山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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西明寺城③

2017-09-23 09:37:43 | 山城ー野州
北尾根へ

本丸に戻り

本丸北側

土塁があり

本丸北曲輪と虎口

北尾根第一虎口

北尾根第一曲輪

第二虎口

立ちはだかる城壁を迂回して第三曲輪

驚くほどの段差を持った虎口

第四曲輪に立って、城壁を見ています。

北尾根はまだまだ続きます。

縄張り図は「関東の名城を歩く 北関東編」著者峰岸純夫氏・齋藤慎一氏 図を見ると林道から外れた北の遺構には行っていません。また、本丸西の曲輪bからの南尾根も未踏査でした。

益子氏を滅ぼした宇都宮国綱
天正4年8月7日(1576年8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏や皆川氏などの国内の反対勢力が活発化した事もあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには豊臣秀吉と手を結んで対抗する。
しかし、小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された[注釈 1]。 その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め[1]、文禄3年(1594年)には豊臣姓を下賜された。
しかし慶長2年10月13日(1597年11月22日)、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重[2]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが伺える。ウィキペディア

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