山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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芦野城③

2018-02-04 21:30:39 | 山城ー野州
本丸から曲輪3へ


二の丸(私見)から本丸に登ります。

振り返って二の丸を見ています。

本丸

本丸は南東に折れており、南から見ています。

本丸南虎口

虎口から東に渡り、曲輪3に渡れます。
曲輪3

本丸虎口から東に歩き曲輪3へ

本丸東城壁

曲輪4が曲輪3の東に位置します。

陣屋の西虎口に戻り、駐車場に帰る前に

陣屋の大手虎口南側にある竪堀を南下から見上げています。

以上で芦野城は終了です。次回 鹿沼市楡木町 茶臼山城

那須七騎、芦野氏の活躍
天正十二年になると、那須氏は宇都宮氏領への侵攻を繰り返した。これは、塩谷氏の内紛に対して、那須資晴と宇都宮国綱がそれぞれ介入したことによる。
 すなわち、川崎城主の塩谷義孝と喜連川城主の塩谷孝信は兄弟だったが、義孝は宇都宮氏から室を迎え、孝信は大関氏から室を迎えていたこともあって、双方、仲が悪かった。那須氏にとって喜連川城は南方進攻に際する重要な拠点であり、対する宇都宮氏は那須氏に味方する喜連川城の孝信を除くことを考えた。そこで、宇都宮氏は義孝を応援し喜連川城の攻撃をあおったのである。
 天正十二年(1584)、義孝の出陣に対して那須氏は援軍を送ったが、佐竹氏が来攻するとの情報があり兵を撤退せざるをえず、喜連川城は義孝勢に占領されてしまった。翌天正十三年三月、那須資晴は喜連川城奪回を目指して塩谷義孝の本拠川崎城攻略に出陣した。これに蘆野資泰も参陣し、那須勢と塩谷軍とは薄葉原で対陣した。両軍、激しい戦いとなり、資泰の男子盛泰は先鋒をつとめ敵勢を数多討ち取る軍功を挙げた。そのうち、塩谷軍には芳賀高継・壬生義雄らが加勢に加わったため、両軍一進一退となり、勝敗は決せず両軍兵を退いた。このように蘆野氏は那須氏の一族として、またその重臣として各地の戦場で戦い武名を挙げた。
 天正十八年(1590)の小田原の役に際して、蘆野盛泰は小田原に赴き豊臣秀吉に謁見し、「奥州仕置」の際は芦野に茶亭を構え諸軍を慰労するなどしたため、秀吉より腰刀及び黄金を与えられ所領を安堵された。武家家伝より


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