てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

緑に囲まれて(1)

2022年03月04日 | 美術随想

旧「香櫨園」駅の看板(2020年3月21日撮影)

 西宮市大谷記念美術館には、よく足を運ぶ。ぼくにとって、心の休まる場所のひとつである。同じ西宮にある、甲子園などとは対照的かもしれないが…。

 最近、中之島にオープンした新しい美術館にもいえることだが、“規模の大きさ”が売りになっているような気がしないこともない。展覧会の内容もそうだけれど、いわゆるハコの規模についてもそれは当てはまる。つまり遠くからでも見える大きな建物に、何百点もの作品が詰め込まれている、そんな印象が強いのである。

 もちろん美術ファンにとって、そういうハコも必要だ。もうおなかいっぱい、というぐらい次から次へと名作が眼の前にあらわれる、といった展覧会にも、食指が動く。これぞ美術を観る醍醐味だ、と痛感できることも少なくない。日本という国は、最近ではコロナとの兼ね合いもあるが、そういったゴージャスな展覧会が絶えず開かれている稀有な国のひとつなのである。

 だが、ときには、こぢんまりとした美術館へ出向き、言葉はわるいが“貸し切り”のような静寂のなかで美術と向き合いたい、と思うこともある。人が少ないということは、運営側としてはあまり歓迎すべき状況とはいえないかもしれないが、観客としては、まことに贅沢な空間を提供されている心地になる。

 誰もいなかった展示室に入っていくとき、監視員がきちんとした姿勢で椅子に腰かけているのを眼にすると、心のなかで“さあ、お仕事ですよ”と呼びかけたい気持ちにもなる。もちろん監視員にとっても、退屈で仕方ない時間があるはずなのだが…。一種の“黒子”に徹している監視員の方々には、本当に「お疲れさま」といいたい。貴重な美術品の価値が守られているのは、監視員の方々のおかげだ、といってもいいのだから。

                    ***

 西宮市大谷記念美術館では、これまで行列に並んだこともなく、人込みに揉まれたこともない。いつ行っても、閑散としている。昨今慣れ親しんだいいかたなら、いわゆる“密”になることがまったくないといえる。つまり、コロナからもっとも安全な場所のひとつでもある。

 かつて、美術館は軒並み休館を余儀なくされる時期もあった。だがぼくは「なぜ?」という疑問を抑えることができなかったのだ。場所によっては、これほどコロナの蔓延から程遠いところもないのに…。

 この日も、しとしとと雨の降るなか、阪神の香櫨園(こうろえん)駅を降りた。この香櫨園にはかつて、遊園地があったらしいということを井上靖の小説で知ったが、今はその痕跡はまったくない。ただ、駅前に貼られた旧式の看板だけが、当時を偲ばせる。

 ラブホテルや和菓子店などが点在する、まったく統一感のない町を、しばらくとぼとぼと歩く。すると、不意に緑豊かな美術館の敷地が出現するのである。住宅街のただなかに、いきなり、という感じだ。もっとも、隣には村上春樹が卒業したという小学校が建っていて、コアなファンが見物に訪れてもよさそうだが、今のところそんな気配もない。いわゆる閑静な住宅街である(ただ、小学校の建物は最近、全面的に建て直された)。

 美術館の入口を入ると、広々としたフロアが広がり、ベンチがいくつか置かれていて、その向こうには日本庭園の美しい景色がガラス越しに眺められる。この開放的な空間が、ぼくは好きだ。いかにも展示室に誘導されるような、機械的な構成ではない。無心に、いつまで佇んでいてもいい。都会であくせく働いていると、こんな空間の遊びが、どんなに大事なものか分かってくる。

 そう、美術は、“空間”とともにあるものなのだ。かつて生前の元永定正が、ここの展示室まるまる一室を使って無邪気な即興制作をおこなったのも、そんな心のゆとりのあらわれであったろうかと思える。

つづく

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