澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「東アジア史の実像」(岡田英弘著作集6)を読む

2016年08月28日 17時04分26秒 | 

 「岡田英弘著作集Ⅵ 東アジア史の実像」を改めて手に取ってみた。岡田英弘氏は東洋史(モンゴル史)の碩学で、「岡田史観」というべき歴史観には数多くのファンがいる。もちろん、私もそのひとり。

 本書は、1968年から86年ころまでのエッセイ、史論を集めたもの。(詳細は、下記のとおり。)

 「欧米人も日本人も混同しているが、清朝は満洲人の国家である。しかも、清朝時代の二百六十数年間を通じて、清朝は一種の連邦であった。満洲、モンゴル、シナ、チベット、新彊が、連邦を構成する単位である。そして満洲人、漢人、モンゴル人、チベット人、それに新彊のいわゆるウイグル人に、それぞれ適用する別個の法典があり、それに基づき別々に統治されていた。
 しかも、漢人が帝国全体の統治に関与したという事実はない。帝国を支配していたのは満洲人である。したがって、日清戦争で日本が勝った相手は清帝国であり、中国ではなかった。日本に割譲される前の台湾は、満洲人の領土であった。つまり日清戦争は、日中戦争ではない。そのことを現在の中国人は故意にぼかしている。」(p.358 「高揚する”一つの中国、一つの台湾論”」)

「経済的な面でも、日本の植民地統治は、世界の帝国主義の中でも例のない統治であった。というのも、植民地への技術移転をたいへん積極的に行ったからである。資本を投下し現地で産業を興そうと、非常に努力した。砂糖も、じつはキューバ産を買えば、はるかに安く輸入できたにもかかわらず、台湾経済を維持するために、二割増しで台湾の砂糖を買っていた、ということも指摘された。これらはすべて、台湾の学者が指摘したことである。私としては、それを聴いて、日本統治がいかに良かったかがわかり、たいへん気をよくした。
 みなはそこまで口に出して言う勇気はないが、本音は、台湾人のアイデンティティと台湾文化は日本時代に作られたのであり、それ以前の清朝時代ではなかったと言いたいのである。」        (p.372 「李登輝の深謀、江沢民の焦慮」)

「台湾人の対日感情が良いのには、二つ理由がある。台湾では、1947年2月28日に起こった二・二八事件で、国民党の中国人が台湾人を大虐殺した。それ以来、こんなヤツらに統治されるのは嫌だと、中国人に対して気持ちが冷めてしまった。そして、少なくとも日本人は、裁判にかけないで銃殺するようなことはしなかったということで、日本の株が急に上がった。
 もう一つの理由は、日本領有以前の台湾が国家ではなく、蕃地だったからである。そこを日本が統治して開発したのであり、台湾の人たちの意識はまったく日本人になっていたのに、突然、1945年に中国人に切り換えさせられた。そこのところで、ずいぶん傷跡がある。
 韓国人が、日本を目の敵にして攻撃するのは、重大な理由がある。それは、韓国文化というものの実体がないからである。今の韓国文化と言われるものは、日本の文化の模倣に過ぎない。だから、今でも韓国では日本語の歌をそのまま放送することや、日本の映画を放映することに、断乎として反対している。日本からの文化の流入を自由化したとたんに、韓国文化が跡形もなく崩れ去ってしまう、という危機感にかられているからである。そのことを韓国人に言うと、烈火のごとく怒るが、本当のことである。そういう点を、われわれは理解しなければならない。韓国人のアイデンティティというのは、日本人を憎むことしかないのである。」(p.527-8 講演「台湾人は中国人か」)

 上記の引用は、アットランダムに過ぎず、他にも従来の歴史認識が覆されるような、鋭い指摘が目白押し。ネトウヨの中には、この岡田氏の著作を参考にして、引用する向きも多いようだ。
 だが、重要な点は、著者のエッセイは単なる思い付きなどではなく、世界的な東洋史学者としての実証的な文献研究から抽出された成果に基づく発言だということ。つまり、凡百の評論家や歴史学者が特定の政治的立場・イデオロギーで発言するのとは全く異なる。
   
  「岡田英弘著作集Ⅵ 東アジア史の実像」

台湾、満洲、チベット、韓半島……シナ文明と密接に関わる周辺地域を、どう見るか。
シナ文明の影響を歴史的にどのように受け、それぞれの緊張関係のなかで今日の複雑な関係を形成しているのか、鮮やかに一望してみせる。
[月報] 鄭欽仁/黄文雄/樋口康一/クリストファー・アトウッド

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 はじめに

第Ⅰ部 清朝とは何か
 満洲族はいかに中国をつくったか
 清朝史研究はなぜ重要か
  〈満洲族、シナ制覇の第一歩〉サルフの戦いを検証する 後金国ハン・ヌルハチと明国
  〈帝国を築き上げた三名帝〉康熙帝・雍正帝・乾隆帝とはどんな人物だったのか
 康熙帝・朱筆の陣中便り
 清朝の多様性を理解するためのキーワード

第Ⅱ部 台湾はどんな歴史をたどってきたか 紀元前から1970年代まで
 台湾通史 台湾人はこうして誕生した
 「ニクソン訪中声明」直後の台湾を訪れる
 田中訪中を前に蔣経国が言うべきだったこと
 日台空路はこうして切れた 大平外相がもたらした、北京も望まなかった断絶
 鄧小平はついに「二つの中国」を認めた
 国民党と台湾人と『美麗島』事件

第Ⅲ部 台湾の命運を握るもの 1980~90年代の情勢分析
 李登輝の登場と「台湾人の台湾」への道
 高揚する「一つの中国、一つの台湾」論
 李登輝の深謀、江沢民の焦燥
 総統選挙直前になぜ中国は軍事威嚇を強行したのか 総統直接選挙と台湾海峡危機
 台湾をめぐるコラム三題

第Ⅳ部 近隣諸国の歴史と社会
 近隣諸国は安保継続を望んでいる
 韓国史をどう見るか 東北アジア史の視点から
 高句麗の壁画発見余話
 チベットの運命 ダライ・ラマ十四世のノーベル平和賞受賞に寄せて
 パンチェン・ラマの悲劇
 イリのシベ族、広禄先生のこと 中華民国時代の新疆の風雲
 東南アジアが意識する文化大国日本
 ベトナム五百年の執念 歴史に見るカンボジア征服の経緯
 東南アジアの心と言葉
 中曽根ASEAN歴訪と日中関係

第Ⅴ部 発言集


 清朝史関連年表
 台湾史関連年表
 おわりに 初出一覧 図表一覧 人名索引 事項索引

出版社からのコメント

□シナの影響下で盛衰してきた地域□
 本書は、満洲、台湾、チベット、韓国、東南アジアなど、シナの周辺で、シナ文明の影響を受けながら盛衰してきた諸国家および諸民族を扱う。
 第Ⅰ部「清朝とは何か」は、東洋史学者としての私の基礎にある満洲研究の総覧になっている。清朝を建てた満洲人がどのような人たちで、清朝がいかにいわゆる中華帝国ではなかったかが明らかになる。
 第Ⅱ部と第Ⅲ部は、台湾関係の論考を集めた章である。私の中国経験は大陸ではなくもっぱら台湾であった。一九六二年に満洲語文献の調査のために初めて台湾を訪問してから、一時はほとんど毎年のように台北を訪れて故宮博物院で研究調査をしていた。
 第Ⅳ部は、韓国、チベット、新疆、東南アジアなどについて、四十年前から二十五年前に掲載された論考であるが、内容は今読んでも少しも古くなっていない。長い歴史のなかの半世紀程度は、本質的なことには関係がないのである。

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東北地方でM5超の地震が続いている…

2016年08月22日 15時56分05秒 | 社会

 リオ五輪騒ぎでほとんど周知されていないが、この三日間、東北地方でM5以上の地震が続いている。(下表参照)

