澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

伊豆見元・教授は学歴詐称をしているのか?(New)

2017年04月25日 05時27分30秒 | 社会

  6年前、本ブログは「伊豆見元静岡県立大学教授は学歴詐称をしているのか?」という一文を書いたことがある。昨日のデータでは、この記事に40人ものアクセスがあり、朝鮮半島有事に関連してか、今なお関心が高いことが分かった。
 私自身はほとんど関心が失せていたのだが、改めて伊豆見元氏に関するWikipediaにアクセスしてみて、驚いた。6年前と今とでは、その経歴表示が全く変わっていたからである。(下記のとおり)
 
 一見して明らかなのは、重村智計氏(早稲田大学名誉教授)がその著書で指摘した韓国留学の部分が、完全に抜け落ちている。伊豆見元氏は重村氏の指摘に反論することもなく、「朝鮮問題専門家」として静岡県立大学教授を務めあげ、さらに私立大学教授に天下りしている。経歴・学問的業績は、学者たるものの生命線であるはず。こんな不可解な疑問が素通りされて、何も知らない第三者は、「朝鮮問題の権威」として伊豆見教授のご託宣を聴かされる。
 今からでも遅くはない。当事者間でぜひこの疑問を明らかにしてほしいものだ。


《Wikipediaによる経歴~2011年5月時点》

   1969年3月 - 東京都立広尾高等学校卒業
   
1973年4月 - 東京外国語大学外国語学部 教務補佐員(-1979年3月)
   
1974年3月 - 中央大学法学部卒業
   
1977年3月 - 上智大学大学院 国際関係論専攻博士課程前期(修士)修了
   
1979年4月 - 財団法人平和・安全保障研究所研究員(-1986年5月)
   
1981年2月 - 韓国延世大学校韓国語学堂修了
   
1982年2月 - 韓国延世大学校政治学大学院研究課程修了
   
1986年6月 - 財団法人平和・安全保障研究所 主任研究員(-1987年3月)
   
1987年4月 - 静岡県立大学国際関係学部 助教授(-1995年3月)
   
1991年9月 - ハーバード大学国際問題センター 客員研究員(-1992年8月)
   
1992年9月 - 英国ニューカッスル大学東アジア研究センター 客員研究員
   
1995年 2月 - 米国平和研究所 客員研究員
        4月 - 静岡県立大学国際関係学部 教授(-現在)

 《Wikipedia~現時点での経歴》

       1974年 - 中央大学法学部卒業[3]
       1977年 - 上智大学大学院外国語学研究科博士課程前期修了[3]
       1979年 - 平和・安全保障研究所研究員[6]
       1986年 - 平和・安全保障研究所主任研究員[6]
       1987年 - 静岡県立大学国際関係学部助教授[6]
       
1987年 - 静岡県立大学大学院国際関係学研究科助教授

       1991年 - ハーバード大学高等研究員[6]
      
1995年 - 静岡県立大学国際関係学部教授[6]
       
1995年 - 静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授[2]
       
2003年 - 静岡県立大学附属現代韓国朝鮮研究センターセンター長[6]
       
2016年 - 静岡県立大学定年退職[8][9]
       
2016年 - 東京国際大学国際戦略研究所教授

       2016年 - 静岡県立大学名誉教授[13]
   
2016年 - 静岡県立大学附属現代韓国朝鮮研究センター名誉センター長[13]

 

 今

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マンホールの蓋さがし

2017年04月24日 19時51分54秒 | hobby

 家の前のマンホールの蓋(ふた)が割れてしまった。



 近くのDIYの店に行ってみたが、在庫はなく、取り寄せも難しいという返事。この店は、以前、洗面所のシャワーの蛇口を探した時も、全く同じ回答だったので、細かな注文にはあまり対応したがらないと分かった。そこで別の店を回ってみて、ようやくそれらしき蓋を見つけた。寸法はほぼ一致するのだが、深さが合うのかどうかよく分からず、もう一度家に帰って確かめた。ようやく購入して、マンホールの掃除をしてから、蓋をしてみたら、このとおり。

 この新しい金属製の蓋は、三千九百円也。車が通っても大丈夫だ。これまでの蓋は、車が通るのを知りながら、業者がより安価な歩道用の蓋を使ったので、このように割れてしまった。
 こんな些細なことだが、何か充実感を感じた一日だった。

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八田與一像破壊の裏に日台離反を画策する中国の影(黄文雄)

2017年04月21日 13時05分05秒 | 台湾

 八田與一像破壊事件について、「台湾の声」に掲載された黄文雄氏の論評を以下に転載させていただきます。

 

【黄文雄】八田與一像破壊の裏に日台離反を画策する中国の影 

● 台湾で「日台の絆の象徴」八田與一像の頭部切られる ダム建設指導の技師

 八田與一の像が壊されました。ノコギリで頭部を切断したようです。このニュースの第一報は、事件発覚を知らせるもので、まだ犯人は捕まっていませんでしたが、その数時間後には犯人が判明しました。

 犯人は、元台北市議だった男で、女と二人で犯行に及んだとのことです。本人がFacebookで犯行を白状し、自ら出頭したようですが、案の定、中国との統一支持派で日台友好を快く思っていない輩です。以下記事を一部抜粋しましょう。

 男は1958年生まれで、現在は台湾の急進統一派の団体「中華統一促進党」に所属。94年に統一派の政党「新党」から台北市議に当選し、1期務めた。任期中、市幹部を殴り起訴された。また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている。男は自身を日本統治時代の義賊になぞらえる発言も投稿。像の頭部を指すとみられる「八田さん」を、中華統一促進党の「党本部に届ける」などとする記載もあった。

 ● 台湾・八田像損壊犯は元台北市議だった FBで公表し出頭

 この中華統一促進党というのは、台湾の三大マフィア組織の一つ、「竹聯幇(ちくれんほう)」の元幹部で、「白狼」という異名で呼ばれる張安楽氏が2005年に自らが総裁となって結成した政党です。

