本丸から南尾根へ、そして北尾根へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/5c/b7499d64fc7474ff016c7cee01349b32.jpg)
曲輪2、西側に高土居
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曲輪2を北から見ています。
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堀切エ
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浅い堀切を越えて本丸北側斜面
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本丸城壁
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本丸
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本丸南下、南尾根の堀切オ
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南尾根、堀切カ
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本丸に戻って、北尾根を下ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/fe/0c112741197f6a78b210989002a3de13.jpg)
北尾根第一堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/95/b99871b60bea6fdb605369fb15226712.jpg)
第二堀切
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第三堀切と小曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/f5/45a5fa622fd853d19e9d90cd38eeefcd.jpg)
第四堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/18/a9e87ed1c7e267d3d394782303e1b47c.jpg)
縄張り図は「信濃の山城と館4」曲輪1から左手下の北尾根を歩いています。
次回 曲輪5へ
「東筑摩郡誌」には小笠原持長の四男遠江守宗則より則長、道長、宗春、と居住する。天文年間民部少輔小笠原閑斎頼貞、当城を守りせしが武田氏の攻めるところとなって陥落せり。」
小笠原頼貞の父小笠原長棟について
林城を本拠とする府中小笠原氏出身。永正元年(1504年)11月に元服。永正9年(1512年)、父の貞朝を師範として弓馬礼法を伝授され、永正12年(1515年)、父の死没に伴い家督を継承する。享禄元年(1528年)、将軍・足利義晴の命を受け上洛する。
智勇に優れた人物で、天文2年(1533年)7月、高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(1534年)、対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一した。また弟の信定を鈴岡城に入城させた。天文8年(1539年)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。
しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、やがて長利と不和となったため長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移る。そして小笠原家とは対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。
天文10年(1541年)に長棟は出家して、嫡男の長時に家督を譲った。天文11年(1542年)の長棟の死後、8年で信濃小笠原家は武田晴信により滅亡に至った。ウィキペディアより
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曲輪2、西側に高土居
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曲輪2を北から見ています。
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堀切エ
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浅い堀切を越えて本丸北側斜面
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本丸城壁
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本丸
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本丸南下、南尾根の堀切オ
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南尾根、堀切カ
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本丸に戻って、北尾根を下ります。
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北尾根第一堀切
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第二堀切
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第三堀切と小曲輪
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第四堀切
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縄張り図は「信濃の山城と館4」曲輪1から左手下の北尾根を歩いています。
次回 曲輪5へ
「東筑摩郡誌」には小笠原持長の四男遠江守宗則より則長、道長、宗春、と居住する。天文年間民部少輔小笠原閑斎頼貞、当城を守りせしが武田氏の攻めるところとなって陥落せり。」
小笠原頼貞の父小笠原長棟について
林城を本拠とする府中小笠原氏出身。永正元年(1504年)11月に元服。永正9年(1512年)、父の貞朝を師範として弓馬礼法を伝授され、永正12年(1515年)、父の死没に伴い家督を継承する。享禄元年(1528年)、将軍・足利義晴の命を受け上洛する。
智勇に優れた人物で、天文2年(1533年)7月、高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(1534年)、対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一した。また弟の信定を鈴岡城に入城させた。天文8年(1539年)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。
しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、やがて長利と不和となったため長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移る。そして小笠原家とは対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。
天文10年(1541年)に長棟は出家して、嫡男の長時に家督を譲った。天文11年(1542年)の長棟の死後、8年で信濃小笠原家は武田晴信により滅亡に至った。ウィキペディアより