Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

息をしている

2009-08-14 | こころ
何年前になるだろう。

体が一番くるしかったとき、
わたしはただ、息をしていた。

***

ヨガの原型のようなものは、
古代インダス文明の中に、既に存在していたらしい。

その後、インド地域へ侵攻してきたアーリア人が、
自らの信仰の中にこれを取り入れ、
発達してきたという。

バラモン教と呼ばれたその信仰形態は、
今はヒンドゥー教と呼ばれている。

北インドの釈迦族は、アーリア人ではなく、
むしろヒマラヤにすむ人々に近い部族だったという。

けれど、その王子だった釈迦牟尼もまた、この地域の伝統に乗っ取り、
ヨガ的な瞑想によって悟りを求めた。

悟りを開いた釈迦牟尼は、ヒンドゥーとは違う教えを開くことになる。
仏教である。

つまり、仏教の瞑想…日本では止観とか禅と呼ぶものもまた、
このインダス文明の血脈を受け継いだものなのだ。

***

ヨガは、体の中の気の流れを促進する。

身体中の気の流れが完全になった時、悟りが開けるという。

つまり、気の流れが完全になった時、人間的な作為は鎮まり、
こころは止滅して、聖なる真の姿が現れる、と。
そしてそれは、至福の状態なのである。

“聖なる真の姿”がいかなる物か、という点と、
その後の発達に伴って生じた文化的伝統の違いが、
ヨガと仏教的な瞑想の違いになるが、

気の流れを促進する点は、変わらないと思う。

***

気は、息による。
ヨガ的な考え方では、呼吸は重要な位置を占める。

一番くるしかった時、
わたしは息ができなかった。

気は、呼吸と共に、体の下から上へ抜ける。

わたしの体の中は、
数えきれない粘りけのあるガムのような物で詰まっているような感じで。

いくら呼吸しても、気が流れない。
それはわたしにとって、物凄く混乱する事だった。

気の詰まっている場所で、思念もまた止まってしまい、
ものが考えられなかった。

体はだるくて、動かない。
わたしは布団に横たわって、息をしていた。

家の東、日の昇る位置にはるかにそびえる、
菅平のなだらかな山姿に思いを馳せながら。

まったく本能的な行動だったと思う。

吐く息で、菅平の神に救いを求め、
吸う息で、菅平の神から愛を分け与えられた。

或いは、そうイメージしていた。

あとで調べたら、それは
ある瞑想法の呼吸に似ていた。

解説書には、自己流の呼吸を戒めるものもある。

でも、それはまったく本能的な行動で、
生きる為の行為だった。

***

体調が悪い。

あの頃のように、全体が詰まっているのではないけれど。
詰まっている処の、流れまいとする抵抗が激しい。

わたしは、今も息をしている。

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