 とはいえ、張安楽は台湾にいたのではなく、有価証券偽造などの罪で台湾当局から追われていたため、1996年から17年にわたって中国に潜伏していました。そして2013年に台湾に突然帰国し、台湾当局に逮捕されたのです。

 ● 伝説の大物マフィア「白狼」を逮捕・保釈 台湾

 しかし、多額の保釈金を支払って保釈され、以後、中華統一促進党の活動を展開しているのです。張安楽は中国で逮捕されたわけでもなく、中国潜伏中に中華統一促進党を結成しました。そのため、台湾の撹乱組織として中国政府の意向を受けている可能性は十分にあります。

 実際、中華統一促進党は、旧日本軍の軍服を着て、民進党本部に「感謝状」を届け、民進党を「媚日」だと批判するパフォーマンスを行うなど、たびたび騒動を起こしています。

 ここで少し八田與一についておさらいしておきましょう。日本統治時代の台湾に土木技師として台湾に渡り、各都市の上下水道の整備に従事した後、発電と灌漑事業に従事しました。

 八田の台湾での功績は数えきれないほどありますが、何より台湾に貢献したのは嘉南平野に造ったダムです。正式名称を「烏山頭ダム」といい、八田はその設計・監督を務めました。嘉南平野はもともと洪水、干ばつ、塩害にあえぐ地域で不毛地帯でした。そこへダムを造ることで、穀倉地帯へと変貌させたのです。

 烏山頭ダムの満水貯水量は1億5,000万トンで、これは黒部ダムの75%に相当します。さらに、八田はダムを造るだけでなく、「三年輪作法」という農作方法を採用しました。これは、1年目には稲を栽培し、2年目にはあまり水を必要としないサトウキビ、そして3年目には水をまったく必要としない雑穀類の栽培をするという輪作農法です。

 これにより15万haの耕地を灌漑することができ、米栽培、そして砂糖栽培が飛躍的に成長し、台湾南部は大穀倉地帯となりました。水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍。ダムの規模は東洋一でした。

 その業績は国民中学の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されており、最後まで貿易が赤字だった朝鮮とは異なり、台湾が早くから黒字に転じたのは農産物のお陰であると言い切っています。

 ● 台湾経済を変えた日本人 ‐ 八田與一(はった よいち)の偉大なる功績

 また、八田は台湾の現地人を差別することなく、現地人従業員をとても大切にしたと台湾で伝わっています。台湾人からも慕われていた八田ですから、ダムの完成時には銅像建立話が持ち上がりました。しかし、八田はこれを固辞しつづけました。

 そこで、八田の思いを忖度した地元民や周辺の者たちが、偉そうな立像ではなく、ダムを見下ろしながら思案にふける八田の姿の銅像をつくったと言われています。

 八田與一は1942年5月、フィリピンの綿作灌漑調査のために広島の宇品港から大洋丸に乗船して出航したものの、途中でアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、八田も死亡したのです。そして八田の妻・外代樹は、1945年9月、八田の後を追うように烏山頭ダムの放水口に身を投げました。

 八田の台湾への貢献および、台湾人に分け隔てなく接した態度は、台湾の人々からも非常に尊敬されています。蒋介石時代には、大日本帝国の建築物や顕彰碑が次々と壊されましたが、八田與一の銅像は地元の人々の協力で隠され続け、守られてきたのです。そして、1981年に、八田ダムがよく見渡せる場所に、八田與一の墓とともに設置されたのです。

 そのような、台湾人にとっても思い入れのある八田與一像の首が、中台統一を主張する統一促進党の幹部によって切断されてしまったわけです。ちなみに、統一促進党は、中国で沖縄の中国領有を主張する「中華民族琉球特別自治区準備委員会」という組織ともつながりが囁かれています。もちろんこれは中国政府の息がかかっています。台湾独立阻止と沖縄独立を目論む中国とつながりのある統一促進党が、日台の絆の象徴である八田與一の像を破壊したということは、ある意味で、わかりやすい構図です。

 5月8日には八田與一の命日にあわせて式典が予定されていることもあり、今回の事件によって壊された銅像の修復が急がれますが、そこで登場したのがわれらが奇美グループの創始者である許文龍氏でした。ダムに設置されている銅像を模したものを奇美美術館が所蔵していることから、切断された頭部に美術館所蔵のものの頭部を接着させると申し出たのです。

 ● 壊された八田與一像、台南・奇美博物館が週内に修復へ/台湾

 台湾経済はこうした名士に支えられている面があります。彼らは、戦後何もない状態から財を築いて現在の台湾経済を支えてきました。もちろんそれは、彼らの血のにじむような努力の賜物ですが、その努力ができたのは、八田ダムのような日本統治時代に築かれた国家としてのベースがあることも忘れていません。だからこそ、彼らは日本に感謝し、日本を愛し、日台友好のための支援を惜しまないのです。このメルマガでも以前に取り上げたエバーグリーングループの創業者であり、東日本大震災のときにポケットマネーで10億円の寄付をした張栄発氏もその一人です。

 それに比べて、今回の事件を起こした人物の幼稚さは際立っています。台湾では、統一派と独立派の対立は常に存在していますが、こういうバカげたことをするのはいつも統一派です。前述したように、中国の意向を受けて日本人の台湾へのイメージを貶め、日台離反を画策しようとしている可能性もありますが、かえって逆効果ではないでしょうか。

 台湾人にしてみれば、中国に対する嫌悪感が増大しますし、日本人にしても台湾に対する知識がここ数年で深まっていますから、大陸派が行ったということはすぐに分かるでしょう。中国が「一つの中国」を声高に叫べば叫ぶほど、台湾での独立気運の高まり、そしてそれをぶち壊そうとする大陸派がいるということが、日本人にも意識されるようになっています。

 台湾の大陸委員会は、中国の人権活動家による難民申請を検討する用意があると発表しました。政治亡命者は受け入れられなくても、長期滞在を提供することはできるとの見解を公式に示しました。台湾は、統一派たちの幼稚な言動に少しも動揺ないばかりか、中国の人権活動家を支援しようとしています。

