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今日の筆洗

2018年12月31日 | Weblog

 「明治ハイカラ」「大正モダン」「昭和元禄」。元号にもニックネームがある。無論、その時代のある断面を示しているにすぎず、例えば「昭和元禄」には戦時中の貧しさはなく、戦後の高度成長期の活気や生活を享受する空気を皮肉まじりにそう呼んだのだろう▼二〇一八(平成三十)年の大みそかである。平成最後の大みそか。そう思えば元号改定はまだ先ながら、この日が平成という時代そのものの大つごもりのように思えるという人もいるだろう。そう考えれば、ひときわ寂しい年の暮れである▼平成にどんな愛称が似合うかを考えてみる。とんと浮かばぬ。それも複雑な平成ゆえか。思い付いたのが「平成バブル」とはあまりにも陳腐だが、はじけて消える泡やしゃぼん玉のイメージが頭から離れぬ▼バブル経済崩壊に限らぬ。ハイカラ、モダン、元禄。それらが西欧化や経済成長、物質的豊かさという明治以降の日本が大きくしようとしたしゃぼん玉の軌跡だったとすれば、平成にそれはおそらくしぼんだ。迷走した▼高い経済成長は見込めぬ。高齢化、人口減。戦争はなく明日のコメにも困らぬ。それでも消えぬ先行きの不安はしゃぼん玉がしぼんだ後、次の道が見えぬという心細さのせいかもしれぬ。平成はそういう決して明るくない分岐点に立っていた気がする▼さらば平成三十年。なんだかおまえがいたわしい。

 
 

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今日の筆洗

2018年12月30日 | Weblog

 歌人の馬場あき子さん(90)が終戦の一九四五年の大みそかの夜に何を食べたか思い出せないと書いていらっしゃった。カボチャは食べたはずだ。常食だったすいとんも食べたであろう。想像はできても具体的に思い出せない▼年の近い友人にも聞いてみたが、誰一人としてあの年の大みそかに何を食べたか覚えていなかったそうだ。「それほどまでに戦後直後の食糧事情は厳しかったということか」。抜け落ちた記憶の理由をそんなふうに考えていらっしゃる▼二〇一八年の大みそかの夜に何を食べるかはさほど問題にはなるまい。終戦直後に比べれば、食べる物は豊かという表現を超えぜいたくにもなっているだろう。だとすれば、昨今の大みそかの気掛かりは「何を食べるか」よりも「誰と食べるか」ということかもしれぬ▼少子高齢化、晩婚化によって単独世帯は増え続け、既に全体の三割を超える。好むと好まざるとにかかわらず、大みそかも一人で食べるという家だろう▼「サザエさん」の大家族は遠い昔。夫婦に子ども二人の「クレヨンしんちゃん」の四人家族さえ単独世帯の数を下回る。ちゃぶ台から一人欠け、二人欠けの大みそかの寂しい移ろいを想像する▼<テレビ消しひとりだった大みそか>。俳優の渥美清さんの句。カボチャでもにぎやか。食に不自由はなけれど、おひとりさま。ほどよき大みそかが恋しい。

 
 

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今日の筆洗

2018年12月29日 | Weblog

  小倉百人一首に入っている在原行平の<立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む>。行平が因幡守(いなばのかみ)に任じられ、都を離れるときの別れの歌だそうだが、おまじないとして使われる。これを玄関の柱に貼っておくと家出した飼い猫が帰ってくるのだそうだ▼内田百〓(ひゃっけん)の「ノラや」の中に出てくる。飼い猫のノラがいなくなって悲しみにくれる百〓先生、新聞の折り込み広告にノラの特徴に加え、この歌をわざわざ赤い字で刷り込んだそうだ▼ノラは帰らなかったが、まじないより家出の猫を捜すにはやっぱり科学の力か。ノラが帰らず、何かと涙をこぼし、風呂にさえ入らなかった先生に最近の良きニュースを教えたくなる。静岡市内でいなくなった飼い猫が約百七十キロ離れた名古屋市で約一カ月ぶりに見つかったそうである▼きっかけは猫の体内に埋め込まれたマイクロチップ。これで連絡先が分かり、無事<今帰り来む>につながった。愛猫家には自分の猫が帰ったようにうれしい話題である▼戌年(いぬどし)の年の瀬に猫の話題ねえと犬がへそを曲げそうだが、この統計も気に入るまい。調査によると今年のペット飼育数で猫が犬を上回ったそうだ。昨年、猫に抜かれ二年連続。戌年の効果もなかった▼少子高齢化の時代が犬より比較的飼いやすい猫に向かうか。むくれるな。犬の時代もまた、いつかは<帰り来む>。

 ※〓は門かまえに月

 
 

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今日の筆洗

2018年12月26日 | Weblog

 グラウンドなどをならす整地ローラーを「コンダラ」と呼ぶ人がいるそうだ。そう聞けば、語源を知る世代は噴きだしてしまうかもしれぬ。それは、誤解に由来する▼<思い込んだら試練の道を>。昭和四十年代にヒットした「巨人の星」の主題歌。歌いだしの<思い込んだら>の部分をどういうわけか、<重いコンダラ>と解釈し、整地ローラーのことをコンダラというのだろうと、それこそ思い込んでしまったらしい。時代を経て「コンダラ」という俗称が定着していたとはおもしろい▼こんな勘違いや思い込みなら笑い話にもなるが、こちらはひどい<思い込んだら>である。警視庁は最近、野方署が二十代の男性を窃盗容疑で誤認逮捕したことを発表したが、その原因は防犯カメラ映像による思い込みである▼カメラに写った犯人とみられる男とこの男性の特徴がよく似ていたらしい。男性は否認したが、警察は映像が動かぬ証拠とばかりに犯人だと思い込んでしまったようだ▼指紋採取などの裏付け捜査などは行われていなかったとは思い込みや先入観の怖さだろう。画像の詳しい解析によって、ようやく別人と分かった▼映像はウソをつかぬ。が、思い込みや決めつけというゆがんだフィルターによって人は事実ではない映像を見るのか。こんな失敗を二度としない。こっちの誓いの方は、強く思い込んでいただきたい。

 
 

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今日の筆洗

2018年12月24日 | Weblog

 クリスマスの物語を書きたいと公園で考えていたら見知らぬ犬が一冊の本をくわえてきた。読むとこんな話だった▼その犬は人になりたかった。人になって、おいしいものを食べる。暖かい帽子をかぶる。願いをかなえる太った男のうわさを聞いた。頼んでみよう▼犬は太った男を捜そうと村へ出かけた。太った男は見つからないが、年老いた女に出会った。「クリスマスよ。あなたにも」。パンを一つくれた。裏通りでは若い男が犬に声を掛けた。「寒いだろう。クリスマスだ。この帽子をあげよう」。犬は大喜びした。パンに帽子、僕は人間になっていく▼日が暮れた。雪が降ってきた。パンに帽子。けれど僕は人間にはなれない。街灯の下で泣いている女の子に会った。雪は強くなったが、帽子もコートもない。お母さんが帰ってくるのを待っているという。寒い夜に独りきり。犬はパンと帽子を女の子の足元にこっそりと置いて駆けだした▼帰り道。ひどい吹雪になった。前へ進めない。寒い。おなかもすいたが、犬は女の子のことを考えた。あの帽子とパン。喜んでくれたかな。翌朝。人間の若者がそこに倒れていた▼悲しいよ。本をくれた犬に言うとまだ先があると教えてくれる。人になった犬はあれから、太った男の手伝いをしているそうだ。やさしさと喜びを集め、足らない場所に配る仕事らしい。おまえもかい?

 
 

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