てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

中国の近代絵画とは何か(3)

2012年02月20日 | 美術随想

劉海粟『瑞西風景』(1931年)

 劉海粟(りゅうかいぞく)の『瑞西風景』は、中国にもゴッホの追随者がいたということの証明のようなものであろうか。炎のように揺らめく樹木はゴッホの糸杉の描写そのままだし、激しくうねる空の雲も、例えば『星月夜』の夜空の表現とよく似ている。

 それに、直接の関係はないが、ぼくは「劉海粟」という名前から日本の岸田劉生のことを連想してしまうのである。劉生という名は、父親の岸田吟香がつけた本名であるが、その字面から中国と関係があるのではないかと噂されたらしい。なかには、この男児は中国から連れてこられたのだ、などとまことしやかに語られたこともあったという。そんな劉生も、若いころはゴッホの影響をかなり受けていた。

 ゴッホの絵画というのは、絵描きなら一度はかぶれる“はしか”のようなものなのだろうか。かの棟方志功も、「わだばゴッホになる」と語っていたのは有名な話である。日本には雑誌「白樺」を通じて早くからゴッホの絵が紹介されたという経緯があるが、中国でのゴッホの受容の歴史というのは、どうなのだろう。

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 劉海粟は1896年に生まれ、1994年に98歳で亡くなった。大変な長寿である。日本でいうなら、岸田劉生に師事した中川一政とほぼ重なる。

 その多彩な経歴を見ると、本当に驚かされる。とにかく、中国ではじめてモデルを使った絵を描いたのは劉海粟であるとか、はじめて写生旅行を敢行したのも彼だとか、いろんなことがいわれているのだ。西洋では当たり前だった習慣を、中国に持ち込んだ人だったのだろう。だとすれば『瑞西風景』も、現地のスケッチに基づいて描かれたものにちがいない。瑞西とは、スイスのことである。

 だが正直にいうと、ぼくにはこの絵の景色がスイスにはとても見えない。技法があまりゴッホに似すぎているからかもしれないが、色彩はかなりくすんでいて、暗い。それに天候がすぐれないためか、何となくざわざわしているように感じる。劉はスイスのレマン湖畔に別荘を借りたというから、これはその別荘を描いたものかもしれないが、どうしてもぼくの頭のなかには、晩年のクールベが亡命先のスイスで描いた風景画のイメージがよぎってしまう。


参考画像:ギュスターヴ・クールベ『シヨン城』(1874年、クールベ美術館蔵)

 このシヨン城は、レマン湖畔に今も残る古城だが、あの自己顕示欲の強いクールベの絵とは思えないぐらいに静まり返った風景なのだった。

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王済遠『杭州湖畔』(1932年)

 王済遠(おうさいえん、1893~1972)の絵の前に立ったとき、ぼくは不覚にも、何だ、もっとスイスらしい絵があるじゃないか、と思った。その柔らかい色彩と、輪郭の溶け出したような造形は、音もなく心にしみ入ってくるようだった。

 けれども題名はレマン湖畔ならぬ、『杭州湖畔』とあるではないか。なるほど建物は中国の楼閣の面影をわずかにとどめているし、手前の湖面を滑っていく船は、中国の山水画によく出てくるのと同じかたちをしている。ただ、峨々たる岩山が聳え立つかわりに、湿気を含んだ木々が優しくわれわれを包み込む。ここは天上の理想郷ではなく、地上の人間を癒やしてくれる場所である。

 現代の中国には、白亜の建物にオレンジ色の屋根をのせたような、こういうハイカラなホテルや別荘があっても不思議ではないのだろう。クールベの絵をあいだに挟んで、ぼくは西洋と東洋の境目に迷い込んでしまいそうであった。

(所蔵先の明記のない作品は京都国立博物館蔵)

(了)


DATA:
 「中国近代絵画と日本」
 2012年1月7日~2月26日
 京都国立博物館

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