 李登輝から始まった民主国家台湾は、今、蔡英文総統に受け継がれ民主国家としてあるべき姿を引き続き追い続けています。中国との差は広がるばかりだし、独立こそ認められていませんが、国家としてあるべき姿は具現化しています。今後も統一派による嫌がらせは何度もあるでしょうが、台湾は揺るぎません。

 『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html

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宇野重昭氏の訃報

2017年04月16日 14時18分41秒 | 社会

 最近になって、宇野重昭氏の訃報を知る。

 宇野重昭(1930-2017

 このブログで「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」について書いたことがあり、宇野先生の薫陶を受けたゼミ生の方々は本当にいい先生に巡り合ったのだなあと改めて思った。私は、宇野先生が兼任講師できていた大学で授業(中国共産党史)を聴いただけなのだが、その熱心な講義、温かな人柄は実に印象的だった。
 社会人になってからは、一度だけ講座の講師をお願いしたことがあった。それと、父が教師をしていた中学校に、ご子息の重規氏が転校してきたというエピソードを父から聞いた記憶があるくらいだ。もちろん、宇野先生はそんなことをご存知のはずはない。

 けれども、不毛の砂漠のような私の学生時代、宇野先生の授業だけは干天の慈雨と言ってよかった。

 晩年、その宇野氏が教え子である安倍首相に対して「安倍君は間違っていると涙ながらに苦言を呈した」と伝えられた。これを書いたのは、「安倍叩き」の急先鋒である評論家の青木理。だから私は、これは事実を伝えていないはずだと直感した。

 天下の秀才だった宇野先生から見れば、私立大学生などは「凡才」そのものだっただろう。もちろん、成蹊大学生だった安倍晋三氏も含めて。だが、宇野先生の授業には、学生を尊重し、育て上げようとする「教育」に対する熱意がひしひしと感じられた。同時期、衛藤瀋吉東大教授が兼任講師として行った授業とは対照的というより、対極的だった。と言うのも衛藤氏の授業は、格下の私立大学生を見下した、自慢話のようなものに過ぎなかったからだ。

 宇野先生の教育の成果は、前述の「50周年記念誌」に遺されている。こんな先生を持てたゼミ生は、やはり羨ましい。

 心よりお悔やみ申し上げたい。

 

宇野重昭氏が死去 元成蹊大学長

2017/4/5 22:22  日経新聞
 宇野 重昭氏(うの・しげあき=元成蹊大学長)1日、肺炎のため死去、86歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男で東大教授の重規氏。

 専門は現代中国政治。島根県立大学長もつとめた。著書に「中国共産党史序説」など

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お花見あれこれ(2017)

2017年04月12日 21時49分57秒 | 散歩

 今年の桜は、天候不順のためか、満開になっても花が散るのが遅い。そこで、お花見にでかけてみた。

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「田中克彦 自伝」を読む

2017年04月07日 12時36分00秒 | 

 「田中克彦 自伝~あの時代、あの人びと」(田中克彦著 平凡社 2016年12月)を読む。
 著者・田中克彦(1934.6.3~ )は、著名な言語学者で一橋大学名誉教授。モンゴル学者でもあり、言語や歴史など幅広い分野で大きな足跡を残してきた。
 
 3年前、私は東京外国語大学で「モンゴル近現代史」(二木博史教授)の授業を聴講した。受講生(学生)が15名程度、教授の手作りのレジュメ、資料で進められる、極めて密度の高い講義だった。そのとき、かつてこの大学のモンゴル語学科卒業生であり、一時期、同学科の専任講師を務めたことのある著者・田中克彦の名前は、授業の中にもたびたび表われた。このモンゴル語学科は、1911年、大陸進出という国家目標を念頭に設置された。(当時は東京外国語学校蒙古語科)だが、戦後、東西冷戦が先鋭化して、モンゴル人民共和国が「鉄のカーテン」の向こう側にいってしまった関係で、モンゴル語の有用性が問われる時期が長く続いた。それでも、東京と大阪の外国語大学に設置されたモンゴル語学科は廃止されることはなく、研究、教育活動は地道に続けられてきた。都立戸山高校に在籍していた著者が東京外国語大学モンゴル語学科を受験すると決めたとき、高校の教諭は「どうしてそんな言語を選ぶのか」「本校始まって以来だ」と言ったという。



 当時の国立大学には一期校、二期校の区別があり、旧帝国大学、旧制大学に由来する大学は一期校(3月3日から入試)、旧制の高等専門学校に由来する大学は二期校(3月23日)とされた。東京外国語大学はその出自からして二期校であったが、問題だったのは、二期校が一期校に落ちた人が初心貫徹できずやむを得ず入る大学という位置づけだった点にあった。田中克彦は本書の中で「一期校は東大に願書を出し落ちた」と書いてあるのだが、対照的に故・中嶋嶺雄(前国際教養大学学長、元東京外国語大学学長)は、自分が一期校のどこを受験したのか一言も触れていない。あたかも、東京外大中国語学科を第一希望に入学したかのように、その著書には書かれている。中嶋嶺雄が一期校である東大や一橋大を受験せずに、東京外語大だけを受けたなどとは、だれ一人思わないだろうにもかかわらず…。

 田中克彦はモンゴル語学科を選んだ理由を次のように書いている。

「ぼくがモンゴル語科を選んだ理由は、他の語科の案内に比べて最も学問への道を強調していることだった。就職に有利だとか、そんなハシタナイことは書いていなかった。書こうにも書けなかったからであろう。…モンゴル語とは対照的に、もうかる商業言語であることを強調して目立っていたのはスペイン語である。…スペイン語科というところは、モンゴル語科というところに比べて何という下品なところだろうと思った。」(本書、p.130-1)

 モンゴル語の需要はゼロという時代が続き、著者が入った年は学生が四人。それが教授、助教授、助手、外国人講師に教わったのだから、なんというぜいたくであろうか、と著者は言う。この状況を、坂本是忠(元東京外語大学長 モンゴル学)は、「一期校を落とされた学生たちは、親に金があれば、早稲田か慶応にいくはずだ。金もなく、力もないやつが来るのが外語なんだよ」と言っていたという。(p.133)

