昨日のブログで、プロメテウスの火と西洋的な意識について少し触れました。
ユング派の分析家エーリッヒ・ノイマンによると、
西洋においては「無意識-闇-夜」「意識-光-昼」というイメージの連関があるようです。
もしこの図式をそのまま当てはめていいのなら、
未だ意識も無意識もない原初的な混沌から自我(意識の核)が芽生えるイメージは、
そのまま、闇夜に火が点されるイメージと重なります。
プロメテウスは、日の出の太陽から火を盗み、それを人間にもたらしました。
そこから文明が始まり、人は人の力で闇を克服し始めます。
それは自我=火が、暗闇を照らしながら、光の届く範囲=意識の領域を広げていくという
西洋的な意識の成熟過程のイメージに、そのまま通じるものです。
ですが、それは日本にも当てはまるものでしょうか?
***
日本では、火の神カグツチは、イザナギ・イザナミの間に生まれた、
言わば太陽神アマテラスの兄にあたります。
出生の際に母・イザナミを焼き殺し、みずからも、怒ったイザナギに斬り殺されてしまう。
そのためにイザナギは、死んだイザナミを連れ戻すための黄泉への旅に向かうことになり、
その旅は結果として、人間の世界に死をもたらすことになりました。
つまり“見てはいけない”というイザナミとの約束を破ったイザナギのために
彼女の“恨み”を受けて死が生じた、という、
あの有名な逸話をもたらしたのです。
日本の火の神は文明の始まりとは言えず、むしろ、死をもたらす災厄の始まりでした。
神として祀られてからは、防火の神として敬われています。
日本の最古層において、“火”は文化の始まりというよりむしろ
神ではあるものの、死をもたらす厄介なものとして、とらえられていたのだと思います。
“稲作”という文化の始まりをもたらしたのは、太陽神アマテラスであり、
カグツチのさらに後に生まれた輝く存在として描かれています。
***
河合隼雄さんによれば、日本的な意識においては“自我”の働きが弱く、
無意識・意識を含んだ“こころ”の中心である“自己”によって、意識が成立する傾向が強いそうです。
つまり、日本人にとって“自分”とは、自意識によって成立するものではなく、
むしろ無意識中の何者かによって成立させられているもの、と考えることができます。
河合隼雄 『日本社会とジェンダー』より
仏教にも“無自性”という考え方があり、そもそも自分なんてものはないのだと。
すべて、個々の事物は“縁起”すなわち、世界との関係によって存在させられているのだ、といいます。
仏教的な“智慧”は、こうした相互関連の網目を照らしだす光である、と考えることができます。
無意識を含んだ世界が、決して混沌ではないことを明らかにしていく。
神仏分離以前の日本においては、太陽神アマテラス=大日如来であり
大日如来は、相互関連によって存在している宇宙の中心にして根本原理、といわれます。
別名を“遍照如来”。すなわちあまねく照らす仏。
(より正確には、伊勢内宮=胎蔵界の大日如来、外宮=金剛界の大日如来とのこと)
ユング的なイメージ連関においても、自己と太陽のイメージは重なるものととらえられています。
日本において、太陽神としてすべてを照らし出すのはアマテラス。
彼女を失うことにより世界が闇夜となる、中心の神。
そのイメージと、
無意識を照らし出し、日本的な意識を成立させる、日本的“自己”のイメージが重なります。
どうやら日本的な意識というのは、
みずからの火ではなく、無意識の領域から照らす智慧の日によって存在してきた、
と考えることができそうですが…
いかがでしょうか?
ユング派の分析家エーリッヒ・ノイマンによると、
西洋においては「無意識-闇-夜」「意識-光-昼」というイメージの連関があるようです。
もしこの図式をそのまま当てはめていいのなら、
未だ意識も無意識もない原初的な混沌から自我(意識の核)が芽生えるイメージは、
そのまま、闇夜に火が点されるイメージと重なります。
プロメテウスは、日の出の太陽から火を盗み、それを人間にもたらしました。
そこから文明が始まり、人は人の力で闇を克服し始めます。
それは自我=火が、暗闇を照らしながら、光の届く範囲=意識の領域を広げていくという
西洋的な意識の成熟過程のイメージに、そのまま通じるものです。
ですが、それは日本にも当てはまるものでしょうか?
***
日本では、火の神カグツチは、イザナギ・イザナミの間に生まれた、
言わば太陽神アマテラスの兄にあたります。
出生の際に母・イザナミを焼き殺し、みずからも、怒ったイザナギに斬り殺されてしまう。
そのためにイザナギは、死んだイザナミを連れ戻すための黄泉への旅に向かうことになり、
その旅は結果として、人間の世界に死をもたらすことになりました。
つまり“見てはいけない”というイザナミとの約束を破ったイザナギのために
彼女の“恨み”を受けて死が生じた、という、
あの有名な逸話をもたらしたのです。
日本の火の神は文明の始まりとは言えず、むしろ、死をもたらす災厄の始まりでした。
神として祀られてからは、防火の神として敬われています。
日本の最古層において、“火”は文化の始まりというよりむしろ
神ではあるものの、死をもたらす厄介なものとして、とらえられていたのだと思います。
“稲作”という文化の始まりをもたらしたのは、太陽神アマテラスであり、
カグツチのさらに後に生まれた輝く存在として描かれています。
***
河合隼雄さんによれば、日本的な意識においては“自我”の働きが弱く、
無意識・意識を含んだ“こころ”の中心である“自己”によって、意識が成立する傾向が強いそうです。
つまり、日本人にとって“自分”とは、自意識によって成立するものではなく、
むしろ無意識中の何者かによって成立させられているもの、と考えることができます。
河合隼雄 『日本社会とジェンダー』より
仏教にも“無自性”という考え方があり、そもそも自分なんてものはないのだと。
すべて、個々の事物は“縁起”すなわち、世界との関係によって存在させられているのだ、といいます。
仏教的な“智慧”は、こうした相互関連の網目を照らしだす光である、と考えることができます。
無意識を含んだ世界が、決して混沌ではないことを明らかにしていく。
神仏分離以前の日本においては、太陽神アマテラス=大日如来であり
大日如来は、相互関連によって存在している宇宙の中心にして根本原理、といわれます。
別名を“遍照如来”。すなわちあまねく照らす仏。
(より正確には、伊勢内宮=胎蔵界の大日如来、外宮=金剛界の大日如来とのこと)
ユング的なイメージ連関においても、自己と太陽のイメージは重なるものととらえられています。
日本において、太陽神としてすべてを照らし出すのはアマテラス。
彼女を失うことにより世界が闇夜となる、中心の神。
そのイメージと、
無意識を照らし出し、日本的な意識を成立させる、日本的“自己”のイメージが重なります。
どうやら日本的な意識というのは、
みずからの火ではなく、無意識の領域から照らす智慧の日によって存在してきた、
と考えることができそうですが…
いかがでしょうか?
十数年前の学生時代に、小指の爪0・1ミリかじった程度な私なんですけど…って、歳がばれてしまうやんけ!(涙)
すみません、頭悪いの全開なコメントでm(_ _)m
ともあれ開設おめでとうございます(*^▽^)/★*☆♪
若干頭良さげなコメント残せるよう精進します…って、かなり遠い未来の話だわ、いやマジ
あなたはそのままで充分! もう、いいヤツだ!
わたしが小難しいやつなんだからさ。
励みになりました。ありがとう!