 不安を煽るつもりは毛頭ないが、東北大震災(2011.3.11)の前々日、前日の二日間で、M5以上の地震が異常なほど多発した事実を思い起こすと、今後の動向に注目せざるをえない。

各地の震度に関する情報

情報発表日時

検知日時

震央地名

マグニチュード

最大震度

平成28年08月22日15時16分

22日15時11分頃

宮城県沖

M5.2

震度3

 

 

 

 

 

平成28年08月21日21時58分

21日21時49分頃

三陸沖

M5.1

震度2

 

 

 

 

 

平成28年08月21日01時32分

21日01時28分頃

三陸沖

M5.2

震度1

平成28年08月21日01時15分

21日01時10分頃

三陸沖

M5.5

震度2

平成28年08月21日01時02分

21日00時58分頃

三陸沖

M5.9

震度3

 

 

 

 

 

平成28年08月20日18時06分

20日18時01分頃

三陸沖

M6.0

震度3

平成28年08月20日14時20分

20日14時15分頃

三陸沖

M5.3

震度2

 






 

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五輪喧噪、生前退位、そして尖閣危機

2016年08月11日 08時14分32秒 | マスメディア

 史上まれにみる猛暑と騒がれた今夏だが、平凡な夏に過ぎなかったことは明らか。気候的にはそうであっても、世間は何やら騒がしい。



 これは尖閣諸島に集合した230隻もの中国”漁船”の写真だというのだが、TVで放送されたのを見たことはない。TVでは「中国脅威論を煽らない」が内規となっているので、衝撃的な映像を視聴者に見せて、国民の間に”ナショナリズム”を生じさせることはタブー。なので「中国にはいろいろな内部事情があるから」という噴飯ものの解説で誤魔化そうとしている。

 政府やマスメディアにとって、勿怪の幸いだったのがリオ五輪。「今日も金メダル・ラッシュ」と騒いでいれば、尖閣諸島をめぐる危機を国民に知らせずに済む。
 この国のエリートたちは、今なお「愚民には知らしむべからず」と思っているのかもしれない。

 天皇の「生前退位」については、心情論が中心になって、コトの本質がはぐらかされている気がする。80歳を超えた闘病中の老人が、年間何百日もの「公務」に携わるのはお気の毒だ。これが一般的世論だろうが、何と浅はかな認識かと思う。天皇は、私人でも一般国民でもないのだから、日常的感情で陛下に”思い”を寄せても、思わぬしっぺ返しがくるのがオチだ。

 先の天皇夫妻のパラオ訪問は「平和を願う」天皇の「美談」として伝えられた。だが、父親である昭和天皇の言動を思い起こすなら、現天皇が本当にあの戦争の意味を理解しているのかどうかが、極めて重要だ。父親は軍部に翻弄された存在に過ぎず、戦争責任はなかったと考えているのか、そうではないのか?現在の天皇自身の歴史認識が伝わってこなければ、パラオ訪問だって御身可愛さゆえのパフォーマンスと言われても仕方ない。「美談」はいったん疑ってかかるというのが、世界の常識ではないのか。

 思わず本音を書いてしまったが、止めの一発はこれ。東京五輪なんて、本当に開催できるのだろうか?目下、世間は「おもてなし」「日本は素晴らしい」という空気に満ち満ちているが、自画自賛、付和雷同を一枚めくれば、そこには深い不安感が横たわっているはずだ。私は、東京五輪など、60%以上の確率で開催できないと思っている。肝心なことから眼をそむけ、一過性のバカ騒ぎに熱中するこの傾向。そんなに長く続くはずもない。
 

 
 
 

 

  

 

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小池都知事が追及すべき東京五輪招致疑惑

2016年08月06日 07時39分42秒 | 政治

 小池都知事が誕生して、東京五輪をめぐる数々の疑惑が語られ始めた。まことに結構なことだと思う。

 このブログでは、「東京五輪招致 竹田JOC会長の疑惑と利権」という記事を書いたことがある。竹田JOC会長が東京五輪招致に当たってIOC関係者に不正献金をしたことは、「週刊文春」などで採りあげられたものの、舛添要一の「疑惑追及」の陰に隠れてしまった。何故、東京五輪招致が不正献金をしてまで強行されたのか、その首謀者は誰なのか追及されてしかるべきだ。

 竹田会長については、IOC不正献金問題とは別に、自らが経営する旅行会社がJOCの旅行業務を一手に受託しているのではないかという疑惑がある。

 あの東日本大震災・福島原発事故があってもなお、東京五輪招致を強行した理由が、竹田恆和、森喜朗などの五輪関係者の私腹を肥やすためだったとあれば、それこそ売国奴の所業だと思うのだが…。ぜひ小池知事に追及してもらいたいと思う。

 

竹田氏がIOC役員改選に立候補検討 疑惑の行方踏まえ判断

 竹田会長は12年にIOC委員に就任。東京五輪招致では招致委員会の理事長として開催都市決定の投票権を持つIOC委員へのロビー活動で中心的役割を果たした。14年からはIOCのスポンサー集めを担うマーケティング委員長を務めている。JOC内には、自国開催の五輪が4年後に迫っていることから、竹田氏のIOC役員就任を望む声もある。

 日本人では猪谷千春氏が09年までIOC副会長を務めた。

                         《産経ニュース》

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鳥越俊太郎へ「ブーメラン」的淫行報道

2016年07月21日 17時37分12秒 | 政治

 「1989年、宇野宗佑首相(当時)の不倫問題をめぐる告発記事を特報し、結果的に退陣に追い込んだこと」(下記の記事参照)で名を売った鳥越俊太郎(当時「サンデー毎日」編集長)。その彼にブーメランが返ってきたような記事が、今日の「週刊文春」に掲載された。私もこの記事を読んでみたが、その内容は極めて詳細、具体的で、とても捏造、でっち上げ記事とは思われない。「火のないところに煙は立たず」のことわざどおり、鳥越が関西大社会学部教授をしていた時期(2003-5年)、なにがしかの「事件」があったことは間違いない。鳥越はわずか三年でこの「おいしい」ポストを辞めているし、「週刊文春」によれば、事件によって鳥越は関西大側から実質的な「出入り禁止」処分を受けているという。

 奇しくも鳥越俊太郎の後輩で東洋史家の宮脇淳子氏は「新聞記者は昔から”瓦版乞食”と呼ばれていた」と語っているが、この言葉はぴったり鳥越に当てはまるようだ。自惚れ、自画自賛、夜郎自大、英雄気取り、そして女癖の悪さに至るまで。今は「ジャーナリスト」などと気取っているが、所詮、「新聞屋」は品性下劣の輩なのだろう。

 ところで、前回と今回の都知事選報道を比較すると、放送法を遵守すべきTV各局の恣意的、世論操作的報道ぶりがよくわかる。前回の都知事選では、TV局は16名の中から「主要六候補」を選び出して、対等に報道した。六候補の中にドクター中松や家入某という泡沫候補を加えたのは、田母神候補の印象を薄めようとした世論操作だったことは今や明らかだ。今回は21候補の中から「主要三候補」のみ。山口敏夫(元衆院議員)や上杉隆(ジャーナリスト)など、世間に知られた名前があるのに、何故三候補なのか?「選挙公報」を見ていると、その理由が分かってくる。山口敏夫候補は東京五輪の不正献金問題と森喜朗の責任を鋭く取り上げているからだろう。JOC(日本オリンピック委員会)は伏魔殿。叩けば、途方もないスキャンダルが出てくるだろうから、特別な力がそうさせないような方向で動いてるとしか考えられない。さらに、「在日特権を許さない市民の会」代表の櫻井誠候補は、既成政党やマスメディアにとって、腫物(はれもの)のような存在だ。

 鳥越は伊達男気取りで大言壮語していても、小池百合子の「病み上がり」発言に対しては「ガン・サバイバーに対する差別だ」などと過剰反応を示す。他人を批判するときは、居丈高に英雄気取り、一方、自分のスキャンダルとなると、子犬のようにキャンキャン大騒ぎ。大体「ガン・サバイバー」などという言葉自体がふざけているし、常に自分を「正義の側に立ち、諸悪を追及する」立場に置く、ご都合主義がしらじらしい。自分を世の中の「最高位」に置こうとする自己愛、ナルシシズムは、それこそヒトラーとそっくりではないか?もしかして、少女愛好癖も似ているのかも知れない!