 著者はモンゴル語学科を卒業した後、一橋大学大学院社会学研究科に進学する。当時の二期校には、大学院が整備されていなかった。研究者を志すとすれば、一期校の大学院に行くしかなかったが、一橋大社会学研究科は二期校の優秀な学生の入学を受け入れていた。二木博史、佐藤公彦教授(現在は名誉教授)も同じような足跡をたどったようだ。もっとも最近、一橋大はSEALDsの奥田某を明学大から入学させたりしているが。

 このように、ユニークなコースをたどった著者のエッセイ(本著)は、文句なしに面白い。大学紛争については、次のように書く。

「1968年から69年にかけて発生した大学紛争は、東京外語にも、かなり激しい形をとって及んだ。……ぼくが最も失望したのは、たとえばインドネシア語学科では、それまで教えられてきた、オランダ語の授業をやめろという要求である。なぜなら、オランダ語はインドネシアを支配してきた植民地権力の言語だからというのである。この要求の理由は、学生が単にラクをして、外国語を学ぶ時間をなるべく減らしてもらいたいというのが動機である。考えてみれば、東京外語の学生のかなりの部分が、一期校に入れず、こころならずも、外国語学習を主な目的とする大学に入らざるを得なかったという、みずからの不満を訴えていることになるのだから、つまり、大学のあり方と、彼らの要求との間にずれがあるのだから、彼らが東京外語にいることじたいが間違っていることになる。…そのばあい学生がやるべきことは、みずからすすんで大学を去るか、その誤った存在である東京外語を解体して廃校にすべきだということになる。」(p.236-7)

 著者の立場は、学生に十分に同情的だったと思われる。大学紛争のしこりがのこったためだろう、その後著者は岡山大学に移るが、そこでのモンゴル関係プロジェクトは、東京外語の学長、日本モンゴル学会会長だった坂本是忠に潰されてしまう。そのとき、「東京外語のH君に参加させるという提案をのみ、そこでHを通訳として付けた」(p.255)と書かれているH君とは、二木博史先生のことかもしれないと思った。

 他にも面白いエピソードがたくさんある。
 著者は、西ドイツに留学中、ボンで篠原一(故人 東大名誉教授 ヨーロッパ政治史)とアパートの部屋を引き継いだ。留学を伸ばしたいと相談したら、篠原は「二年なら大丈夫だよ、もっとも東大法学部なら三年だっていられるんだがね。ただし東大でも、ほかじゃだめだよ。法学部じゃないとね」と言ったとある。これは好意的に書かれている一文なのだが…。篠原一の授業は、(兼任講師として来ていた某私大で)聴いたことがあるので、いい先生だったと付け加えたい。

 また、モンゴル史の大家・岡田英弘とボン大学で会った時の話だが、「岡田さんは、ぼくがソ連に行こうとしているのを知って、ぼくを車に乗せて、ソビエト大使館に連れていってくれた。岡田さんがぼくを自分の車に乗せてくれたのは、これが最初にして最後であった。…かれには当時若い奥さんがいた。その奥さんはぼくを一目見て毛嫌いしてしまったらしく、あんな下品な人を、あなたは乗せるべきではないと言ったらしい。家柄のいい女だとかで、岡田さんはその若い妻のいいなりだった。その後、岡田さんはずいぶん長い年月をかけて、離婚を達成し、今の宮脇淳子との結婚をとげたのである。」(p.192-3) 

 東京外語出身者のホープだったのかも知れない中嶋嶺雄については、「東京外語の紛争中に、中嶋嶺雄が勤務評定法を考え出した。教員の評価は、管理、教育、研究と三つの領域に分け、それぞれ三分の一とし、研究には極めて低い評価しか与えなかった。こういう人は、根っから、学長になるために大学に勤めているような人である」(p.257)と一刀両断にしている。

 様々なエピソードからは、著者の反権力的な自由人たる人物像が浮かび上がってくる。

 


 

 

 

 

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有本香の言語力

2017年03月30日 10時02分56秒 | マスメディア

  朝鮮半島有事がささやかれる昨今だが、地上波TV局は国民に一度たりとも注意喚起などせず、「森友問題」「小池劇場」の報道にうつつをぬかしている。朝昼のワイドショーを見られるような身分になってからだいぶ経つが、この種の番組には違和感だけが先に立つ。枝葉末節に大騒ぎするだけで、モノゴトの本質を報道しようという姿勢が全く見られないからだ。

 そんななかで、ジャーナリスト・有本香の発言の鋭さは爽快だ。昼の「バイキング」(フジTV系)に出演しているが、その番組の裏話を「虎の門ニュース・楽屋入り」で語っていて、「芸能ムラ」の住人である芸能人の無個性、長いものには巻かれろ的根性を暴露している。「同調圧力」のこの国では、本来「一匹狼」であるはずの芸能人でさえ「場の空気」を察し、「バスに乗り遅れるな」式の行動しかとらないことが分かった。



 「虎の門ニュース」での舌鋒の鋭さは言うまでもない。下記に貼り付けた最新版(3月30日放送)では、「森友」「豊洲」にうつつを抜かし、北朝鮮の脅威、安全保障問題を報道しない既存メディアは、「特定の勢力に乗っ取られている」かも知れないと看破している。

 私が有本香の存在を知ったのは、彼女が新彊ウイグル、チベット問題を採りあげ、中共(中国共産党)政権を鋭く批判していたからだ。この問題に正面から取り組めば、大手マスメディアからは「お声」がかからない。それを承知でここまで発言力を高めてきた彼女の意志と能力は、本当に大したものだと思う。

 彼女は東京外国語大学卒業だが、専攻した語学はなかなかわからなかった。ところが、ネット上で東京外大の「インド、パキスタン語専攻」の同窓会(外語会)が作成した「所在不明」リストの中に「有本香」が載っていたので、ヒンディー語専攻だったことが分かった。「虎の門ニュース」の中で彼女は「大学は小さな村みたいな感じで面白くなかった」という話をしていたから、早稲田のようなマンモス大学の方がぴったりだったのかもしれない。だが、彼女の的確な言語力、分析力は、やはり学生時代の恵まれた教育環境の中で培われたのだろう。

