てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

仮住まいの美術品たち(3)

2012年11月07日 | 美術随想

モイーズ・キスリング『オランダ娘』(1922年、大阪市立近代美術館建設準備室蔵)

 美しい女性像をたくさん残したキスリングの『オランダ娘』は、誰からも愛される絵であるように思う。リクエスト投票の結果も14位と、そこそこ人気がある。

 たしかに陶器のような艶のある肌と、筆跡を残さない滑らかなマチエールは、現代のイラストレーションともどこかつながっているところがあって、余計なことを考えずに無心に眺めることができる。つまり、“うわべ”が非常に丁寧に仕上げられているために、モデルの内面にまで押し入っていく必要を感じないのだ。あえていえば、今や世界中を席巻したかに思える「コスプレ」とよく似ている。重要なのは見た目であって、その人の精神や思想ではない。

 こういう感覚は、フェルメールを観るときにもしばしば味わうことがある。開催中の「マウリッスハイス美術館展」に合わせて、ある若手女優が真珠の耳飾りをつけ、黄と青に塗り分けられたターバンをかぶって登場するという、手の込んだ宣伝をしていたのもその一種だろう。視覚を通じてじゅうぶんに楽しめさえすれば、それ以上のことを考えるのはどうでもよくなってくる。眼が喜びさえすればいいのだ。

 だが、それゆえに、キスリングの絵がどこか物足りない感じがするのもまた事実である。娘の背後には暗い影のようなものが広がり、この少女自身の心の闇を予感させもするのだが、まるで民族衣装を着たファッションモデルの写真のように、彼女の本心は精巧な絵肌の向こうに慎重に糊塗されてしまっている。

 それに、椅子の背の上で組まれた彼女のむき出しの両腕が、ぼくには妙に薄っぺらに思えて仕方なかった。どこがどう変なのかは言葉で説明するのが難しいが、下になったほうの腕の量感があまりにも足りないように思われた。二本の腕が重ねられているのではなく、ひとつにつながってしまっているように見えた、とでもいおうか。佐伯祐三やモディリアーニのようにあまり写実的とはいえない画家であればさほど気にならないようなところも、キスリングみたいにデッサンの破綻の少ない人が描くと、ちょっとした狂いがいつまでも眼についてしまう。

                    ***


参考画像:ジュール・パスキン『サロメ』(1930年、大阪市立近代美術館建設準備室蔵)

 今回、残念ながら選外となった作品に、パスキンの『サロメ』がある(もちろん展示されてはいない)。キスリングとともにエコール・ド・パリに分類される画家だが、同じ女性像を描いても、天と地ほどの差がある。だがこれはこれで魅力的な絵だし、『サロメ』は日本にあるパスキンのなかでも、晩年を代表する重要な作品ではなかろうか。

 かっちりとした硬質な人物像を描いたキスリングに比べ、パスキンの絵はあまりにもはかない。まるでシャボン玉みたいに、一瞬にして砕け散ってしまいそうな危うさがある。しかも危ういのは絵のタッチだけではなくて、大人になりきっていない少女が未成熟な裸体を晒しているなど、モチーフにも危険な香りが伴う。リクエストの票が伸びなかったのは、そういった“反社会性”への遠慮からなのだろうか?

 サロメは聖書に出てくる魔性の女の代名詞のような存在で、官能的な踊りを踊った報酬にヨハネの首を要求するという人物だ。この絵ではもちろん、少女をサロメに擬して描いているのであるが、彼女の足もとには誰かの生首が転がっている。しかし、彼女は何か深い考えの底に沈んでいて、その首に気がついている様子もない。

 このころ、パスキンは友人の妻との道ならぬ関係に苦しんでいたといわれる。しかしその女はある日、パスキンの元を去っていってしまった。絶望したパスキンは浴室で手首を切り、そのうえで首を吊って自死を遂げる。

 この絵に描かれた生首は、パスキンの自画像だという説もあるそうだ。いずれにせよ、魔性の女によって命を奪われた哀れな男を、この画家はみずから演じきってしまったことになる。椅子に座って瞑想しているかのような少女が、心の底で何を考えているのかまではわからないが、単なるサロメのコスプレではない深遠なる人間の愛憎がそこには横たわっているのであろう。

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。