 

 こんな男が都知事になる可能性があるなんて、私には到底信じられない。もしそうなったら、都民の良識なるものを疑わざるをえない。

 まあ、鳥越知事は、一期四年勤められるはずもないから、それでもいいけれど。 

 

 

 

 

鳥越俊太郎候補「淫行」文春報道 「何か政治的な力が働いた」民進党会議で疑惑を否定

産経新聞 7月21日(木)11時53分配信

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 東京都知事選(31日投開票)に立候補しているジャーナリスト、鳥越俊太郎氏(76)=民進、共産、社民、生活推薦=は21日午前、民進党都連の選挙対策に関する会議に出席し、週刊誌に「『女子大生淫行』疑惑」と題する自身の記事が掲載されたことについて「記事内容は一切、事実無根だ」と否定した。

 鳥越氏は会議の冒頭、記事に関して「心ない誹謗(ひぼう)中傷を受け、心から悔しい。怒りでいっぱいだ」と言及。続けて「私は週刊誌の仕事をしていたから分かるが、単なる週刊誌の取材記事というより、何か政治的な力が働いているのではと思う」と語った。

 記事は21日発売の週刊文春(7月28日号)に掲載された。記事によると、鳥越氏は平成14年夏、当時20歳の大学2年生の女子学生を自身の別荘に誘い出し、「二十歳にもなって、そんなに性のことを知らないのか」と強引に迫った。また、翌日、東京に戻る車中で「ラブホテルに行こう」と誘ったという。

 現在はこの女子学生の夫になっている男性は記事で「妻のくるしみと比べるべくもありませんが、私もこの十数年、苦しんできました(中略)私がこうして告白したことで、妻はまた苦しむでしょう。それでも、あの男が都知事になることだけは許せません」と話している。

 鳥越氏側は20日に週刊文春編集部に抗議文を送っており、弁護団は21日にも刑事告訴する方針。

 

「『三つ指愛人』特ダネ」の鳥越氏へ 壮大なブーメラン?

 

J-CASTニュース 7月21日(木)17時1分配信

鳥越氏は「サンデー毎日」時代に宇野政権を退陣に追い込んだことでも有名だ

 東京都知事選(2016年7月31日投開票)に立候補しているジャーナリストの鳥越俊太郎氏(76)の過去の女性問題疑惑を「週刊文春」最新号が報じた問題で、鳥越氏は7月21日朝、民進党都連の選対会議で「週刊誌などで書かれていることは、一切事実無根」などと文春側を非難した。同じ頃、弁護団は名誉棄損と公選法違反の疑いで東京地検に告訴状を提出した。

 選対会議では、鳥越氏は「私は週刊誌の仕事をしていたから分かるが...」と前置きしながら、今回の記事は「どう見ても、ちょっと異常」で、「政治的な力が働いているとしか思えない」とも推測している。鳥越氏が「サンデー毎日」の編集長を務めていた1989年、宇野宗佑首相(当時)の不倫問題をめぐる告発記事を特報し、結果的に退陣に追い込んだことは有名だ。いわば政治家のスキャンダル記事の手の内を知り尽くしていたはずだったが、選挙期間中に自身に関する女性スキャンダルが掲載されるという皮肉な事態に発展している。

■「愛人になってくれたらこれだけ出す」と三つ指

 鳥越氏の陣営は、(首都圏などでの)発売前日の7月20日夜、文春編集部に抗議文を送り、刑事告訴に向けて準備を進めていることを発表していた。21日午前の会合では鳥越氏自身が

  「私は週刊誌の仕事もしておりましたので、分かりますけれど、どう見ても、ちょっと異常ですね」
  「政治的な力が働いているとしか思えない」
  「週刊誌等で書かれていることは、一切事実無根」

などと主張し、改めて潔白を訴えた。「週刊誌の仕事をしていたので分かる」と鳥越氏自身が述べているとおり、鳥越氏は自らが暴いた女性問題の記事で時の政権を退陣に追い込んでいる。

 鳥越氏は1988年4月にサンデー毎日編集長に就任した。それから1年ほど経った89年6月3日に宇野内閣が発足、それから3日後に発売されたサンデー毎日に、宇野氏の元愛人女性による告白記事が掲載された。記事は、宇野氏が女性に対して「もし自分の愛人になってくれたら、これだけ出す」と、相手の女性の指3本をにぎった、という内容で、月額30万円で事実上の愛人契約を結んでいたというものだ。その後、米ワシントン・ポスト紙も報じたため、国会質問でも取り上げられるなど、またたく間に騒ぎは広がった。これが影響して7月の参院選で自民党は惨敗し、宇野内閣は退陣に追い込まれた。

最近の「都知事選」記事でも当時のエピソード振り返っていた

 鳥越氏が事実上、時の首相の「首を取った」形で、鳥越氏も2016年7月20日付の毎日新聞朝刊(地域面)に掲載された「知事選 主な候補者の横顔」では、当時のエピソードについて

  「上に相談せず、クビをかけて自分の判断で世に出した。『やった』という思いと、一人の人生を狂わせるかもしれないという湿った気持ちが入り交じり、複雑だった」

と振り返ったばかり。07年11月13日の朝日新聞のメディア特集欄でも、

  「政治家であっても、不倫だけの話ならば、家庭内で解決されるべきだ。しかし、取材の結果、カネで女性を買っていたと判断したから、首相としての資質を問うことにした」

などと記事の公益性を強調していた。

 今回、鳥越氏側が刑事告訴した文春の記事では、

  「本稿の内容が日本の首都を預かる可能性のある人物の資質を厳しく問う内容である以上、これを報じることは広く公共性、公益性に資するものであると小誌は考える」

と主張している。

 

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2016 マントヴァーニ楽団コンサート

2016年07月16日 08時53分41秒 | 音楽・映画

 4月17日(日)夕、英国ボーンマス市パビリオン・センターで開かれたマントヴァーニ楽団のコンサート。今年も英国の友人からDVDとプログラムが送られてきた。
 

 ”The king of Strings” と題されたコンサート・プログラム

 マントヴァーニ(1905-80)が亡くなって、36年も経ったのに、今なおコンサートが開かれる理由は、”Cascading Strings"(カスケーディング・ストリングス)と呼ばれる、弦楽器の流れるような音の響きにある。ロナルド・ビンジが考案した手法で、弦楽器(バイオリンとビオラ)を4つのパートに分けて奏でられる。その手法を解説した映像とこのコンサートを開いた「マントヴァーニ楽団」(=The Magic of Mantovani Orchestra)による演奏があったので、次に引用させていただく。



 上述のコンサートの曲目及び演奏者(指揮者、コンサートマスター、ソリスト)は次のとおり。

 

  

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NHKは何故「簡体字」を使うのか?