 国際性を売り物の女性評論家は数多いるが、有本が他の人と異なるのは、はっきりと非西欧からの視点を持っていることだろう。それゆえ、その発言は鋭く深みがある。

 

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「ワイルド・ストリングス」~ウェルナー・ミューラーの新譜CD

2017年03月06日 23時26分25秒 | 音楽・映画

 今年になって、ワーナーミュージック・ジャパンがウェルナー・ミューラー楽団(Werner Müller & his Orchestra)のオリジナル・アルバム(LP)のCD化に乗り出した。3月末までに計7枚のCDがリリースされる。

 ウェルナー・ミューラーが活躍したのは、1950年代後半から70年代まで。高齢者の世代には、リカルド・サントスの別名の方が通りがいいかも知れない。最大のヒット曲であった「真珠採りのタンゴ」(The Pearlfisher)を知らない人はいないと言っていい。



 私は、7枚のうち、次の3枚のCDを購入して聴いてみた。



 上から「ワイルド・ストリングス」(1962年録音)「ベラ・イタリア」(1969年)「ルロイ・アンダーソン曲集」(1964年)。  

 どれもがVocalion社(英国)によってすでにCD化されているが、今回の日本盤CD(ワーナーミュージック・ジャパン)の音質は、英国盤をはるかに凌駕する。2017年に至って、こんな素晴らしい音の新譜CDを手にできるとは夢にも思わなかった。若者はウェルナー・ミューラーの名前さえ知らないだろうから、ジジババがせっせと買わなければ、続くリリースは望めないかもしれない。懐かしいなと思ったり、興味を持った方は、最後のチャンスかもしれないので、購入を考えてみてはいかが?

 「ワイルド・ストリングス」の一曲目は、次の「そよ風と私」(The Breeze and I)。アルバムタイトルどおり、緻密な弦のアンサンブルが疾走する。

 ついでに、ウェルナー・ミューラー自身が登場する珍しい映像が、こちら。

 

 

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晩節を汚した「石原天皇」

2017年03月03日 18時00分50秒 | 政治

 昨日、「虎の門ニュース」(下記の映像参照)は、ジャーナリスト・有本香が石原慎太郎にインタビューした映像を放送した。大方のマスメディアが「小池劇場」に肩入れし、石原叩きを図っているという観点から、石原擁護を狙ったとも思える内容だった。

 私は、舌鋒鋭くウイグル、チベット問題を論評する有本香に好感を持っているので、「虎の門ニュース」の石原を見て、石原の立場も大変なんだなあと、シンパシーを感じたりした。

 だが先ほど、石原の記者会見をTVで全部見て、驚きあきれ果てた。手柄は自分、疑念のある案件については、副知事、局長等に責任を転嫁するのを見て、在職時あれだけ権勢をふるった男がこんな卑怯な奴だとは思わなかった。

 石原知事時代、都職員だった私の知人は、部下の身心障害者(身障者枠採用)の不祥事に関して、「管理監督責任」を問われて、早期に退職を余儀なくされた。このときの局長は、石原知事お気に入りの石原もどきの「独裁者」だったという。このような組織では、累がトップに及ぶのを避けるため、部下はさっさと切り捨てられるのが常だ。

 きょうの石原は、「独裁者」というよりも、「石原天皇」に見えた。すべてを「よきにはからえ」と部下に押し付け、「豊洲」の責任は知らん顔。都庁に出勤するのは、週一日だけ。ネポティズム(縁故主義)の権化で、自分の一族だけを偏愛し、他者の命運については一顧だにしないという点で、独裁者より「石原天皇」が相応しい。

 石原の老残、醜悪ぶりは、百条委員会でさらに白日の下にさらされるだろう。因果応報、身から出た錆、ざまあみろ等々、「石原天皇」の落日を見ようと、多くの関係者がその日(3月17日)を待ち望んでいるはずだ。「小池劇場」を囃し立てるマスメディアも腹立たしいが、自己保身、唯我独尊の老・石原の戯言は万死に値する。

 

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「ラ ラ ランド」を見た

2017年03月02日 02時50分53秒 | 音楽・映画

  昨日、朝一番で隣県のシネコンに行き、映画「ラ ラ ランド」(La La Land)を見てきた。週日の朝なので、観客の入りは五分の一程度、そのほとんどは中高年だったが、中には大学生風のカップルもいた。

 ほとんど映画を見ない私が、なぜ隣県まで足を伸ばして、この映画を見たのには理由がある。知り合いが松竹の株主優待カードで好きな映画を見るように勧めてくれたからだ。「海賊と呼ばれた男」はとてもいい映画だったが、この「ラ ラ ランド」は、オッサンである私に相応しいチョイスなのかどうか、自分でも疑問に思った。

 「ラ ラ ランド」(La La Land)は、文字通りLa=ロサンゼルスを指し、全米の中では特異な街・ハリウッドに集う、夢見人(Dreamers)のサクセスストーリーを描いた作品。

 その昔、「サウンド・オブ・ミュージック」などのミュージカル映画を見たときは、異国の映画とはいえ、そこに感情移入や一体化をすることができた。つまり、一瞬であっても映画の主人公になったような気分、高揚感に浸ることができた。しかし、「ラ ラ ランド」では、もはやムリ。その結果、枝葉末節な部分が気になってしまった。

 まず、ジャズの現況。主人公であるエマ(ミア・ドーラン)がジャズを「エレベーターの中で流れるBGM」だと言う場面がある。「エレベーター・ミュージック」とは、当たり障りのない、消耗品の音楽というニュアンスが強い。ジャズ・ピアニストを目指すライアン(セバスチャン・ワイルダー)が往年のジャズ巨星をリスペクトしても、LA(ロサンゼルス)にはもはやジャズの居場所はなくなっているのだ。エマとライアンが別々の道を成功裏に歩んだあと再会する場面があるが、このときライアンが弾くこの映画のモチーフとなる曲は、まさにジャズとは程遠い「ラウンジ・ピアノ」(あるいはカクテル・ピアノ)に過ぎない。

