山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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護摩堂城

2016-07-03 20:23:36 | 山城ー越後
護摩堂城は新潟県田上町湯川にあります。

護摩堂山地図
県道55号線でアジサイ園の案内が出ています。アジサイ園は護摩堂城内にあります。

アジサイ園入り口(登城口)

駐車場にある説明板

護摩堂城主は甘粕景継、御館の乱では景勝方についています。

甘粕景継
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐に対して守りを固めていたが、「御家中諸氏略系譜」(『上杉家御年譜』)の記述によれば、景勝の命で会津参府中の留守の隙を突かれて、7月24日に伊達政宗によって白石城を奪われた。慶長6年(1601年)の米沢移封後は6600石を知行している。慶長11年(1606年)、桜田御門普請の頭取を務め、将軍家より時服と銀子を賜った。軍記物等では、妻の急死により会津へ戻った留守中に白石城を奪われたとし、そのことで景勝の怒りを買い死罪になりかけたり、以後景勝から冷遇をうけ、直江兼続の一配下に左遷された等の記述があるが、一次史料からは実証できない。
慶長16年(1611年)年5月12日に死去。寛永10年(1633年)に書かれた「甘糟家先祖書」にはゆえあって自害とあり、6600石は取り潰されたとあるが理由は不明。景勝の死後の寛永元年(1624年)、その子供たちは次代藩主の定勝によって200石で上杉家に復帰することを許されたとされる[2]。また、寛永5年12月18日(1629年1月12日)に米沢北山原で家族と共に斬首され、平成19年(2007年)に日本におけるキリスト教殉教者187名中の1人として列福された甘粕右衛門信綱(洗礼名ルイス)は、景継の次男とされる。
軍記物の中には、家康は景継を高く評価し、景勝から冷遇を受け続けていることを知り、2万石を与えて迎え受けようとしたが、景継は「景勝殿の怒りは私の責任であり、いかなる罰を受けてもそれはもっともなことである。それに長きこと上杉家に仕えており、今さら二君にまみえることは出来ない」と述べてこの誘いを断り、これを聞いた家康は「そういう人物だからこそ配下に欲しかった」と悔しがったという話が記載されている。ウィキペディアより



こんな遊歩道が続きます。

遊歩道の途中、谷砦が出てきます。本丸、二の丸、三の丸と備えた砦です。

谷砦の東城壁の麓にある縄張り図、薮で写真にはなりませんが、立派な山城です。

谷砦縄張り図

途中から東のコースにそれて

三角点に向かいます。

大きな堀切があり

南尾根を歩き進むと

三角点は南の出丸であったのかもしれません。
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