2016年07月07日 13時10分52秒 | マスメディア

 先ほど、昼のNHKニュース(7月7日)を見ていたら、東京湾で見つかった遺体の身元が分かったと伝えていた。ニュースの詳細は、下記の「毎日新聞」記事のとおりで、そこでは遺体の名前を「楊梅」と伝えている。NHKニュースで私が驚いたのは、「東京湾の死体遺棄事件の被害者は中国人女性、杨梅さんと判明」と、その氏名を「簡体字」表記で伝えたところだ。

 言うまでもなく、「杨」は「楊」の簡体字表記。
 漢字を使う日中両国の放送協定では、当該国の漢字表記が原則。日本では「楊」と表記されなければならない。実は、NHKはこれが初めてではない。以前、「劉」を簡体字表記である「刘」として報道したのを見たことがあるから、こうした簡体字使用はもはや普通のことになっているのかも知れない。

 万が一、NHKが「人名は例外で、簡体字で表記されるのが普通の中国人であれば、簡体字で表記している」とか強弁するのなら、いずれ、毛沢東を「毛泽东」としなければ、つじつまが合わないことになる。中国大陸では、毛沢東は「毛泽东」であるけれども、香港・台湾では「毛澤東」なのであるから、この三つの違いをどう説明するつもりなのか。

 NHKニュースのテロップを作成する担当者が、「簡体字」は日本語の漢字に直して表記する、という原則を知らないのか、あるいはあえて無視しているのか?後者だとすれば、CCTV(中国中央TV)から派遣されてきた「工作員」かもと思えてくる。

 いずれにしてもNHKの報道は、全く信用できません…ね。

 

<京浜運河女性遺体>職業不詳の34歳中国女性と判明

毎日新聞 7月7日(木)11時35分配信

 女性の遺体が入ったスーツケースが見つかった運河の現場付近=東京都品川区で2016年6月27日、宮武祐希撮影

 東京都品川区の京浜運河でスーツケースに入った女性の遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課は7日、遺体は中国籍で住所、職業がいずれも不詳の楊梅(よう・ばい)さん(34)と発表した。入国管理局に登録された指紋で判明した。同課は死亡した経緯などを調べる。

 同課によると、楊さんは2013年9月に技能実習生として入国し、京都府内の自動車部品製造会社に勤務していた。勤務先が14年3月、「会社の寮からいなくなった」と京都府警に届け出た。

 遺体が入ったスーツケースは6月27日、品川区東品川2の京浜運河で見つかった。司法解剖で死因は特定できなかったが、死亡から1週間ほど経過していた。目立った外傷はなかった。

 スーツケース内には重りとみられる大きな石も入っており、同課は遺棄した人物が発覚を免れるために入れたとみている。【神保圭作、深津誠、春増翔太】

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FMラジオに流れる中国語の海賊放送

2016年07月03日 02時41分02秒 | 社会

 昨年末から中波ラジオ放送のFM化が進んでいる。TV放送の地上デジタル化が完了して、それまでのアナログTV放送の音声部分(FM電波)ががら空きになった。その周波数帯(90~108MHz)に従来の中波放送を割り当てた。「ワイドFM」と言われる放送だ。

 昨日の午前中、その「ワイドFM」を聴こうと思って、90MHzあたりにダイヤルを回そうとしたら、88MHz前後で中国語放送が入ってきた。在来の民放FM局が中国語番組を流しているのかなと思っていたら、どうも様子が違う。延々と続いたトーク番組の最後には「中央人民廣播電台」(中央人民ラジオ)と言う単語が聞き取れたので、これは中華人民共和国の公共放送を流しているのだと分かった。

 中波放送であれば、中国、朝鮮半島の強力な電波が混入することもありうるが、FM放送はその特性上、そんなことは考えられない。特に東日本(首都圏)においては…。
 だとすると、この中国語放送は、電波法違反の「海賊放送」としか考えられない。そこで、ネットで検索してみたら、いくつかの事例が見つかった。だが、私のケースとはちょっと違うようだ。

 さきほど、もう一度、同じ周波数帯を探してみたら、当該中国語放送は流れていなかった。今度、聴いたときは、音声を記録して、詳しい人に聞いてもらおうと思っている。
 

 

 

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「日本統治時代の台湾」(陳柔縉 著)を読む

2016年06月27日 23時30分12秒 | 

 「日本統治時代の台湾~写真とエピソードで綴る 1895-1945」(陳柔縉 著 PHP研究所 2014年)を読む。本書の原題は「人人身上都是一個時代」、2009年に台湾で刊行された。

 

 本書の原題は「人人身上都是一個時代」。日本統治時代の50年間、台湾には人々の普通の生活があったことを教えてくれる好著だ。1964年生まれの著者は、「日本語世代」の台湾人古老から聞き取りを進めるとともに、日本統治時代の新聞や雑誌を調べて、数々のエピソードを紹介する。
 その手法は、イデオロギー的な見方、すなわち植民地統治を断罪するのではなく、あくまで普通の人々の暮らしや意識を採り上げる。
 例えば、ヤマハピアノは台湾統治の初期から台湾で販売され、1920年代には多くの学生がピアノを弾いていた。また、日本統治時代の台湾においても、大陸から多くの出稼ぎ労働者が来ていて、双十節には中華民国国旗が掲揚されたという。他にも、数々のエピソードが盛り込まれている。そのどれもが、日本統治時代は、台湾の人々にとって、特別ではない普通の時代だったことを示している。はっきり言うならば、日本が去った後の蒋介石時代よりずっといい時代だったのである。台湾社会の近代化は、日本統治時代に進められた。交通、医療、産業、教育、行政制度など、日本統治時代に成し遂げられた社会インフラは、中国大陸よりはるかに進んでいた。これは朝鮮半島についても言えることなのに、「植民地支配」断罪が声高に叫ばれる中で、日本人自身が近代化遂行者としての誇りを忘れてしまったのだ。
 現在の台湾が「親日」と言われる理由もよくわかる好著だ。

 著者のインタビュー記事を以下に転載させていただく。

 

 日本と台湾が最も密接な関わりを持った日本統治時代。当時の台湾の人々からすれば異民族による統治は決して歓迎すべきことではなかっただろう。だが、どのような時代であっても人々は着実に自らの生活を営んでいた。そこには人間臭くも豊かなエピソードがあまた埋もれている。陳柔縉〔ちんじゅうしん〕『日本統治時代の台湾──写真とエピソードで綴る1895~1945』(天野健太郎訳、PHP研究所)はそうした一つ一つを丁寧に掘り起こしてくれる。 「歴史名探偵」とも言うべき旺盛な好奇心としなやかな行動力を兼ね備えた著者の陳柔縉さん。台湾人の立場から日本統治時代をどのように捉えているのか、お話をうかがった。

(1)なぜ日本統治時代に興味を持ったのか?

 

もっと台湾(以下、も):日本統治時代に関心を持つようになったきっかけは何ですか?

陳柔縉(以下、陳)私は以前、政治記者をしていました。特に政商関係をテーマとしていたのですが、政財界のキーパーソンたちの家族関係を調べ、インタビューしていると、必ず日本統治時代の話題が出てくるんです。どうしても避けられないテーマなんですね。

戦争中の日本についてはマイナスのイメージが強かったんです。ところが、インタビューをしていくと、日本統治時代は良かった、と語る人が多いんですよ。李登輝・元総統も「自分はかつて日本人だった」と語っていましたね。私自身の祖父にも「日本人と中国人、選べるとしたらどっちが良い?」とたずねてみたら、「もちろん、日本人だよ!」と返ってきました。ある高齢の大学教授はこんなたとえ話をしていましたよ。「日本統治時代の台湾はお嬢様。ところが、中国人がやって来て、そのお嬢様が無理やりヤクザと結婚させられてしまった感じ」(笑) 聞けば聞くほど、私自身が学校教育で習った歴史とは全然違う。祖父の世代は一体どんな体験をしたんだろう? どうして歴史の見方がこんなに分裂してしまっているんだろう? 真相を知りたいと思いました。

台湾が民主化される以前の歴史教育では、中国史を台湾へ接ぎ木するように持ってきただけで、1945年以前の台湾についてはほとんど無視されていました。日本統治時代についてのキーワードは皇民化、植民地統治、経済的圧迫…こういったステレオタイプだけで、その他のことは一切触れられません。この空白の時代はいったいどんな状況だったんだろう? 自分の住んでいる土地に根差した視点が欲しかったんです。

も:陳さんのご著書を拝読いたしますと、日常的に見慣れたものの由来とか、過去にあった意外な出来事とか、そういったエピソードを一つ一つ紹介していく語り口がとても面白いです。言い換えると、事実の積み重ねを通して、「上から目線」ではない見方で歴史を描こうとしていると理解してもいいでしょうか?