 次に、「ラ ラ ランド」の人種構成について。この映画の主要人物は、すべて白人。黒人は音楽に関連して登場するが、基本的には、往年のハリウッド映画を彷彿とさせる白人第一主義の映画だ。アジア人(東洋人)は一人として登場しない。日本をイメージさせるのは、駐車場に並んだトヨタ・プリウスだけ。中国人に関しては、白人ビジネスマンが携帯電話で「謝謝!(Xie Xie!)」と会話する場面、そして「中国がニカラグアで運河を掘ろうとしている」という会話が登場する。

 映画終了時に延々と続く字幕を眺めていたら、この映画には香港資本が関与していることが分かった。バブル期の日本を彷彿とさせる中国の勢い、対する日本は「プリウス」だけかあ、と嘆息。
 まあ、オッサンの感想はこんなものでした。 

 

 

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梅園を散歩

2017年02月27日 22時36分38秒 | 散歩

 親交のある台湾人ご夫妻が来日。2月25日から3月5日まで八泊九日の予定で、横浜、伊豆半島、デイズニーランドなどを巡るという個人旅行。

 一昨日、一緒に今が旬の梅園、古寺などを散策した。昨年は台湾でご子息の結婚式があり、私たちも参加。台湾の結婚式を実体験した。

 現在も旅行中のCご夫妻。日本旅行がいい思い出になりますように。




 


 
 

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「毛沢東~日本軍と共謀した男」(遠藤誉著)

2017年02月20日 01時34分09秒 | 

 遅ればせながら、「毛沢東~日本軍と共謀した男」(遠藤誉 新潮新書 2015年)を読む。



 本書の書評については、国際政治学者である藤井厳喜氏の映像があるので、下記に貼り付けた。

 著者の遠藤誉には「卡子(チャーズ) 出口なき大地」(1984年)という自伝的著作がある。二十年以上も前、私はこの本を読んで、大きな衝撃を受けた。新京(長春)における生き地獄のような実体験が、そこには記されていた。

 毛沢東や中国共産党について、私たちの世代が読まされた本と言えば、ルポルタージュでは「中国の赤い星」(エドガー・スノー)、「中国紅軍は前進する」(アグネス・スメドレー)、通史では「中国現代史入門」(岩村三千夫)を筆頭に左翼学者が書いた本が推奨されていた。E.スノーなど米国人ジャーナリストのルポは、今から見れば、中共(=中国共産党)のプロパガンダを鵜呑みにした内容であることは明らかなのだが、当時はそんなことは夢にも思わなかったのである。

 私は、宇野重昭先生の「毛沢東」「中国共産党史序説上・下」を熟読した。客観的に書かれた名著で、講義も聴講した関係上、今でも記憶に鮮やかだ。さらに「中国共産党史研究」(石川忠雄)も米国の中国研究の影響を受けた「客観的」研究としてよく知られていた。

 だがしかし、従来の研究のほとんどは、多かれ少なかれ路線闘争の道筋を描き、その勝者の正当性を主張するという中共党史(中国共産党の公認史観)に依拠して書かれているので、コミンテルンとの関係を筆頭によく分からない点が多かった。
 
 その点、遠藤誉「毛沢東」は、類書とは全く違う。中共を持ち駒と考えるコミンテルンの謀略性、さらにコミンテルンさえも手玉に取った毛沢東の冷酷非情が描かれる。国民党政府軍が日本軍と戦うように仕向け、中共の軍隊である八路軍の温存を図り、大衆に対しては巧妙なプロパガンダを仕掛ける。ただ待つのは日本の敗北のみ。本書の帯に書かれている毛沢東の言葉「日本軍の進攻に感謝する」がすべてを物語っている。 



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「祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~」

2017年02月11日 10時58分34秒 | マスメディア

祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~」(熊本放送制作 テレ朝系放送)を部分的に見た。
 冒頭部分を見ていないので、断定的なことは言いたくないのだが、1970年代初め、「朝日新聞」が大々的にキャンペーンを張った「中国の旅」(本多勝一記者)を連想してしまった。「祖父の日記」の孫、井上佳子が、熊本放送のディレクターであり、この番組の制作責任者であることも、放送内容の客観性、公正性を疑わせる結果になっている。自分の息子まで登場させて「感想」を言わせるのには驚いた。ある意味、この番組は井上一族の「私物化」の産物なのかもしれない。
 
 本多勝一の「中国の旅」は、いわゆる「南京大虐殺」、「平頂山事件」を採りあげ、「旧日本軍」の残虐性を告発するとともに、「中国人民」に対する謝罪の必要性を説いた。だがしかし、本多が中国で取材したという中国人生存者の聞き取りは、事実確認の裏付けも行われず、ただ先方の「証言」を書き写しただけということが、今や明らかになった。「中国の旅」が「朝日」に連載された時期は、日中国交回復直前の1971年だったから、この連載はまさに「朝日」の中共政権支援キャンペーンだったわけだ。

 「祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~」に本多勝一の臭いを感じるのは、「祖父の日記」の客観的検証をせずに、その内容をそのままエモーショナルに垂れ流し、「戦争は悪い」「今の平和を守ろう」というキャンペーンに利用していることだ。日中戦争の経緯、当時の中国大陸の政治状況、国民政府と共産党(中共)との関係など、基本的な事実を視聴者に示すこともない。これでは、戦争体験者がほぼ消滅しつつある現在、どんな番組を作っても文句を言われたり、事実誤認を指摘されたりする心配はなくなった。だから「祖父の日記」を使って、『青少年に見てもらいたい番組』を作ろうと思った、と疑われても仕方がない。

 要するに、手持ちの「素材」で反戦平和を訴えようなどする、番組制作手法そのものが安易な「お花畑」的な発想なのだ、と言えるのかもしれない。「青少年に見てもらいたい番組」こそ、情緒に訴えるのではなく、実証的な内容を心掛けるべきなのだ。

 

《番組紹介より》

第31回民教協スペシャル 祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~

2017年2月11日(土) 10:00 ~ 10:55

番組概要

日中戦争で戦死した祖父が、死の五日前まで書いていた日記…中国にその軌跡をたどる。79年を経て、家族で向き合った祖父の戦争…家族に届いた祖父からの伝言とは?

