山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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有賀城④

2017-07-18 21:35:45 | 山城ー信州
本丸へ


東尾根から本丸東城壁を見ています。

本丸

東・南側には土塁

秋葉神社跡

この縄張り図には東北尾根に遺構があったようです。見逃してしまいました。

本丸東側土塁上

東大堀切を見下ろしています。

東土塁上から本丸を見渡しています。

麓にある江音寺

高遠頼継の生涯
武田方はさらに伊那の藤沢頼親や小県郡長窪城の大井貞隆らを攻め、天文14年(1545年)4月17日には高遠城も落城し(高遠合戦)、頼継も武田方に降伏し、甲府へ出仕する(『高白斎記』)。高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。天文17年(1548年)2月14日、武田方は小県郡の村上義清との上田原の戦いにおいて敗退すると同年7月に諏訪西方衆が謀反を起こすなど武田の支配領域では動揺が起こるが(『高白斎記』『勝山記』)、頼継は同年4月3日に甲府から高遠城へ帰城している(『高白斎記』)。
その後、再び武田氏に出仕しているが、天文21年(1552年)の下伊那攻めの際に自害させらた。法名は大用普徹大禅定院。それに代わって高遠氏重臣の保科正俊が武田氏に重用されるようになった。高遠氏は従来、頼継の死去をもって滅亡したと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』の記載から、永禄5年(1562年)に諏訪惣領家を継いだと見られていた信玄四男の勝頼が高遠諏訪家を継いでいたことが指摘されている。ウィキペディアより


次回 諏訪西方衆 真志野城

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