陳:そうですね。この本の原題『人人身上都是一個時代(一人一人に刻まれた時代)』の通り、一人一人が自分の歴史を持っていますし、また歴史を見るにしても一人一人が自分の歴史観を持つのは当然のことです。しかし、以前の台湾の学校教育では歴史の見方を押し付けられてきました。そうしたことへの反発から、何事も疑いをもって見るようになりましたね。私自身が学生の頃、法律を勉強したことも関係しています。自分自身で証拠を集めて、真相は何であったのかを調べる。総合的な判断によって自分自身の歴史の見方を組み立てていくことが大切だと思います。

も:日本統治時代について調べる際にはどのような資料が役立ちましたか?

陳:当時を体験した方々からうかがったお話が貴重な資料となります。そういったお話を記録しておくのも大切な仕事です。

も:当時を知る方々もすでに相当なご高齢ですが、焦りはありませんか?

陳:戦後も60年以上たってしまうと、ご存命の方々が覚えていることも日本統治時代後半の時期に偏ってしまいますね。台湾で生活面の発展が著しかった1920年代について語れる方はもうほとんどいません。焦ったところで、諦めるしかありません。自分でこの仕事をしながら、そうした限界は感じています。もっと前の時代を調べるには史料に頼るしかありません。例えば、『台湾日日新報』1 などは時代的に網羅されていますし、生活面の情報もたくさんあって役立ちます。

『日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #2

投稿日 : 2014年9月19日 | カテゴリー : Interview

 

 

(2)ディテールから当時の生活実感に迫る

 

も:『日本統治時代の台湾』の内容についてお話をうかがいます。タバコ工場の女子工員たちの意識調査が紹介されていますね。アンケート結果を見ているとなかなか面白いのですが、「つらいこと」として「中国語の勉強」を挙げている人がいます。これはどういうことなのでしょうか?

陳:ここでいう中国語とは、古典の中国語、日本で言う漢文のことです。このアンケートは戦争が始まる前に実施されたものですが、当時はまだ日本語が全面的に強制されていたわけではありません。例えば、『台湾日日新報』にも当時は漢文版があって、漢文が日本語と併用されていました。会社内のサークル活動で漢文を勉強するものもあったようです。普段は台湾語をしゃべり、日本語を勉強し、さらに漢文の勉強もしないといけない。サークル活動ですから任意なんでしょうけど、女の子たちの感覚からすれば、「やっぱり苦手だな、古臭くて役に立ちそうもないし、面倒くさいし…」。

も:そこは日本人の若者と同じ感覚だったかもしれません(笑)。若者の感覚という点では第2章「モダニズム事件簿」で色恋沙汰をめぐる騒動が取り上げられていますね。日本でも20世紀初頭は、古い道徳観から開放的な考え方への移行期で、こうした背景は台湾とも共通すると思います。ところで、「男女関係の乱れ」について、当時の日本では西洋化の悪影響と考える人がいましたが、台湾では日本の悪影響とみなされていたのが興味深いです。

陳:台湾での西洋化のプロセスは日本からもたらされたものですから、当時の台湾人が日本の悪影響と考えたのは当然でしょうね。日本で明治維新が起こったのは1868年、台湾を領有したのは1895年、だいたい30年のズレがあります。台湾の西洋化もやはり30年ズレると考えていいでしょう。

戦後の私たちの世代では、恋愛問題で自殺するなんて事件はあまりありませんでした。ですから、この当時、どうしてこんなに心中事件があったのか不思議な感じもします。古い道徳観の時代には恋のために死ぬなんて発想が最初からあり得ない。現代は誰を好きになろうが全く自由で、反対されることなんてないし、反対されたとしても勝手にすればいい。やはり、過渡期の現象なんでしょうね。

も:台湾で暮らしていますと、旧暦(太陰暦。台湾では農暦という)が今でも日常生活の中に根強く残っているのを実感します。対して日本は明治時代以降、太陽暦で完全に一本化してしまいました。例えば、お正月といえば、日本では1月1日ですが、台湾では春節です。日本統治時代にも旧暦はしぶとく生き残ったんですね。

陳:日本統治時代は約50年間にわたりますが、その影響が生活の隅々にまで浸透してしまうほど長かったわけではありません。例えば、家事を切り盛りしている普通のお母さんたちは学校へ行く必要もなく、昔ながらの生活習慣をそのまま続けていました。その子供たちが学校へ通ったり仕事へ行ったりしても、家へ帰れば昔ながらの生活習慣が待っているわけです。日本のお役人もそこまでは干渉できません。政府の権力が家庭の中まで及ばない時期が意外と長かったんですね。日本人社会の側でも旧暦など台湾の伝統的な慣習をむしろ面白がって受け止める雰囲気があって、新聞記事でもよく取り上げられていました。

も:「味の素」が当時の台湾でも大流行だったそうですが、人気があるだけニセモノにも悩まされたというあたり、商売人のずる賢さを感じさせます。

陳:中身を入れ替えた悪質なニセモノもありましたし、パッケージ・デザインやネーミングを似せたり、色々なケースがありました。戦後の台湾でも、「味王」「味丹」「味全」といったメーカーがありますが、こうした社名はやはり「味の素」を意識していると思います。日本ブランドのイメージをパクって売り込みに利用しようという発想もありました。例えば、蚊取スプレーを作っている「必安住」という台湾企業がありますが、これはかつて日本で有名だった「安住の蚊取線香」(安住伊三郎[1867-1949]が創業、空襲で工場が焼失して廃業)から名前を取っています。

も:「味の素」が台湾での市場調査をもとに大陸へ進出したというのは初めて知りました。

陳:日本人から見れば、台湾は漢人が住む地域ということになりますからね。戦後になっても、日本企業が海外展開を図るとき、まず一番近い隣国である台湾への進出から始めるというケースは多かったですよ。この場合は日本企業が台湾を選んだというよりも、台湾人の企業家が誘致した可能性もあります。日本統治時代に育った人は日本語ができますから、言語の壁がないのでやりやすかったのだと思います。

も:本書にも登場する台南のハヤシ百貨店が今年の6月、再オープンしました。台湾各地で日本統治時代の建物を修復・復原して観光名所としているのをよく見かけますが、どんな背景があるとお考えになりますか?

陳:両蒋(蒋介石と蒋経国)時代の国民党政権にとって台湾は大陸へ戻るまで一時的に滞在する場所に過ぎませんでした。ですから、わざわざ新しいものを建設しようという発想がなく、日本統治時代の建物で使えるものは使おうと考えたわけです。壊すのもお金がかかりますしね。彼らは保存しようと考えたわけではなく、単に放っておいただけですよ。

1988年に李登輝が総統に就任して以降、台湾では「本土化」の気運が高まります。台湾人自身の歴史を見直そうという発想から、古いものを保存しなければいけないと考えるようになりました。現存する古い建物というと、ほとんどが日本統治時代のもので、それ以前のものは寺廟くらいです。今の台湾人にとっては、ずっとそこにあって見慣れたもの。日本統治時代が良いとか悪いとか、特にそういった意識はありませんね。

も:当時の建物が保存されているのを見ると、日本人としては何となく嬉しくなりますが、現地の台湾人とは受け止め方にズレもありそうです。

陳:日本人が残した建物は頑丈だし、きれいだし、レベルが非常に高いです。私が卒業した高校の校舎も日本統治時代のものでしたが、てっきり国民政府が作ってくれたものだとばかり思いこんでいました。そういうことは学校で教えてくれませんでしたから。戦後、国民政府が建てた建物はあんまり良くなくて、こっちの方が先に壊されたりしました(笑)。

日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #3

投稿日 : 2014年9月20日 | カテゴリー : Interview

 

 

(3)台湾人が日本に残した足跡

 

も:台湾が日本の植民地だった時代、多くの台湾人が日本へやって来ました。彼らが日本に残した足跡についてうかがいたいと思います。日清戦争の結果、日本が台湾を領有したのは1895年のことです。翌年の1896年、李春生〔りしゅんせい〕1が東京へ来ました。彼が見た東京の印象はどんな感じだったのでしょうか?