番組詳細


◇番組内容私(井上佳子)の祖父、井上富廣は、1938(昭和13)年、中国戦線で戦死している。27歳だった。当時祖父には妻と3歳の息子がいた。私の祖母と父だ。召集されるまで祖父は熊本の片田舎で米を作っていた。祖父は出征までの四年間を日記に記している。大地を耕して作物をつくる喜び、伴侶を得たことの嬉しさ、そして軍国の一翼を担いたいという強い思い。四冊の日記は祖母から父に渡り、今私の手元にある。

◇番組内容2祖父は日記帳の一日一日を細かい文字でびっしりと埋めている。天候に右往左往しながらも野良の作業が進む喜びや、結婚して二人仕事となり、おしゃべりしながら精を出す様子など、決して経済的に恵まれない暮らしの中でも前を向いて生きる姿は心に沁みる。そして今回、祖父が中国に行ってからの日記と戦地から妻ツギエにあてた19通の手紙が遺品の中から新たに見つかった。戦地に発ってからの祖父の詳細な足取りがわかった。

◇番組内容3祖父は門司港を出航して上海に上陸後、わずか47日で戦死していた。日記は、上海に上陸直後、家をなくしてさまよう中国人を憐れに思う言葉で始まっている。しかし、前線に近づくにつれ、祖父は次第に戦闘に駆り立てられていく。殺さなければ殺される戦場で、祖父も狂気に飲み込まれてしまったのだろうか。残された日記は、私にとって祖父からのかけがえのない大切なメッセージだ。祖父の戦争を、一日一日を、私が伝えたい。
◇ナレーション井浦 新(俳優)
◇制作企画:民間放送教育協会
制作著作:熊本放送
◇おしらせ☆番組HP
 http://www.minkyo.or.jp/

この番組は、テレビ朝日が選んだ『青少年に見てもらいたい番組』です。

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マントヴァーニのカスケーディング・ストリングス

2017年02月09日 19時13分12秒 | 音楽・映画

 カスケーディング・ストリングス(Cascading Strings)とは、マントヴァーニ・オーケストラの代名詞。彼のオーケストラが奏でる、滝が流れ落ちるようなストリングス(弦楽器)の響きを指します。

 「魅惑の宵」(Some enchanted evening)
の冒頭部分。バイオリンが4部に分かれエコー効果が生まれる。

 

 そのカスケーディング・ストリングスの考案者は、ロナルド・ビンジ。

ロナルド・ビンジは、1910年英国のダービー生まれ。貧しかったため正規の音楽教育を受けられず、映画館(当時はサイレント映画)のオルガン奏者として働きながら、独学で作曲・編曲を学びました。
 マントヴァーニとの出会いは1935年、それから長いマントヴァーニ楽団のアレンジャー兼アコーディオン奏者として活躍。1951年には、マントヴァーニの楽団テーマとして知られる「シャルメーヌ」(Charmaine)をヒットさせ、カスケーディング・ストリングスを世界中にとどろかせました。
彼は、マントヴァーニとの関連だけでなく、作曲家としても高く評価されています。マルコ・ポーロ・レーベルからリリースされた「ビリティッシュ・ライト・ミュージック・シリーズ」の中の『ロナルド・ビンジ』(アーネスト・トムリンソン指揮スロヴァキア放送交響楽団 Marco Polo 8.223515)には彼の主要作品が収められています。
 たとえば「The dance of snowflakes」は、カスケーディング・ストリングスの手法で初めて作られた可愛らしい曲です。

彼の伝記「Sailing By」(Mike Carey著 Tranters,Derby 2000)は、マントヴァーニと共に歩んだ彼の足跡をたどるだけでなく、英国のライト・ミュージック(Light Music)の歴史を知る上でも貴重な資料です。このライト・ミュージックというジャンルは、英国では豊かな内容があり、「軽音楽」と直訳されるべきものではありません。ちなみに、「Sailing By]はビンジの代表作として知られた曲です。

ロナルド・ビンジは、「ムード音楽」系の録音も数々手がけました。最近、彼の二枚のアルバム「Summer Rain」 「If you were the only girl in the world」が2in1CDで発売されました。このライナー・ノーツは伝記の著者であるマイク・キャリー(Mike Carey)が書いています。
 

 事実、番組では東京交響楽団がマントヴァーニの「魅惑の宵」を見事に再現しました。

実は1963年マントヴァーニが来日したとき、多くのファンの関心は、レコードと同じようにカスケーディング・ストリングスが再現できるのか、という点に集まりました。
マントヴァーニは、東京文化会館や大阪フェスティバルホールなどのコンサート・ホールで、PAを使わずに見事にこのサウンドを披露しました。

 マ ントヴァーニの音楽の特徴は、「カスケーディング・ストリングス」と呼ばれる、滝が流れ落ちるような、美しい弦の響きにあります。それは、電気的に処理された音響ではなく、マントヴァーニの盟友ロナルド・ビンジ(Ronald Binge)の巧みな編曲によるものでした。 マントヴァーニ楽団は、45人のオーケストラの7割を弦楽器とし、バイオリンを4つのパートに分けました。それぞれがメロディ・ラインを少しずつずらして弾くと、あたかもエコーのような効果が生じます。彼は、この響きを楽団のトレード・マークとしました。

