山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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浅間山城②

2017-10-27 20:30:54 | 山城ー野州
浅間山城へ


富士山城から浅間山城へ

浅間山城本丸、神社によって改変されていますが、本丸城壁が分かる程度です。

本丸から伸びた南尾根を見ています。

景色は素晴らしかったです。



縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より


坊主山城の大手

坊主山城の本丸があったと思われる平地

次回 武蔵の平城

足利長尾氏の下野への入部
享徳の乱で、上杉憲忠とともに殺害された実景のあとを継いだ景人は成氏方との合戦で、総社長尾忠政・白井長尾景仲らとともに上杉方として各地を転戦し、景人の戦功は上杉氏家臣のなかで随一であった。その功によって、寛正六年(1465)、上杉房顕の推挙を受けて京都将軍家から「由緒の地」として、その御料所下野国足利庄の代官職に補任された。そして文正元年(1466)秋、景人は同庄勧農城に入部、勧農城は古河公方成氏攻略のための拠点となった。
 文明三年、上杉方は足利荘を足場にして古河公方に対する総攻撃を開始した。景人は山内上杉顕定の将として長尾景信・景春らとともに出陣、このとき扇谷上杉政真の将として太田資清(道灌)が出陣している。さらに上杉軍には、足利周辺の新田岩松氏・佐野氏、上州・武州一揆之輩が加わり、公方方の樺先・赤見・八椚城を落し、さらに館林城に押し寄せ城主赤井氏を屈服させた。この一連の戦いにおいて、長尾景人の勧農城は上杉方の駐屯地として機能した。
 景人の死後は定景が家督を継承し、定景のあとは弟景長が継いだが幼かったため、犬顕長尾氏を継いでいた叔父の房清(憲景)が後見人的立場として足利荘の支配権を掌握した。房清は足利氏の氏寺鑁阿寺に禁制を下し、明応四年(1495)、上野国金山城の岩松尚純と横瀬成繁が対立したとき、足利勢を率いて出陣し岩松氏を支援している。房清は永正元年(1504)九月の武蔵立河原合戦で戦死したが、この房清を景長の前の家督であったとするものある。家督を継いだ景長は、総社長尾氏に代わって山内上杉氏の家宰となった。
 その頃、古河公方家では成氏のあとを継いだ政氏と子の高基が対立し、上杉氏もその影響を受けて内紛が生じた。景長は高基を支援する上杉憲房に従って政氏方の顕実が拠る鉢形城を攻め、顕実を古河へ追い落とし憲房を関東管領に据えた。景長は武人としても優れていたが、絵画にも長じ優れた山水画や自画像を残している。景長は大永八年(1528)に没し、そのあとは憲長が継いだ。
 憲長は父景長と同様に山内上杉氏の家宰となり、足利高基の子亀王丸の元服に際して、将軍足利義晴の「晴」の一字をもらい請けるために奔走し、亀王丸は元服して晴氏となった。その功によって、憲長は但馬守に任ぜられた。憲長のあとは子の当長が継ぎ、上杉憲政の家宰を務めた。当長は初め関東管領上杉憲当(政)の偏諱を受けて当長を称したが、のちに憲政から関東管領職と上杉名字を譲られて関東に進出してきた長尾景虎(上杉謙信)の一字をもらいうけて景長と改名している。
武家家伝より

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