Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

“廃仏毀釈”以降

2009-09-29 | こころ
日本人は、
自分のこころの扱いに悩んでいる、と思う。

利他と共存の伝統と、
競争と成功の新しいシステムの間で、
揺れ動いている。

メディアや多くの言論もまた、二分されている。
実際に影響を受ける身近な人々の考えさえも。

どんな考え方に出会い、何を選ぶかも又、
縁だと思う。

ただ、色々ある縁を検討もせずに、
個我や煩悩のままに打ち捨てて行くなら、愚かなことだ。

***

考えるまでもなく、この地球は、
すべての人々の自己愛着を満たすだけの許容量を持たない。

アフリカやアジア、南アメリカ、洋上の島に住む全ての人々が、
先進国の人々と同じように物質的に満たされようと思えば、

資源はあっという間に枯渇する。

全ての人が自らの愛欲を満足させることはできないし、
全ての人が同じように出世することなど、出来ない。

自己愛着を満たす為の宗教は最初から、
信じるものの自己愛着を優先し、そうでない者を蹴落とすしかない。

それが愛だろうか?

全ての人々の自己愛着を満たせる世の中になって下さい、という祈りは、
現実を無視している。

自己愛着を打ち砕き、人間のこころを変える方が、
よほど現実的だと思う。

教祖がこころの変え方を知らない、という理由で、
こころを変えることを非現実的と見なすべきではない。

自己愛着の壁を打ち砕こうとする足掻きを、傲慢と見なすべきではない。
せいぜい未熟なだけだ。

***

人の顔色をうかがうことは、自己愛着である。
自分が傷つく事を嫌う、自分かわいさである。

人の顔色をうかがう人が、それをせずに済む強さを手に入れたら、
今まで恐れていた人を蹴落とすだけだ。

自分可愛さを守ってくれる宗教は、愛ではない。
現実世界の許容量を知らない、無知・無明だ。

相手に傷つけられる、という思いを捨て、
相手に自分の善根を与え、相手の言葉が自らの自己愛着を打ち砕く、
トン・レンを行うべきである。

傷付く自己など、そもそもない。傷付く仏性など、存在しない。

利他は恐れを超えさせてくれる。
それは確かだ。

自分可愛さを甘やかし、
彼が恐れずに済む世の中を作っても、
彼は進むべき正しい方向を知らない。

彼にはまだ、
利他に基づく哲学がない。
彼はまだ、主体性を持たないのだ。

***

自己愛着を満たすために成功したい、
他者を顧みず、欲望の満足のために競争に打ち勝ちたい、
という思いは、

顧みられず軽蔑された相手が
恨まず、行動を起こすこともない、という幻想に
基づいている。

もしも恨まれ、行動を起こされても、
力でねじふせる事ができる、という幻想に。

この世でねじふせおえたとしても、
その思いが消えることはない。
輪廻を超えて追いかけてくるのだ。

仏教では、思いが世界に現れると考える。
人々と命に影響を及ぼすと。
それ故に、観想を行う。

利他に思いを切り替えない限り、
思いは障りとして、人を脅かし続ける。

気にしないように心を強くすることは、
個我の殻を厚くするだけだ。

仏性は個我に覆い尽くされ、真実の楽しみを得ることができない。
肉体的な刺激と快楽のみを楽しみとして、生きることになる。

彼は、精神的な共感で、
真に他人と心を通わせる事もできない。
疑心暗鬼の人生が待つ。

利他の精神を以て生業に励み、
ライバルは顧みて、軽蔑すべきではないと思う。

彼にもまた幸せが…あるいは別の幸せがあるように、
自らの功徳と善根を分け与えるべきだろう。

***

伝統的な利他と共存は、
すべての自己愛着が平等に満たされるべきである、という
幻想に変質している。

競争と成功の理論は、自己愛着に基づき、
他者を顧みずに打ち捨てている。

自己愛着によらず、利他の思いによって頑張ることもできるのに。

自己愛着を捨てることと、その捨て方を、日本は忘れた。

世の中は、仏教的な思想の裏付けを失ってきたのだと思う。
“廃仏毀釈”以降。

“お陰さま”
“いただきます”

仏教勢力は打ちのめされても、庶民の生活の中に染み付いていた、
功徳を積む習慣。

それさえも今、廃れつつあるのだと思う。

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