編曲、それともエコー装置の産物

中野雄著「丸山真男 音楽の対話」(文春新書1999)に次のような記述があります。

「マントヴァーニ・オーケストとスイス・ロマンド管弦楽団という英デッカの二大看板オーケストラのLPが、一時、両楽団の来日を境にさっぱり売れなくなってしまった。理由はレコードと実際の演奏の乖離に驚いた愛好家にソッポを向かれてしまった。英デッカの録音というのは世界最高水準で、……出来上がったレコードの音は、ある意味では現実の生演奏より美しい。」 「(両楽団の轍を踏まないように)ポール・モーリア楽団が来日したときには、マイクやスピーカーを縦横に配置して徹底的に事前試聴を行ったそうです。…エンジニアには“どの席で聴いてもレコードと同じように聞えるようにマイク・アレンジやミキシングをチェックしてほしい”と課題を与えた。」(pp.199-200)

 

 

 

 作曲家としてのマントヴァーニ

 

作曲家としてのマントヴァーニの活躍は、あまり知られていません。
実は、1950年代に英国でナンバーワン・ヒットとなった「孤独なバレリーナ」(The Lonely Ballerina)は、マントヴァーニの自作曲でした。.
ですがP.Lambrechtというペンネームが使われています。(左記の楽譜参照)
また、デビット・ホイットフィールド(David Whitfield)が、1950年代末にヒットさせ、’60年代にはジェイとアメリカンズ(Jay & Americans)がリバイバル・ヒットさせた「カラ・ミア」(Cara Mia)もマントヴァーニの自作曲です。
両曲とも作曲者がペンネームで記されているため、マントヴァーニの作品だとは、案外知られていないようです。

マリオ・デル・モナコも「カラ・ミア」を唱っていますが、そのCDのライナーノーツには「作曲者(の経歴)は不明」と記されています。

「マントヴァーニ生誕100年」の年である2005年、Vocalion社(英国)からは"Mantovani by Mantovani+All time romantic hits"がCDでリリースされました。
"Mantovani by Mantovani"は、タイトルどおり彼の自作曲10曲を収録しています。(LPとしては1974年にリリースされた。)

 

 
 
 
 
 
 

    

 
 
 
 

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マントヴァーニの音楽人生 Musical Life of Mantovani

2017年02月09日 14時45分14秒 | 音楽・映画

 アヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニは、1905年11月15日イタリア・ベネツィアに生まれ、1980年3月20日英国ウエールズのタンブリッジで死去した。
バイオリン、ピアノを演奏し、音楽監督、指揮者、作曲者、編曲者として活躍。楽団リーダーとしては最高の成功者であり、ポピュラー音楽の歴史上、最もレコード・セールスを記録した人でもある。

彼の父親はミラノ・スカラ座の首席バイオリン奏者をつとめ、トスカニーニやマスカーニ、リヒター、サン・サーンスのもとで、後にはコベント・ガーデン劇場管弦楽団(ロンドン)で演奏した。

マントヴァーニ自身は、父親よりもむしろ母親から音楽家になるよう励まされたと言われる。最初にピアノを習い、後にバイオリンを学んだ。1912年、家族そろって英国に移住し、16歳になったとき、ブルッフのバイオリン協奏曲第1番を弾き、プロとしてのデビューを果たした。その4年後、ロンドン・メトロポール・ホールで自分の楽団を立ち上げ、ラジオ放送にも乗り出した。

1930年代初頭、ティピカ楽団を結成し、ロンドン・ピカデリーの有名レストランからランチタイムのラジオ音楽番組を放送するとともに、リーガル・ゾノフォンにレコード録音を始めた。

1935年から36年にかけて、彼は米国で2曲のヒットを放った。「夕日に赤い帆」と「夜のセレナーデ」である。このころの代表作を集めたものに「The Young Mantovani 1935-39」がある。
1940年代にはいると、マントヴァーニはロンドン・ウェスト・エンドのショー「Lady behave」
「Twenty to one」「Met me Victoria」などの音楽監督を務めた。彼は、ノエル・カワードの「パシフィック1860」や「クラブのエース」にも加わり、オーケストラ・ピットの指揮者としてルビー・レイン、パット・カークウッド、メリー・マーチン、サリー・グレイ、レスリー・ヘンソンなどを伴奏した。

このころ、英国デッカに録音したレコードには、「緑のオウム」「Hearmy song Violetta」「Tell me Marianne」(ヴォーカル:Val Marrall)がある。
レコード・セールスが期待できるアメリカ市場を目標に定め、彼はさまざまなアレンジを試みたが、たどり着いたのが、編曲者ロナルド・ビンジが思いついたという「カスケーディング・ストリングス」「タンブリング・ストリングス」「カスケーディング・バイオリン」などと呼ばれる手法だった。
「カスケーディング・ストリングス」は、彼の楽団のトレード・マークとなったが、1951年録音の「シャルメーヌ」で初めて使われた。この曲は、もともと1926年のサイレント映画「栄光何するものぞ」のために書かれたものだった。

マントヴァーニは、「ワイオミング」「グリーンスリーブス」「ムーラン・ルージュの歌」「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」などをシングル盤でミリオンセラーにした。
彼自身の作品には、「愛のセレナータ」「ロイヤル・ブルー・ワルツ」「赤いソンブレロ」「ブラス・ボタン」「カラ・ミア」などがある。
「カラ・ミア」は、1954年デビット・ホイットフィールドがマントヴァーニの伴奏で歌ってミリオンセラーを記録し、UKチャートで10週間1位を記録した。彼はこの自作曲を自ら弾くピアノをフィーチュアして再録音している。40名のオーケストラにピアノが加わるというアレンジは、当時異例のことだった。

マントヴァーニは、アルバム・アーティストとしても優れていた。デッカの優れた録音技術にも助けられ、100万枚のステレオLPレコードを売った最初の人となった。1955年から1966年の間、彼は28枚のアルバム(LP)を米国チャート・トップ30に送り込んだ。
ロシアを含めて世界中を演奏旅行したが、最も人気が高かったのは米国で、彼の音楽は「ビューティフル・ミュージック」と呼ばれた。

21年間彼のマネージャーを務めたジョージ・エリックによると、米国ツアー中にマントヴァーニが病気になり、キャンセルもやむを得ないと思われたが、聴衆は決してチケットを払い戻しせず、翌年のコンサートを待ち望んだという。
 (参考;"The Guinness Encyclpedia of popular Music" )

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