山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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祇園城②

2017-10-24 18:48:33 | 山城ー野州
祇園城を南に向かって歩きます。


曲輪5から北曲輪

曲輪3

深堀から橋を渡り馬だしへ

橋から空堀を見ています。

橋から空堀越しに角馬だし

馬だし

馬出しから二の丸を見ています。角馬だしは北条流の縄張りですが、北条氏が支配した時に城を改良したと伝えられています。

二の丸を南に見ています。

本丸との空堀

次回 本丸へ

小山義政の生涯
武蔵平一揆に乗じて乱を起こした新田義宗の討伐に参加するなど、室町幕府創設の功労者であり、下野国守護に任ぜられるまでに至り小山氏の全盛期を築いた武将でもあった。
しかし、下野国はかつては守護を務め宇都宮城を拠点に各地に有力な庶家を配する宇都宮氏、北方において独立した勢力を有する那須氏など群雄割拠の国柄であり、家柄・勢力の面でも拮抗関係にあった。故に義政の守護職補任による勢力拡大は近隣の豪族・宇都宮氏との間の覇権争いに発展するまでに至り、激しい争いの末、遂に宇都宮基綱を敗死させた。
しかし、このことが関東の静謐を司る鎌倉公方・足利氏満の不興を買い、早速、鎌倉府にて小山追討軍が催され、まもなく追討を受けた。これに対して義政は一旦は鎌倉公方に降伏し、家督を子の若犬丸に譲り隠居したが、永徳2年(1382年)には体勢を立て直して鎌倉公方に反旗を翻した。これが小山義政の乱である。義政の軍は、氏満の御教書により参集した関東・南東北地方の各地の武家連合軍に追討され敗退し、栃木県上都賀郡粟野町粕尾の、赤石が原の自城で自害したとされる。ウィキペディアより

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