二の丸へ
本丸との堀切を越えて、二の丸の城壁に沿って登ってきます。
二の丸西曲輪(仮に)から一段高く二の丸へ
二の丸
二の丸と三の丸とを隔てる大堀切
大堀切を越えれば数段の曲輪
二の丸の西の大堀切を歩いています。
縄張り図のように南下の武者走りが本丸下まで通じています。
三の丸まで長い曲輪が伸びています。
振り返って見ても長い曲輪です。
西奥に一段高く三の丸です。
城主は北条丹後守の家臣・細越氏とあり、初代・細越備前守道信(細越将監)、二代・細越監物奇光、三代・細越大膳大夫の名があり、三代の時「御館の乱」があり、北条高広と行動を共にし、その後の消息はない。
この城の最期の城主は、同市内にある矢田城に拠った石口氏であると言うが、石口采女正広宗は「御館の乱」時には主家の北条氏の城代家老の地位にあり、子息達は「石口三兄弟」と言われ徹底して景勝派に抵抗したが、戦後景勝から「忠臣の者共!」と評価され後に景勝の臣下として取り上げられたと伝えられている。
松尾神社に隣接して、南に100mの平地があり、境内地を除いて畑として耕作されていたが、通称「モリ屋敷」が居館と言われている。 サイト「古城祉狂がゆく」より
次回 柏崎市 黒滝城
本丸との堀切を越えて、二の丸の城壁に沿って登ってきます。
二の丸西曲輪(仮に)から一段高く二の丸へ
二の丸
二の丸と三の丸とを隔てる大堀切
大堀切を越えれば数段の曲輪
二の丸の西の大堀切を歩いています。
縄張り図のように南下の武者走りが本丸下まで通じています。
三の丸まで長い曲輪が伸びています。
振り返って見ても長い曲輪です。
西奥に一段高く三の丸です。
城主は北条丹後守の家臣・細越氏とあり、初代・細越備前守道信(細越将監)、二代・細越監物奇光、三代・細越大膳大夫の名があり、三代の時「御館の乱」があり、北条高広と行動を共にし、その後の消息はない。
この城の最期の城主は、同市内にある矢田城に拠った石口氏であると言うが、石口采女正広宗は「御館の乱」時には主家の北条氏の城代家老の地位にあり、子息達は「石口三兄弟」と言われ徹底して景勝派に抵抗したが、戦後景勝から「忠臣の者共!」と評価され後に景勝の臣下として取り上げられたと伝えられている。
松尾神社に隣接して、南に100mの平地があり、境内地を除いて畑として耕作されていたが、通称「モリ屋敷」が居館と言われている。 サイト「古城祉狂がゆく」より
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