山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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有賀城③

2017-07-17 20:38:13 | 山城ー信州
曲輪5の西下から南周りに進み、本丸東尾根へ

宮坂氏の縄張り図には描かれていませんが、曲輪6とします。

曲輪6から曲輪5の城壁を見ています。

曲輪6の西下にある、段曲輪群

縄張り図は「信濃の山城と館6」段曲輪群が連なっています。
曲輪5の南下にある通路を歩いて本丸方面へ

南側は横堀と竪堀の組み合わせ

曲輪4・3の南下を登っています。

曲輪2と本丸との間の大堀切

大堀切は本丸東下にもあって、本丸は後方、前が東尾根

東尾根第一曲輪

東尾根第二曲輪

土橋と堀切、大堀切に戻り、次回本丸へ


宮川の戦い
天文11年(1542年)7月、諏訪惣領家の諏訪頼重は武田晴信と諏訪庶家の高遠頼継の連合軍に攻められて降参した](桑原城の戦い)。頼重とその弟の頼高は7月21日に甲斐で切腹となり、この際、諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領賭することで合意した。
しかし諏訪惣領の地位を目指す高遠頼継は宮川より西の諏訪郡しか手に入れられなかった事に不満を抱き、9月10日、武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。
9月19日、晴信は頼重の遺児である寅王を擁して若神子まで出陣し、自己の正当性を主張しながら板垣隊と合流する。9月25日、武田軍は宮川まで進軍し、未刻(午後1時から3時)頃に宮川橋付近で高遠軍と衝突した。この合戦は酉刻(午後5時から7時)まで続き、高遠軍は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700~800余人の死者を出して敗走した。ウィキペディアより





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