山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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滝尾山城③

2018-01-24 20:18:45 | 山城ー野州
上の城に向かいます。


浅い堀切から城壁を登ると

北尾根中曲輪

北尾根を歩いて堀切から中曲輪と同様に地形を生かした城壁

北尾根第二曲輪

北尾根土塁と二重堀

北尾根を進み

南虎口

上の城本丸

東下の通路から北の二の丸へ(後日二の丸の周辺を報告します。)

本丸東下から

三の丸(この周辺も後日報告します。)

北の上の城の本丸まで紹介しました。(縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より)

宇都宮忠綱⑥
家中混乱と追放
しかし、成綱が没したことによって同盟関係である結城政朝との関係が次第に悪化。室町時代の頃の下野国旧結城領を巡って両者の間に確執があったとされる。また、忠綱は結城政朝の器量を恐れた。
更に家中支配を強化したが故に芳賀氏、笠間氏、塩谷氏らを中心とする忠綱による家中支配の強化に不満を持った宇都宮家中の一部が忠綱と対立。
更に高勝の弟である高経らは結城氏の結城政朝と内通し、忠綱と対立した宇都宮家中は成綱の三男(忠綱の弟)である宇都宮興綱を19代目当主として仕立てあげようとした。
そして1523年、結城政朝が攻めて来ると忠綱は宇都宮猿山で結城勢と対戦するが敗北。忠綱は宇都宮城に撤退を図るが、既に宇都宮城は芳賀高経一派の手の中にあった事により入城できなかった。
忠綱はやむを得ずに壬生綱房が籠る鹿沼城に身を寄せた。この合戦で結城政朝は下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪取した。
同年忠綱は旧領回復を図り皆川領に攻撃を開始。(河原田合戦)しかし、結城・小山連合軍の到着により撤退した。
その後忠綱は軍事行動を積極的に行い宇都宮城奪還を図るが失敗。そして1527年、宇都宮城に戻る事無く忠綱は30歳で死去した。(一説では壬生綱房に裏切られて暗殺されたとも言われる。) ピクシブ百科事典より

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