「縄文杉」をはじめ樹齢数千年の屋久杉が生きる鹿児島県の屋久島。山は深く、木の精「山和郎(わろ)」の話が語り継がれているという▼昔、木を探しに2人が山に入った。昼食休憩中、近くに巨木を見つけ「たんすにすれば立派なもんができるじゃろうなあ」と言うと急にゴッシン、ゴッシンと、のこでその木をひく音がしだしたそうな▼2人が顔を見合わせていると、次にバリバリバリと巨木が倒れる音がしたが、それは立ったまま。2人は青ざめ、またゴッシン、ゴッシンなどと聞こえ始めたため逃げ帰ったという。音で怖がらせ、切ってくれるなと訴えたのか。『屋久島の民話 第一集』(未来社)で読んだ▼台風10号の接近で強い風が吹いた屋久島で推定樹齢3千年の「弥生杉」が倒れた。高さ約26メートル、幹回り約8メートルの巨木。根元近くから約1・5メートル残して折れたという。山和郎が木を守ろうとしても、自然の強烈な破壊力の前には、なすすべがなかったか。観光地の「白谷雲水峡」にあり、登山経験の少ない人でも見に行きやすい木だったという。地元の人たちの落胆を思う▼屋久杉が長寿なのは、花こう岩の地に育つせいだという。栄養が乏しいために成長はゆっくり。年輪が密となり、樹脂も多くなって腐りにくく、長生きするという▼逆境ゆえの大器晩成とは立派。弥生杉の頑張りをたたえる言葉を山和郎にかけたくなる。
車いすラグビーの国際的スター、オーストラリアのクリス・ボンド選手がこの競技についてこんなことを語っている▼「車いすに乗っている人に対し、人々はこんな先入観を持っている。優しく包み込んであげなきゃ、彼らはか弱いのだから」。ボンド選手は言う。この先入観に挑戦しているのが車いすラグビーなのだと▼パリ・パラリンピックの車いすラグビーの決勝で日本は米国を逆転で破り、初の金メダルに輝いた。快挙である。世界ランク1位、オーストラリアの猛攻を堅守で防ぎきった準決勝も忘れられぬ▼車いすへのタックルが認められており、パラ競技の中で最も激しいボディーコンタクトの起こるゲームだろう。車いすが大きな音をたててぶつかる。ひっくり返る。またの名を「マーダーボール」(殺人球技)。恐怖さえ感じる荒々しいゲームを見ればこれがパラ競技であることを忘れるだろう。そして人間の強さをあらためて思う▼「選手それぞれに輝ける場面がある」。逆転のトライを決めた橋本勝也選手が語っていた。障害の重い選手は相手の攻撃を防ぎ、味方のために壁となり、トライへの道をつくる。男女混成で女性選手も巨体選手にぶつかっていく▼自分には何ができるか。それぞれができることを持ち寄り、考え、ひとつとなって勝利を目指す。この調和の競技での日本の「金」がうれしい。お見事。
強打と俊足の野球選手で「球聖」と呼ばれたタイ・カッブが自伝の中で野球が変わったと嘆いていた。1940年代の話だろう。当時の強打者テッド・ウィリアムズ、スタン・ミュージアル、ジョー・ディマジオら4人の盗塁数を挙げ、1年間の合計でわずかに7個だったと指摘している▼カッブによれば昔の強打者は走れもしたが、長打力ばかりが注目され、盗塁が軽視されるようになったと。その傾向は今も変わらない。そもそも、盗塁自体が非効率な戦術という意見も最近はよく聞く▼つむじ曲がりと伝わる「球聖」も今年の大谷翔平選手には拍手を送るだろう。同一シーズンで本塁打40本と盗塁40個を記録する「40・40」を達成。さらに打って走って「43・43」の大リーグ新記録を打ち立てた▼日本ハム時代、当時の栗山英樹監督は大谷選手のけがを恐れ、盗塁を禁じたこともあったそうだ。滑り込み、野手と接触することもある危険な盗塁である▼大谷選手の盗塁に歓声を上げる一方で、あまり無理をしなくてもと心配するファンもいるか。けれどもこれが大谷選手の「野球術」なのだろう▼プレーする喜びが伝わってくる選手である。打ちたい、走りたい。今年は投げられなかったが、野球のすべてを楽しみたい。その熱と喜びが力となり、記録を残す。「50・50」の達成とともに無事を願う。まだポストシーズンもある。
懐かしき若者向け雑誌『ホットドッグ・プレス』に作家北方謙三さんの人生相談『試みの地平線』があった。記憶する人は中高年以上の男性か▼いかにもモテそうな北方さんが生き方を説く。「彼女がデートなどの約束を守らなくて困っています」との相談には「張り倒せ」と答えた。掲載当時は昭和。今なら不適切と咎(とが)められそうだ▼「生きるのが限界で自殺のことを考えています」という悩みには、何でもいいから本を50冊読めと助言した。「50冊読むまでは死ぬな。50冊読んでみて、それでも死にたいと思ったら、また手紙をくれ」。本で時をやり過ごせとの趣旨である▼明日は9月。近く学校が始まる子は多い。いじめなどに悩み早まった行動をせぬかと心配する時期、学校が嫌なら逃げていいと唱える活動「#逃げ活」を展開する団体もある▼何から逃げたいかや、逃げたい時のやり過ごし方などを書きだす作業を勧め、必要な台紙なども提供する。ゲーム、昼寝、散歩など手段は多様だろうが、それで命をつなぐ戦略は「本50冊」回答と同じであろう▼北方さんは、読むなら小説もいいと作家の自負をにじませた。「俺は小説が世の中の役に立つなんて考えたことはないが、死にたがっている人間を止めるぐらいの時間を与えることはできると思う」。逃げ込んでくれたら本望だと言う人もいるのだから堂々と逃げていい。