですね。近代以降、王政が各国で崩れ、民主国家になっても、エゴの土台は変わらなかったから、ベトナム侵略戦争とかも起きた。民主制のはずのアメリカでは黒人や先住民、アイルランド系などへの差別が深刻だし、韓国系と黒人が相互に差別し合うなどの事も起きています。フランスやイタリアでは、イスラム系への差別が深刻だし。「差別の根は天皇制や各国王制、北朝鮮などの疑似王制」とプロテスタント系の人たちから聞いた事がありますが、それでは、アメリカやフランスの問題は説明が付きません。もっと根が深いわけです。

  今年になり、フェイスブックで日本に住むロシア人の一人から交友を求められました。何分、僕のファンらしく、それはありがたい事です。僕はロシア語は判ませんが、その人は日本語が完璧に判るので、応じたわけです。次第に相手の事を考えていくと、肌の色も日本人とは違うし、韓国系や中国系の人たちよりも強い差別とか、本人は気が付かなくても、冷たい視線も問題意識の薄い日本人から受けている事も察せられるようになったし、問題意識を持つ人たちもエゴの見方は消えない例が多いから、同様である事も察しが付きました。僕自身もエゴを持つ日本人には違いないし、身障者やハンセン氏病元患者たちにも差別意識は持っているわけですね。したがって、その人を傷つける事のないようにしていきたいです。気持ちを広く持って。自己中心の見方は狭くて、思えばバカらしいですが。

  世界の人たちも10%でも、広い見方ができるようになれば、戦争も、差別も消えて、非常に重い障碍を持つ人たちでも生きられる地球になりますよ。




コロナ悲報

2021-05-26 10:29:36 | 日記
 ついに、感染させた患者の中から自殺者が。痛ましいです。例えば、インフルエンザや結核ではそのようなことは聞いた事がないのに。ハンセン氏病を更に連想させます。自殺者に祈ると同時に、コロナへの特別扱いのおかしさも感じます。単に感染恐怖だけでもないものがコロナとハンセン氏病には見られます。この二つの病気にかかると、「一段下の人間」に落ちてしまうという意識が世間にあるわけです。極めておかしい。僕には詳しい事は判りませんが、そのような事のない日本にしたいものです。外国ではどうでしょうか。...。 (様々な理由から、日本のハンセン氏病元患者は自殺を多くしています。その事が重なって見えますね)


「経済=お金」は本当か

2021-05-24 17:18:37 | 日記
今朝の各局のニュースに「ビット・コイン急落」と出ていた。ビット・コインとは、投資のためにネット上に作られた架空のお金である。投資のお金類は変動が激しく、いつかは暴落して大損するわけである。


  そのニュースを聞いて、小学2年くらいの時の社会科の勉強を思い出した。「海の近くに住む人が魚を、山の近くの人が果物を与え合いました」と。まだそのような言葉は先生は使いませんでしたが、これが経済の始まりですね。必要なものを互いに求め合い、与え合う。そこに交換に便利な道具であるお金がいつの間にか作られ、今に至っているわけです。でも、基本的には「魚と果物の交換」が経済です。いつの時代も。資本主義の発生の時もそうでした。

  でも、いつの間にか、経済=お金になり、お金を求める為の仕事になった。買い占め・売り惜しみをして儲けようとする人たちも出た。日本でも江戸時代からあったようですが、明治・大正とそのような事件があり、大正期の1918年にはお米の値段が上がり、暴動にもなっています。1972年に共産ロシアで凶作になり、世界から小麦を大量に買い付け、それを見た商社が小麦に限らず、食料を買い占めるようなり、日本でも大豆から豆腐や納豆が値上がりしたわけです。当時の僕は高校生でしたが、社会科の先生が激怒し、「数年前、台湾で商社がお米の買い占めをして儲けようとしたため、陸軍が押し掛け、社長は即銃殺。(当時の)台湾は戦争状態に法的にはなっているから、銃殺もできるのです。日本ではあり得ませんが、殺されても仕方ないです」と話されていたのを覚えています。そのほか、詐欺師も後を絶ちません。その典型例がオウム真理教の教祖の麻原ですね。他に、ギャンブルとかも。


  経済=お金だと世界のほぼすべての人々が思っている以上は、そして、お金に人間も自然も支配される社会構造である以上は、以上のような事もたくさん起きるのではないでしょうか。更には、仕事=お金と思っている以上は。商社の買い占めは社長だけではできませんね。社員たちが協力して行われる。その社員たちも「買い占めは仕事」だと思っていたわけです。経済=お金、仕事=お金なのか、一緒に考えたいと思います。今日は経済の事は書かない予定でした。でも、「ビット・コイン急落」のニュースを見て、僕の書いている小説よりもはるかに大事なことに通じている事に気が付き、書きました。介護問題にも絡みます。仕事や経済=お金ならば、介護関係は成立しないからです。農業にも言えるし。教育にも言える。その他、和歌山セレブ殺人事件を見ると、恋愛や結婚=お金という意識も、薄いかもしれませんが、世間にもあるようですね。他にもたくさん関係している事でしょう。「お金」とは何でしょう...。