「関東・信州城郭一覧」の栃木県の項で、大網城(佐野市)を紹介しておりますが、先日再訪したところ、ほとんど篠薮で写真にはなりませんでした。
小野城は栃木県佐野市飛駒(旧田沼町)にある根小屋森林公園の北の山にあります。
小野城地図
県道208号線を北上しバス停町屋のからすぐに右折をすれば根小屋森林公園となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/6c/0e4681059c6d348e58e69a4dbd4492b3.jpg)
根小屋森林公園、奥に見える山が城山です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/01/320eab6e0f42c1e8ba94025709fe343a.jpg)
登るルートはいけづきの道とするすみの道があり、今回はいけづきの道を登りました。するすみの道の途中で、ぜんげんの道とこんぴらの道とがあり、四つのルーとがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/25/bf8be924a84149e3040944acc4bb3a1b.jpg)
金毘羅神社参道でもあり、石畳が敷かれてあったのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/92/87bd2759a432d9e168cb0d322e1a7f6a.jpg)
虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f6/bcdeeeffb99aa5d31a0d384a0d19e21d.jpg)
虎口を越えて第一腰曲輪を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/da/517d1991d23d3cb422431a80df642bbb.jpg)
第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/15/c0176c4b3c698e7dc937973442d3de3a.jpg)
第二虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/62/bad583b6ee8718ef51ff2f7db7eba6fa.jpg)
第二虎口の上に第三腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a2/5145d88e7d7fb84ac62601fc585a5dea.jpg)
第三虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/99/2a987f921e1d8c0b726cab2efa892bb7.jpg)
金毘羅神社前の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/7f/93247cc3d3a5253ed1e7ac6eb97156bf.jpg)
金毘羅神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/37/437bad15c97b269a6cf6279024da546c.jpg)
神社の北支尾根には曲輪が三段と付いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/8d/15edd5bcd5abbceb798cc77eb9f3b085.jpg)
神社の脇に井戸、奥に見える階段を登ると小野城詰め城ですが次回とします。
小野城の歴史
「佐野宗綱記」「栃木懸誌」などによれば、要谷山城(小野城)は天正年間の初めに佐野氏方であった小野兵部小輔高吉が、唐沢山城の支城として築城したものであるといわれています。
しかし天正10年10月10日に足利長尾氏に内通した小曽根筑前により小野高吉は謀殺され、平時の居所であった麓の館も焼失し、これに伴い山城も自落し足利長尾氏の支配するところとなったものと推定をされます。
田代善吉氏の「栃木県史」(第7巻)によれば、小曽根筑前は戦国時代末期の元亀天正の頃、足利家臣(長尾顕長の重臣)として小曽根城を居城とし、館林、金山をつなぐ重要な拠点であったといいます。また「長尾顕長分限帳」(長林寺蔵)によれば、名草城の押番(城代か)として小曽根筑前守が150貫文を知行していたことが記されています。 「城跡ほっつき歩記」より
小野城は栃木県佐野市飛駒(旧田沼町)にある根小屋森林公園の北の山にあります。
小野城地図
県道208号線を北上しバス停町屋のからすぐに右折をすれば根小屋森林公園となります。
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根小屋森林公園、奥に見える山が城山です。
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登るルートはいけづきの道とするすみの道があり、今回はいけづきの道を登りました。するすみの道の途中で、ぜんげんの道とこんぴらの道とがあり、四つのルーとがあります。
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金毘羅神社参道でもあり、石畳が敷かれてあったのかもしれません。
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虎口
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虎口を越えて第一腰曲輪を見下ろしています。
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第二腰曲輪
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第二虎口
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第二虎口の上に第三腰曲輪
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第三虎口
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金毘羅神社前の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/7f/93247cc3d3a5253ed1e7ac6eb97156bf.jpg)
金毘羅神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/37/437bad15c97b269a6cf6279024da546c.jpg)
神社の北支尾根には曲輪が三段と付いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/8d/15edd5bcd5abbceb798cc77eb9f3b085.jpg)
神社の脇に井戸、奥に見える階段を登ると小野城詰め城ですが次回とします。
小野城の歴史
「佐野宗綱記」「栃木懸誌」などによれば、要谷山城(小野城)は天正年間の初めに佐野氏方であった小野兵部小輔高吉が、唐沢山城の支城として築城したものであるといわれています。
しかし天正10年10月10日に足利長尾氏に内通した小曽根筑前により小野高吉は謀殺され、平時の居所であった麓の館も焼失し、これに伴い山城も自落し足利長尾氏の支配するところとなったものと推定をされます。
田代善吉氏の「栃木県史」(第7巻)によれば、小曽根筑前は戦国時代末期の元亀天正の頃、足利家臣(長尾顕長の重臣)として小曽根城を居城とし、館林、金山をつなぐ重要な拠点であったといいます。また「長尾顕長分限帳」(長林寺蔵)によれば、名草城の押番(城代か)として小曽根筑前守が150貫文を知行していたことが記されています。 「城跡ほっつき歩記」より