陳:彼は日本での見聞をもとにした旅行記を『台湾新報』(後の『台湾日日新報』)に掲載しています。上野の動物園や博物館、それから国会、見るものすべてが新鮮だったようです。当時の台湾は農村社会で、これといったものは何もありませんでしたから、カルチャーショックは相当に大きかったはずです。

も:明治日本は西洋文明との落差を痛感して急速な西洋化を進めていましたが、李春生も東京で西洋的な文物を目の当たりにして、同じような切迫感を抱いたわけですね。

陳:西洋化を目指していたのは日本だけではありません。清朝を倒した中国の革命家たちも東京へ留学して近代的な知識を学ぼうとしていたでしょう。大きな時代の流れの中で捉える必要があります。

も:東京駅の前で、林献堂〔りんけんどう〕2 をはじめ台湾議会設置請願運動の人々が記念撮影した写真がありますね。この運動にはどのような意義があったのでしょうか?

陳:当時、台湾総督府は独裁的な権力を握っていましたから、台湾人には民主的な制度が欲しいという気持ちがありました。清代にはそんな発想すらありません。日本統治時代に入ってから民主主義への要求も芽生え始めたと言えます。日本の大正デモクラシーが台湾へ波及したという側面もあるかもしれませんが、それだけではありません。やはり台湾総督府は言うことを聞いてくれない。ですから、もっと上の人たち、つまり東京という政治的中枢へ直接訴えかけないといけいない。台湾人の民族性は穏やかですから、テロとか過激な手段は好みません。あくまでも合法的に運動を展開しようとしました。

台湾議会設置請願運動は実質的には東京の留学生が担っていました。林献堂のような有名人はその上に乗っかっている感じです。

も:東京にいた留学生はどんな人たちでしたか?

陳:多くの場合、やはり裕福な家庭の子弟ですね。東京で苦学した楊逵〔ようき〕(1906-1985、『新聞配達夫』で日本の文壇に登場したプロレタリア作家)のような人はむしろ例外的です。

台湾人女性の留学生もいました。例えば、女医ですね。台湾総督府医学校は女性の入学を許可していませんでしたので、台湾で最初の女医さんは東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)の出身です。ここを出た眼科の女医さんに会ったことがあります。怒ったところを誰も見たことがないほど本当に優しいおばあちゃんです。日本の洗練された教育を受けたんだなと感じました。私も年取ったらこうなりたい。もう理想のおばあちゃんです!

も:本書には林献堂が林熊徴〔りんゆうちょう〕 (1889-1946、台湾五大名家の一つ・板橋林家の当主) に招かれて、東京の旅館「松泉閣」で裸踊りを見たという話が出てきます。

陳:裸踊りとはいっても、女性のストリップとか、そういうのではありません。男性がお腹に顔を描いて踊るという…。

も:ああ、日本の酒宴で盛り上がると、そうやって場を盛り上げる人がいましたね。しかし、林献堂といえば台湾民族運動のリーダーとして台湾総督府から睨まれる存在、林熊徴といえば逆に台湾総督府と利権的なつながりの深い「御用紳士」、お互いに敵対し合っているイメージがあります。そういう二人が一緒にお酒を飲んでいたというのが面白いです。

陳:はい、やはり色々なつながりはあったわけです。実際の歴史は複雑で、単純に黒白つけられるものではありません。安易に貼られたレッテルは剥ぎ取っていく必要があります。

も:本書には芸術を志した留学生も登場します。彼らは東京でどのようなことを学び、その後の台湾にどのような影響をもたらしたと考えられますか?

陳:うーん、芸術というのは影響関係が客観的に見えるものではありませんから、難しい問題ですね。例えば、音楽家の呂泉生〔ろせんせい〕(1916-2008)のようにたくさんの生徒を教えたのならともかく、油絵の陳澄波〔ちんちょうは〕(1895-1947)は二二八事件で命を落としてしまいましたし、日本画の陳進〔ちんしん〕(1907-1998)の場合にはそもそも日本画というジャンルがなくなってしまいましたし…。戦後は存分に能力を発揮できる舞台がなかなかありませんでした。

芸術に限らず、様々な分野の留学生が東京に来ていました。彼らの影響をはっきりと見て取るのは難しいですが、少なくとも中堅層として台湾社会を支え、台湾が発展する力となったことは確かだと思います。

中国人留学生の東京体験について書かれた本はたくさんありますね。魯迅一人だけでも結構あります。しかし、台湾人留学生についてはあまりありません。日本と台湾の交流はこんなに密接なのに、なぜでしょうね。もっと調べる必要があると思います。

 質問に答えながら不明瞭な部分に行き当たると「ああ、今すぐ図書館へ調べに行きたい!」と身悶えしていた陳柔縉さん。「優秀な若い研究者が活躍し始めているから、私の出番はもうありません」などと謙遜されていたが、いやいや、ヴァイタリティーあふれる行動力は健在である。次は日本統治時代の広告からうかがえるマーケティングについて新刊を準備中だという。当時の時代相をどのように浮かび上がらせてくれるのか、楽しみである。

(了)

 

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あばよ舛添、サラバ「団塊の世代」

2016年06月22日 10時32分16秒 | 社会

 先ほど、鳩山邦夫氏の死去が伝えられた。鳩山邦夫は1948年9月生まれの「団塊の世代」で、舛添要一とも同学年。ともに東京大学法学部でトップを争った「天下の秀才」だった。

 6月20日、舛添要一は無言のまま憎悪に満ちた表情で、記者団の前を通り過ぎていった。「この愚民どもめが…」と言いたげな舛添の表情に、「団塊の世代」の末路を見る思いがする。



 最近話題になった「団塊の世代」には、元航空幕僚長の田母神俊雄がいる。こちらも、「大言壮語」の顔とは裏腹に、セコイ選挙資金問題で失脚してしまった。

 「団塊の世代」(1947-49年生まれの世代)は、戦後ベビーブームの申し子で、630万人を数える。その最大の特徴は、粗製濫造の教育を受けてきたことにあるのではないか。
 それはもちろん「日教組」による「反日教育」のことではない。そもそも貧しい時代であったので、教育環境が極めて劣悪だったためだ。小中学校は、児童生徒の増加に施設が追い付かず、午前と午後に分けての二部授業が行われた。一クラスは56名前後、まさに満杯の教室での授業だった。
 この世代の高校進学率は七割弱、大学進学率は四分の一程度だった。団塊の親の世代には、高等教育への憧憬が根強く残っていたから、「せめて子供たちは大学へ」という意識が強かった。

 当時の国立大学は、一期校、二期校に区分されていた。これは「大日本帝国」時代の教育体系を継承したもので、旧帝国大学、旧単科系国立大学(一橋、東工、東京教育大など)旧制高校のナンバースクールは一期校(3月3日から数日が試験日)、旧制の高等専門学校(東京外国語学校など)は二期校(3月23日から試験)とされた。例えば、一期校で一橋大学、二期校に横浜国大経済学部を出願する学生が、一橋に合格したあと、さらに横浜国大を受けるケースは皆無だった。二期校は、完全に「滑り止め」扱いだったのだ。
 かといって、現在のように私立大学が評価されることはなかった。一期校の東工大を第一希望、二期校の東京農工大を第二希望として、滑り止めに早慶の理工学部を受けるのが普通だった。当時の学費格差は、私立大学の学費は国立のほぼ十倍だったので、二期校でも十分に優秀な学生が集まった。そもそも、旧制の高等教育制度においても、私立大学は大学を名乗ってはいるものの、「帝国大学」と比べるべくもない存在で、旧制高等専門学校(例えば、小樽高商、大阪外語など)の方が私立大学よりは優秀だとみなされていた。

