横尾氏の当主、横尾信光が上田原の戦いで討死して、嫡子紋十郎は一時、須坂市の興国寺に身を寄せたとの系図の記述から興国寺に行ってきました。
興国寺地図
地図にあるように、須田城は興国寺の西の臥龍山にあります。興国寺は須田氏の菩提寺であり、また武田氏に敵対する北信州の雄でもあります。興国寺の開山僧、天英祥貞の弟子、群馬県富岡市丹生の出身である者によって紋十郎は須田氏に仲介されて身を隠すことが許されたのではとの推測を私はしております。
古刹興国寺
余談ですが、門にある仁王像は燕の糞だらけであるが、地元では大きな騒ぎをしていません。今、日本各地の国宝級の建物に油をまく不届き者がいるようですが、こんな馬鹿者の所業をマスコミは大騒ぎをしている。騒げば騒ぐほど、馬鹿者は喜んで繰り返している。マスコミは今、何を取り上げて騒ぐべきか、集団的自衛権を行使する理由に、日本の社会を根底から覆す事態が起きたときなどと言っているが、ホルムズ海峡の閉鎖はイランに対するアメリカ外交のまずさから、この懸念が引き起こされている。他国の政策のまずさを、自衛隊が命を懸けて行う必要はない。また機雷掃討は武力行使であり戦闘行為である。これは憲法九条で禁止されている。安倍政権は憲法違反での法案作りに奔走している。こんな日本国民を戦争状態に持っていく安倍内閣をマスコミが糾弾せずして、マスコミの使命を放棄することになる。安倍政権はテレビ朝日の報道ステーションのスタッフに菅官房長官の秘書によって直接圧力をかけたそうである。現に番組プロデューサーが首にされました。さらに昨日、自民党本部にテレビ朝日幹部を呼びつけBPOに触れると脅しをかけている。政権批判を封じ込め、都合のよいことだけ報道させる、報道管制たる動きは、まさに戦前の軍部の国家統制と同じである。こんな圧力に屈すれば、またマスコミは戦争協力団体に引きずり込まれてゆく、歴史の教訓の通りである。
興国寺本堂、住職にお会いして1547年の上田原の戦いのあと、紋十郎というものが身を寄せた経緯を話し、記録がありますか尋ねたところ、やはり400年前のことでありませんとのことでした。また天英祥貞の弟子の中に富岡市甘楽郡の僧侶はいましたかとの問いに、歴代僧侶の名は分かるが出身までは分からないという返事でした。せっかくこの地まで来たのですから須田城に登ってきました。
須田城
興国寺境内から見た臥龍山
興国寺から登り道があり、尾根にすぐ着きます。橋の下は空堀であったかもしれません。
空堀の西に観音堂があり、観音曲輪とします。
観音曲輪の西に霊廟がありますが、本丸下東曲輪とします。
霊廟
歴代須田城主は変遷があり、後日紹介します。最終的には堀家が城主であったようです。
本丸下東曲輪から本丸城壁を見上げています。
次回 西曲輪(仮に)から二の丸・本丸へ
興国寺地図
地図にあるように、須田城は興国寺の西の臥龍山にあります。興国寺は須田氏の菩提寺であり、また武田氏に敵対する北信州の雄でもあります。興国寺の開山僧、天英祥貞の弟子、群馬県富岡市丹生の出身である者によって紋十郎は須田氏に仲介されて身を隠すことが許されたのではとの推測を私はしております。
古刹興国寺
余談ですが、門にある仁王像は燕の糞だらけであるが、地元では大きな騒ぎをしていません。今、日本各地の国宝級の建物に油をまく不届き者がいるようですが、こんな馬鹿者の所業をマスコミは大騒ぎをしている。騒げば騒ぐほど、馬鹿者は喜んで繰り返している。マスコミは今、何を取り上げて騒ぐべきか、集団的自衛権を行使する理由に、日本の社会を根底から覆す事態が起きたときなどと言っているが、ホルムズ海峡の閉鎖はイランに対するアメリカ外交のまずさから、この懸念が引き起こされている。他国の政策のまずさを、自衛隊が命を懸けて行う必要はない。また機雷掃討は武力行使であり戦闘行為である。これは憲法九条で禁止されている。安倍政権は憲法違反での法案作りに奔走している。こんな日本国民を戦争状態に持っていく安倍内閣をマスコミが糾弾せずして、マスコミの使命を放棄することになる。安倍政権はテレビ朝日の報道ステーションのスタッフに菅官房長官の秘書によって直接圧力をかけたそうである。現に番組プロデューサーが首にされました。さらに昨日、自民党本部にテレビ朝日幹部を呼びつけBPOに触れると脅しをかけている。政権批判を封じ込め、都合のよいことだけ報道させる、報道管制たる動きは、まさに戦前の軍部の国家統制と同じである。こんな圧力に屈すれば、またマスコミは戦争協力団体に引きずり込まれてゆく、歴史の教訓の通りである。
興国寺本堂、住職にお会いして1547年の上田原の戦いのあと、紋十郎というものが身を寄せた経緯を話し、記録がありますか尋ねたところ、やはり400年前のことでありませんとのことでした。また天英祥貞の弟子の中に富岡市甘楽郡の僧侶はいましたかとの問いに、歴代僧侶の名は分かるが出身までは分からないという返事でした。せっかくこの地まで来たのですから須田城に登ってきました。
須田城
興国寺境内から見た臥龍山
興国寺から登り道があり、尾根にすぐ着きます。橋の下は空堀であったかもしれません。
空堀の西に観音堂があり、観音曲輪とします。
観音曲輪の西に霊廟がありますが、本丸下東曲輪とします。
霊廟
歴代須田城主は変遷があり、後日紹介します。最終的には堀家が城主であったようです。
本丸下東曲輪から本丸城壁を見上げています。
次回 西曲輪(仮に)から二の丸・本丸へ