三の丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/08/934772bd95ddaf8fb58464c1c14d1313.jpg)
引橋を渡り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/77/4f31aba981c6ab1b07e982ec79a51cf6.jpg)
すぐに左手を登る道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/9c/d28f54435a5644a6ba8d1d6ee1ba8120.jpg)
三の丸西下を守る腰曲輪、土塁が築かれ容易に攻め上れないようになっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/55/ffd80633465c1d6ff8ba1358cec4a1ec.jpg)
腰曲輪の足下を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/87/e49e8042870ff2bad95de3daaa026586.jpg)
引橋からの道を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/a9/5e304b0f6cbc77f98c73c67c4556d1e5.jpg)
三の丸の城壁、ここを登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/ac/aa3815b8de7d43add420be062243b2a6.jpg)
三の丸西虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/9d/8504f351172bc176d8f5e57b5f6eca59.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/44/c198e54b3adccb03318e4205c95f4fa8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/46/867535c58dc16c427f9ae58cd32d34c4.jpg)
三の丸から二の丸城壁を見ています。この道が二の丸北虎口へ通じています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/1c/15b69a034a344100a4e85b0b7aa09998.jpg)
三の丸から南側の道を登ってゆくと唐沢山城の一番の見どころ高石垣です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/71/f97f429e7fcc52fb69cd2dafa2a36f4d.jpg)
石垣の西から二の丸へ入ります。当時は前述しましたように三の丸から北虎口に廻る道が大手のようです。これは次回とします。
唐沢山城の戦い
概要
下野国の唐沢山城は、下野南部における重要拠点であり、上杉謙信が関東出兵する際に押さえておく必要のある城であった。当時の唐沢山城主は、佐野氏の第15代当主・佐野昌綱であった。昌綱は、越後の上杉謙信と相模の北条氏康という二大勢力に挟まれる苦しい情勢の中、御家の存続と領民を守るため、武勇と知略をもって戦国時代の荒波を乗り切ろうとした。唐沢山城は、関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城であり、謙信はこの城の攻略に手を焼くことになる。このことから「関東一の山城」と言われるようになった。幾度も攻め寄せる上杉軍に対し、昌綱は唐沢山城に篭城して時に撃退し、時に降伏した。しかし上杉軍が越後へ去って北条軍が攻め寄せると今度は北条氏に降伏し、再び上杉軍が攻め寄せると上杉氏に降伏するという臨機応変な状況判断で凌いだ。戦国時代において多くの戦国大名が滅亡する中、佐野氏が命脈を繋ぐことができたのは、昌綱の才覚と唐沢山城の堅固さによるものであった。weblio辞書より
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引橋を渡り
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すぐに左手を登る道があります。
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三の丸西下を守る腰曲輪、土塁が築かれ容易に攻め上れないようになっています。
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腰曲輪の足下を見下ろしています。
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引橋からの道を見下ろしています。
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三の丸の城壁、ここを登ります。
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三の丸西虎口
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三の丸から二の丸城壁を見ています。この道が二の丸北虎口へ通じています。
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三の丸から南側の道を登ってゆくと唐沢山城の一番の見どころ高石垣です。
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石垣の西から二の丸へ入ります。当時は前述しましたように三の丸から北虎口に廻る道が大手のようです。これは次回とします。
唐沢山城の戦い
概要
下野国の唐沢山城は、下野南部における重要拠点であり、上杉謙信が関東出兵する際に押さえておく必要のある城であった。当時の唐沢山城主は、佐野氏の第15代当主・佐野昌綱であった。昌綱は、越後の上杉謙信と相模の北条氏康という二大勢力に挟まれる苦しい情勢の中、御家の存続と領民を守るため、武勇と知略をもって戦国時代の荒波を乗り切ろうとした。唐沢山城は、関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城であり、謙信はこの城の攻略に手を焼くことになる。このことから「関東一の山城」と言われるようになった。幾度も攻め寄せる上杉軍に対し、昌綱は唐沢山城に篭城して時に撃退し、時に降伏した。しかし上杉軍が越後へ去って北条軍が攻め寄せると今度は北条氏に降伏し、再び上杉軍が攻め寄せると上杉氏に降伏するという臨機応変な状況判断で凌いだ。戦国時代において多くの戦国大名が滅亡する中、佐野氏が命脈を繋ぐことができたのは、昌綱の才覚と唐沢山城の堅固さによるものであった。weblio辞書より