山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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大塚城②

2017-12-30 18:06:30 | 山城ー野州
本丸から二の丸へ


本丸を北から見ています。

本丸北下の大堀切

大堀切を下って見ています。先に二の丸

本丸北城壁を見上げています。

二の丸

二の丸を北から見ています。

二の丸の北東に下る腰曲輪

腰曲輪に立って二の丸側をを見上げています。

二の丸北下の第二堀切、先に曲輪5(仮に)

堀切から西へ下る竪堀

二の丸北城壁を見上げています。

曲輪5(仮に)、ここから余湖さんの縄張り図から離れます。

北尾根の遺構はまだまだ続きます。

大塚城の東3kmに城山公園(粟野城)があります。この山城では皆川氏と佐野氏が激しく城の奪取攻防を繰り広げています。この際に大塚城も巻き込まれていたと思われます。

粟野城の攻防
粟野城址は、口粟野の通称「城山」と呼ばれるところにあり、頂上の横尾勝右エ門撰文の碑によると、足利又太郎忠綱がここに こもり、涛速(なにわ)城と称したとあります。また別の記録では、忠綱の一族郎党がここで全滅したと いうことです。
暦応(りゃくおう)元年(1338)、平野将監範久が修築 、居城したものの小山氏・宇都宮氏連合軍の侵略に悩まされ、その後に佐野氏に降伏し、佐野の支城となりました。
城代平野大膳久国の時には、皆川氏に攻略され、天正(てんしょう)16年(1588)12月、再び皆川広照の攻撃を受け、佐野方の援軍 を加えた防戦もむなしく落城しました。
このときの戦は、大変はげしく皆川方の大将斎藤秀隆や粟野城代平野久国のほか多くの武将が討死にしております。まして雑兵(ぞうひょう)の死者は数知れないといわれます。
皆川氏は、落合徳雲入道を粟野城代としましたが、天正18年(1590)、羽柴秀吉派遣の上杉・浅野軍の攻撃を受け、皆川本城と共に落城しました。
山頂に物見跡があり、その東南の一段下がった平地が本丸跡といわれます。城内には無数の土塁や堀切があり、大手口は横町方面に向い、二の門の内側に用水池があります。鹿沼市HPより

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