 1968年前後に全国を揺るがした「大学闘争」「学園紛争」は、依然として旧帝国大学の頂点たる東京大学で「帝国主義大学」の特権が糾弾される一方、「日大全共闘」は名ばかりの大学教育、営利追求ばかりの大学経営を徹底的に批判した。1969年春には、東大、東京教育大(現・筑波大)の入試が中止となり、東京外国語大学においても変則入試(一科目が30分で内申重視)が行われた。そしてこのとき、東大安田講堂は、全共闘と機動隊の衝突によって廃墟と化した。

 舛添と鳩山は、現役で文一合格を果たした「天下の秀才」だったが、「東大闘争」とはどうかかわったのか。奨学金で勉強していた舛添は、全共闘の主張には一切耳を貸さず、ひたすら「栄利栄達」の道を選んだ。あの騒然たる時代に、自己(エゴ)を貫いた舛添が、今ここに至ってみると、ドストエフスキーの小説の主人公のように見えてくる。

 天下のお坊ちゃま秀才・鳩山邦夫が病死。舛添は、知事職を途中放棄。田母神は検察によって取り調べ中。
 「団塊の世代」の政治家は一人も首相になれなかった。せいぜい獲得した都知事の地位もこのありさま。「量」は多くても、「質」が伴わなかったというのが、この世代の歴史的評価になるのだろうか。
  
 
   

 
  
 

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東京五輪招致 竹田JOC会長の疑惑と利権

2016年06月16日 22時33分45秒 | 社会

 5月24日付の本ブログでは、同じ「団塊の世代」に属する舛添要一と竹田 恆和(たけだ つねかず)JOC会長の「明暗」について書いた。枝葉末節(?)でマスメディアに糾弾され、火だるまになって自爆した舛添要一。一方、東京五輪招致疑惑が報道され、竹田JOC会長が「闇資金」を決裁したと認めたものの、それは五輪招致のための「必要悪」であるかのように伝えられた。そのため、竹田会長自身が経営する「海外業務渡航」を専門の旅行会社が、実はJOCの海外出張業務などを一手に引き受けているのではないかという疑惑が追及されることはなかった。

 だが、今日発売の「週刊文春」では、竹田会長の旅行会社と「電通」の関係が指摘され、「五輪利権」というべき構図が明らかにされている。



 石原都知事が言い出して、招致に動き出した東京五輪だが、一度「落選」した後に、あの東日本大震災が起きた。まともな国であれば、あれほどの大災害の後、続く大地震が予想される中で、「復興を世界に示すため」に五輪大会など開くはずはない。まず、国民が求めるのは、国土強靭化であり震災対策であるはずなのに、この国においては、「オリンピック」「ノーベル賞」は「絶対善」であるという妄想が存在するためか、防災対策をそっちのけにして、五輪招致へと暴走してしまった。「世界が日本を見ている」「日本は素晴らしい」という「ホルホル番組」が毎日流され、あたかも東京五輪を「世界の人々」が待ち望んでいるかのような「幻想」がふりまかれてる。
 
 だが、今回の「週刊文春」で明らかになったのは、「東京五輪」で金儲けを企む五輪関係者の醜い姿だ。竹田JOC会長がどんなに「高貴」なお方であろうとも、もし、自分の旅行会社が東京五輪招致に関連して利益を得ているのであれば、舛添同様、厳しい追及がなされて然るべきだろう。でなければ、この国はまともな法治国家ではない。

 そして、今からでも遅くはない。東京五輪などさっさと返上すべきだ。熊本地震さえ収束していないのに、今日は北海道でも震度6弱の地震が発生した。わずか二週間の「運動会」に「世界の夢」を託すなんて、何と愚かなことか、と何故誰も言わないのか。日米開戦も阻止できず、敗戦処理もできなかった「一蓮托生の島国」の悲喜劇は、相変わらず続いている。

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天安門事件27年と蔡英文発言

2016年06月04日 18時04分54秒 | 中国

 1989年6月、北京天安門広場を血に染めた、あの「天安門事件」から27年。
 中共政権の情報統制は依然として厳しく、大陸においては「天安門事件」と検索しても何も表示されないという。
 中共(=中国共産党)一党独裁に異議を唱えた学生たちも、今や中年の域に。事件の当事者であった学生たちのひとり、ウイグル族出身のウーアルカイシはいま、台湾(中華民国)に在住し、独自の政治活動を行っている。


 天安門事件時のウーアルカイシ


  現在のウーアルカイシ(右)

 国民党(=中国国民党)一党独裁を克服し、無血で民主化を成し遂げた台湾(=中華民国)では、先日、民主的選挙によって、民進党(民主進歩党)出身の蔡英文女史が総統(大統領)に選出された。
 
 その蔡英文総統が、「天安門事件27周年」にあたって、「中国大陸の民主化に期待」というコメント(下記参照)を発表した。「27年前に天安門広場にいた学生たちの民主主義と自由に対する渇望を、かつて同じ道を歩んだ台湾の人々は誰よりも理解している」「中国大陸にも台湾の民主化の経験を分かち合ってほしい」との言葉は、実に重く深い。 

 

蔡総統、中国大陸の民主化に期待 天安門事件から27年/台湾

中央社フォーカス台湾 6月4日(土)15時10分配信

(台北 4日 中央社)中国大陸・北京で民主化を求めた学生らが武力弾圧された天安門事件から4日で27年を迎えた。蔡英文総統は同日、自身のフェイスブックを更新し、いつか両岸(台湾と大陸)が、民主主義と人権について同じ見方ができるようになることを望むと述べ、大陸の民主化や人権状況の改善に期待を示した。

蔡総統は、27年前に天安門広場にいた学生たちの民主主義と自由に対する渇望を、かつて同じ道を歩んだ台湾の人々は誰よりも理解していると指摘。中国大陸にも台湾の民主化の経験を分かち合ってほしいと語った。

さらに、民主主義と人権は天から降ってくるのではなく、人民が努力によって勝ち取るものであり、「中国大陸もその例外ではない」と強調。一方で、もし大陸がより多くの権利を人民に与えられれば、世間の人々はさらに大陸を尊敬するだろうと述べた。

(呂欣ケイ/編集:杉野浩司)



 

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台湾人の「愛国行進曲」

2016年06月04日 08時01分04秒 | 台湾

  台湾通のマイミク氏が「台湾の台南ではこのような歌を歌っても何ら問題ありません。韓国や中国で歌うとヘタしたら殺されるでしょうね」というコメントをつけて、台湾人が歌う「愛国行進曲」の映像を紹介してくれた。(下記参照)

 「愛国行進曲」は、もちろん日本の歌曲、軍歌と呼ばれるべきかもしれない。右翼の「街宣車」が大きな音で流す曲でもあるので、聴いたことがある人は多いはずだ。何故、そんな曲が先月末(2016.5.29)台南・赤嵌樓(せきかんろう)で歌われたのか?

