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今日の筆洗

2016年01月31日 | Weblog

 コピーライターの岩崎俊一さんが娘さんの幼き日について書いている。ある日、娘さんがキャスター付きの椅子にまたがって、モップを手にゴロゴロと動いていた▼「何してんの」と不思議がる家族の問いかけに「私は旅人。どうか私を引きとめないでください」。持っていたショルダーバッグに誰かが手を伸ばすと「ああこれこれ、旅人の大切な食事に何をなさいますか」。そうおすまし顔で注意したという(『大人の迷子たち』広済堂出版)▼何度読んでも声を上げて笑う。お子さんのいるご家庭ならば、こうした自然と顔がほころぶ逸話を宝箱にしまっているだろう▼岩崎さんはその後、家庭用ビデオの広告にこんなコピーを思い付いた。「この子の3歳は、たったの1年」。三歳とは、たった一年しかないと惜しがるほど、子にも親にも笑いと優しさがあふれる特別な時間である▼同じ三歳である。されど、その記事は何度読んでも痛みしか残らぬ。東京都大田区で三歳の男の子があざだらけの姿で亡くなった。母親の交際相手だった男から虐待を受けた。与えられたのは三歳にふさわしい幸せな空気ではなく、暴力、恐怖。そして死である▼三歳の一年は奪われ、四歳の一年も五歳の一年も訪れぬ。虐待根絶に真剣に取り組みたい。すべての三歳にまともな一年を用意できないのならば、この国は平和でも豊かでもない。


今日の社説

2016年01月30日 | Weblog

高浜原発再稼働 信頼を結べぬままに

 絶対の安全などないという。だとすれば、大切なのは「信頼」だ。その信頼を結べぬままの関西電力高浜原発(福井県)再稼働。何をそんなに急ぐのか。

 何度でも繰り返す。

 原子力規制委員会をはじめ、誰も安全だとは言っていない。安全を保証するものはいない。

 万一の事故が起きても、原状回復はおろか、満足な補償ができる力は国にもない。ほとんど無責任体制のまま、立地する自治体だけの同意を免罪符のようにして、原発が再稼働されていく。

 これではまるで、無保険の自動車が人混みの中を高速で突っ走るようなものではないか。

◆お隣さんは口出すな

 あれから間もなく五年になる。福島の尊い教訓が、あまりにも軽視されてはいないだろうか。

 今月二十五日、滋賀県と関電の間で、高浜原発に関する安全協定が締結された。

 滋賀県は、原発が集中立地する福井県に隣接し、高浜原発の三十キロ圏内に一部が入る。

 福島の事故のあと、原発三十キロ圏内には避難計画の策定が義務付けられた。それほど危険な所にあるということだ。

 滋賀県の嘉田由紀子前知事は3・11後、原発事故の被害を受ける地域は原発の地元であるという「被害地元」という考え方を提唱した。

 ところが、結ばれた協定の中身は、異常時の通報や、核燃料や放射性廃棄物輸送の際の連絡義務が中心で、原発再稼働の事前協議に加わる「同意権」は含まれない。

 新増設など重要な変更を事前に説明する義務もない。

 三十キロ圏内にかかる高島市なども、当事者扱いされてはおらず、通報内容などをその都度県に聞くしかない。

◆ちゃんと避難できるのか

 「安全」とは名ばかりの形式的な“通過儀礼”にとどまった。

 京都府は滋賀県より一足早く、昨年二月、同様の協定を結んだが、全国でただ一つ、原発から県境を越えた五キロ圏内、最短三キロという舞鶴市さえ、再稼働に関しては、沈黙を強いられる。

 高浜原発で重大事故が起きた場合の住民避難計画は昨年末、政府に了承されている。

 高浜原発では今月十一日から三日間、関電社員らが重大事故を想定した対応訓練を実施した。しかし、住民参加の広域的な避難訓練をしないまま、原子炉が起動する。順序が違う。ぶっつけ本番でうまくいくとは思えない。

 たとえば、京都市では六万五千人を受け入れる。府内では二千台以上のバスが必要になる。混乱は必至である。そもそもバスが確保できるのか。

 はじめに再稼働ありき。政府も含め、ハードルを可能な限り下げたうえでの再稼働なのである。

 福島では、福島第一原発から三十キロを超える飯舘村の一部が、いまだ帰還困難区域のままだ。

 事故発生直後には、屋内退避の指示が出た二十~三十キロ圏の病院の入院患者や福祉施設の入所者の移送の際に死者が出た。容体が重くて動かせず、圏内に取り残された患者も多かった。

 原発事故の被害は広域に及ぶ-。私たちは十分思い知らされたはずである。若狭の“原発銀座”で重大事故が発生すれば、日本海の強風にあおられて、その影響は福島以上に遠く、広く、拡散する恐れがあるという。

 被害地元の声に耳をふさぐということは、福島の教訓を踏みにじることにならないか。

 そして安全神話が復活し、悲劇を再び招く恐れが増さないか。

 “無責任”あるいは“先送り”は、ほかにもある。

 使用済み核燃料を保管する高浜原発の燃料プールは、すでに約七割が埋まっている。

 最終処分場選定のめどは立っていない。

 関電は二〇三〇年に、福井県外で中間貯蔵施設を稼働させると言っている。

 しかし、本紙の全国調査では、中間貯蔵施設の受け入れを前向きに検討すると答えた知事は一人もいない。やがてあふれ出す核のごみをどうするか。

◆安全はまた二の次か

 高浜原発3号機では、核兵器に転用可能なプルトニウムを核廃棄物から取り出して使うプルサーマル発電を実施する。

 リサイクル計画が頓挫する中、すでにあるプルトニウムを減らすところを米国に示したいという国の事情もある。

 プルサーマル発電では、原子炉を停止させる制御棒が効きにくくなるという。安全性の検討が尽くされているとは言い難い。

 何度でも繰り返す。

 電力会社の台所事情と政府の思惑が最優先の再稼働。住民にとっては「危険」と言うしかない。

 
 

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今日の筆洗

2016年01月30日 | Weblog

 フィリピンのレイテ島。肺を病んだ兵士は、分隊長に「役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ」と言われる。野戦病院に行き、受け入れてもらえなかったら「死ぬんだよ。手榴弾(しゅりゅうだん)は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」▼大岡昇平さんの小説『野火』は、そんな場面から始まる。大岡さんの回顧談をまとめた『戦争』(岩波書店)によれば、彼自身フィリピンの戦場で手榴弾で自ら死のうとした。家族の写真に別れを告げ、起爆させようとしたが、不発弾だった▼しかし実際に、大岡さんの戦友の一人は、肺を病んでいるのに病院から出され、所属部隊では「お前みたいなやつは死んでしまえ」と言われて、手榴弾で自殺したという▼そういう不条理な死に思いをはせつつ、二つの数字を見る。大戦中にかの地で戦没した日本人は、五十一万八千人。戦闘に巻き込まれるなどして死んだとされるフィリピン人は、百十一万人。その膨大な数字の一つ一つに、語られぬ物語があるのだ▼同国を訪問した天皇陛下は、日本人戦没者の慰霊碑とともに、フィリピン人の無名戦士の墓にも花を手向けられた。現地の晩さん会では、お言葉で戦闘に巻き込まれた現地の人の犠牲に触れ、「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」と語られた▼「決して」という三文字の、何と重いことだろうか。