てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

再び、現代美術に肩まで浸かる(2)

2018年06月19日 | 美術随想

〔国立新美術館で展示された草間彌生のインスタレーション(2017年4月14日撮影)〕

 ふと思いついたのだが、現代美術には外向きと内向きの相反するベクトルがあるのではないか、と思う。いいかえれば、外交的なものと内向的なものに二分されているのではないかということである。

 たとえば、最近特に人気を集めている草間彌生。今や知らない人はないというほど著名になったこの人物は、ポップな水玉模様やカボチャの造形など、キャッチーな作品で広く認知されているようである。だが、ぼくの知るかぎり、草間の存在が世間で広く認められるようになったのはごく最近のことに過ぎない。

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 ぼくがはじめて彼女の名を知ったのは、もう30年ほども前の、文芸誌の広告であった。そう、ぼくは草間のことをアーティストとしてではなく、作家として知ったのだ。その著書のタイトルからして(確か『クリストファー男娼窟』だったか?)意味不明で、土偶か何かをあしらったような奇妙な広告は、ぼくに嫌悪感しかもたらさなかった。どうせまた、新進気鋭の若き小説家が、零細出版社の大仰な宣伝工作に乗じて売り出そうとしているかに思われた。

 そのとき以来、草間の存在は忘れていたのだが、ある日、美術館で再びその名前に出くわすことになった。それがどこだったのか、移転前の国立国際美術館だったのか、今となってははっきりしない。ただ、銀色のサツマイモともペニスともつかないものが密集した異様な立体作品は、あの土偶のイラストのついた宣伝広告と相まって、ぼくの頭のなかで理解しがたい謎として膨れ上がっていった。

 何やら、病的なもの。健全な価値観では了解し得ない、不分明なもの。ぼくが草野の芸術作品から受けた最初のイメージは、そんな感じだったのである。実際、草間の精神状態には病的なところがあって、若いころから幻聴や幻覚に悩まされていたらしい。今もって、喋り方も普通とはいえない。彼女は、いわば病苦の“はけ口”を芸術に見出したのである。

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 ところが、最近よく見る彼女のポップでキャッチーなアートは何なのか。初期の作品に衝撃を受けたことのあるぼくは、いまだにその“健康的”な作品から受ける違和感を解消できないでいる。

 草間自身のドロドロした内面、外界との決定的な齟齬、そこから生み出される呻吟のようなものとして、彼女の芸術表現はあったはずだ。しかし、子供でも喜ぶような原色と明快な造形に裏打ちされた昨今の作品は、草間の知名度を上げる一方で、病める人間の混沌とした分かりにくさから遠く離れてきてしまったのではないか?

 裏を返せば、現代という時代の難解さが、視覚を楽しませる単純なアートの存在を求めるようになってきたのかもしれない。最近の写真でよく見る、赤いウィッグをかぶって水玉の衣装に身を包んだ草間彌生は、文化勲章にまで上り詰めた彼女の到達点というよりも、奇怪な仮装の姿というか、世を忍ぶ仮の姿に見えて仕方がないのである。

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