 李登輝氏が政治舞台に登場する1980年代末までは、台湾では国民党(=中国国民党)の独裁政権下で、言論の自由が著しく制限されていた。その後、民主化が実現するにつれ、「日本語世代」の祖父母から引き継がれてきた親日的な感情が、一気に顕在化した。今では、台湾でもっとも有名な史跡・観光地である台南・赤嵌樓でも、このような集会が自由に行われる。

 「ネトウヨ」と呼ばれる人たちは、この映像を「親日台湾」の証拠だと言い募るのかも知れない。他方、日本の「団塊の世代」が、「戦争を知らない子どもたち」を歌うのと同じではないか、という意地悪な見方もあるだろう。
 この曲を歌う「日本東亞合唱團+郭一男滑音吉他團」について、上記のマイミク氏は次のように説明してくれた。

滑音とはglissandoと言い音樂の表現手法の一つです。吉他團とはギター団の意味です。日本東亜合唱団は台湾にも支部が あり日本人と台湾人が仲良く軍歌を中心に歌っている合唱団です。」

 この「愛国行進曲」の後半部分は、歌詞を替え歌にして次のように歌っている。

見よ東條の禿げ頭 よくよく見れば毛が三本 頭の上で運動会 滑って転んで一等賞 おおテカテカの禿げ頭…」

 
戦前からさまざまに歌われてきた「替え歌」なのだろう。東條英機をからかった歌詞であることは間違いない。いま、この替え歌の歌詞を聴いたことで、重苦しさから解放される日本人もいることだろう。替え歌を唄うのは「娯楽も含んでいますので」と マイミク氏。

 いずれにしろ、この映像は、日本のマスメディアが絶対に採りあげない、現代臺灣のひとつの素顔を描き出している。やはり、台湾は台湾、中国の一部などではない、むしろ、日本との絆こそ、今見直されるべきだ。そんなことを強く考えさせられた。
 

愛國行進曲 // 日本東亞合唱團+郭一男滑音吉他團 合唱2016.5.29.於赤嵌樓


愛国行進曲(日本版 日本語歌詞表示)

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あえて「舛添要一 擁護論」

2016年06月02日 18時50分51秒 | マスメディア

 舛添要一・東京都知事が火だるまになっている。「新党改革」時代の政党交付金の使途問題、都知事になってからの海外出張費、公用車の使用問題など、「囃す、貶す」ばかりのマスメディアには、格好のネタになってしまった。セコク、ずるがしこく、往生際が悪い「ねずみ男」というのが、現下のイメージだろうか。



 だが、私はあえて次のように「舛添擁護論」を言いたててみた。

1 「天下の秀才」だった舛添
 まず、舛添要一は類まれなる秀才だったという事実。団塊の世代(昭和22-24年生まれ)630万人の中で、東大法学部に入学できたのは、およそ1,800人。舛添は、その中で「学士助手」(当時は「助手」)に採用され、官費でフランス留学、その後東大教養学部助教授に任用された。ひとつの無駄もない、典型的なエリート・コースをひた走った。福岡県生まれの舛添は、中学生の時、父親が病死したことで、家計を考えて高専に進もうかと考えたほど、生活が苦しかったという。その当時の社会状況と言えば、東海道新幹線さえまだなく、電話がある家は稀で、もちろん、コンビニもスーパーマーケットもなかった。公共図書館も整備されていなかったので、本を通じてさまざまな情報を得ることも難しかった。全国をネットワークで結ぶ受験予備校などもまだ存在しなかった。舛添は、そんな時代に、全国模試で一二を争い、自分の能力だけで東大入学を果たした。経済的に恵まれて受験テクニックを磨き、私立中高一貫校から東大生となるというような、現在の若者とは全く異なる生き方だ。舛添が「成蹊(安倍晋三)や学習院(麻生太郎)卒ではこの国を統治できない」「細川護煕はバカ殿」と言ったのも、「言わずもがな」ではあるものの、ホントのこと(事実)を言ったまでなのだろう。

2 エリートとしての貴族趣味と大衆蔑視
 「天下の秀才」舛添は、国際政治学を専攻した。当時、この分野を志す人は、東大の中でも家柄がよく裕福な家庭の子弟が多かったはずだ。というのも、法解釈学に比べると、著しく実用性が低い。海外留学をするチャンスがなければ、研究テーマを結実できない。また、複数の外国語に極めて堪能でなければならない。当時、カセットレコーダーでさえ、なかなか入手できなかったのだから、語学の習得には現在の何倍もの努力が必要だった。何しろ庶民にとっては、海外に行くことが夢のような時代でもあったのだ。

 国際政治学者の三浦瑠麗は、舛添が「貴族的」趣味があると語った。母子家庭だった舛添には、本人の能力だけで数々の困難を克服し、現在に至った、自分こそ真のエリートであるという強烈な自負がある。それが、自分の成育歴の中では得られなかった「貴族的」なものへの憧れにつながっているのかも知れない。それは同時に、自分より能力的に劣ったものたちを見下す心情にもつながっている。

3 叩かれる人、叩かれない人
 「一般大衆」は扇動されやすく、嫉妬深い。舛添は、ポピュリズム(大衆迎合)に乗って、名を売り、政治家に転身した。舛添ほどの「秀才」が大衆の愚かさと同時に、その怖さを知らなかったはずはない。
 「大衆」は舛添という人間に、「成り上がり」の醜さを見たのだろうか。マスメディアの舛添叩きが意図的としか思えない執拗さだとしても、「街の人」がシンクロしなければ、これほど盛り上がるとは思えない。
 このブログでもすでに書いたことだが、舛添とは対照的な人物に竹田 恆和(たけだ つねかず)JOC(日本オリンピック委員会)会長がいる。同じ「団塊の世代」だが、舛添とは「王子と乞食」ほどの差がある。「明治天皇」の何とかと言う、元・華族の竹田は、幼稚舎(小学校)から大学まで慶応義塾。大学では馬術部に属し、オリンピックにも出場したという、典型的な日本的エスタブリッシュメントだ。あるデータによれば、舛添が東大に進学した頃、東大文一(主に法学部進学)の偏差値は72、一方、慶応大学法学部の偏差値は56だった。舛添から見れば、竹田も「バカ殿」のひとりに過ぎないが、ことここにきて、両者の明暗がはっきりと分かれた。

 竹田 恆和 JOC(日本オリンピック委員会)会長

 舛添が何をやっても叩かれる一方、竹田は「東京五輪」招致に当たってIOC(国際オリンピック委員会)関係者に二億円以上のわいろ金を送ったという事実が暴かれたにもかかわらず、マスメディアの反応は「五輪招致には必要悪」という鷹揚なものだった。さらに竹田は、自身で「エルティーケーライゼビューロージャパン」という旅行会社を経営し「業務渡航・海外出張専門のトータルツアーエージェント」を主業務としている。もしJOCの海外出張(まさに業務渡航・海外出張!)がこの会社を使って行われているのであれば、舛添以上の大疑惑になるはずなのに、誰も騒がないというのが摩訶不思議だ。

 つまるところ、 この国にはダブルスタンダードというか、「本音と建て前」があって、民主主義は建前に過ぎず、実は「身分主義」国家ということなのだろう。法の下に万人が平等という建前であっても、下賤な「成り上がり」はいずれ叩かれ、「高貴」なお方は逃げ延びる。そういえば、竹田と親戚筋の御方は「戦争責任」さえ免れた…。

 舛添と同じように「世論」のバッシングに遭った堀江貴文は、舛添を高く評価する。舛添が都知事を辞めても、次は「清貧のボンクラ」が就任するだけだというのだ。鋭い指摘と言うべきだろう。

   対照的な二人の団塊男。70歳の黄昏を目前にする、やがて哀しき団塊の世代…。嘆息のほかに何が残ると言うのだろうか。 
   
  

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静岡・由比宿を散歩

2016年05月29日 22時49分45秒 | 散歩

 今月初め、朝のTV番組で静岡県の由比宿が紹介された。歌川広重の「東海道五十三次」の十六番目に出てくる宿場町で、旧東海道の面影を今も伝える。
 きょう、その由比宿に行ってみた。古く静かな街並みの中心に本陣があり、その敷地の中には広重美術館がある。
 本陣の対面には、「正雪紺屋」がある。由比正雪の生家とされ、400年もの歴史を刻んでいる。中に入ると、染め物に使われた甕(かめ)が置かれ、現在の建物は少なくとも160年は経ているそうだ。

 心地よい初夏の風に吹かれて、歴史散策。そしてもちろん、桜エビの料理も楽しんだ。





 
 
 

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