山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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鷹巣根城(刈谷原城)④

2017-08-30 16:36:00 | 山城ー信州
南西尾根へ


分岐点から



北西尾根から南西尾根につなぐ壕

南西尾根第一曲輪

下方に帯曲輪

南西尾根を下って見上げています。

堀切を何故か斜めに切っています。

第二腰曲輪

第三腰曲輪、この辺は宮坂氏の縄張り図と違っています。最下層の曲輪で戻ります。

二の丸下から見上げています。 次回 旧四賀村 笹沢城 

筑北の情勢と服部氏(麻績氏)

服部清正が、武田晴信に筑北地方に侵攻され、麻績城を捨て、越後の長尾景虎に庇護を求めたのは、天文22年(1553)4月の事であった。それから29年の年月が流れ、上杉謙信はすでに病死し、養子の景勝の世となっていた。天正10年(1582)のことである。この年3月武田氏が滅び、6月織田信長も京都の本能寺に置いて自害した。この機に上杉景勝は信濃に侵入し、北信地方を勢力下に収めると共に当時越後に居た小笠原貞胤(長時の弟)に越後勢を添えて信濃府中の深志城へ城主として送り込んだ。7月2日に深志城にいた木曽義昌(織田家に従っていた)を追って同城に入った。そして、府中への道筋に当たる麻績城には、長年越後に居て上杉氏の下で忠勤を励んだ服部清正を、再び麻績城主にしたのである。
 天正11年(1583)信濃の情勢は、徳川の勢力が次第に浸透し冠着山周辺の諸豪族も自己防衛の立場から相次いで上杉氏に背いて徳川方に従うようになった。青柳氏も徳川方に属した小笠原貞慶に従ったのである。周辺の情勢から麻績氏も恩顧ある上杉氏に背いて小笠原氏に内応したのであろう。これを知った上杉景勝は大いに怒り、4月信濃に出動した。麻績城攻めには景勝自ら向かったものとみえ、4月27日これを攻略した。服部清正はこの時に捕えられ、川中島の志河において磔に処せられたという。麻績村史より

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