てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

鶴のひとふで ― 片岡鶴太郎の世界に遊ぶ ― (2)

2007年04月24日 | 美術随想


 『鯉図屏風』(上図、部分)は、鶴太郎が善峯寺に奉納した襖絵の縮小版のような作品だ。とはいっても、二曲一双の屏風にしては破格の大きさである。たくさんの鯉が折り重なりながら、泳ぐというよりは自由に舞っているようにも見える。

 ぼくは、おととしの初冬に善峯寺を訪れたときのことをぼんやり思い出した。そこには26メートルもの長さにわたって、ぐるりと部屋の中を回遊するように鯉の群れが描かれていたのだ。あたかも、寺院の中に大水槽が出現したかのようであった。泳いでいる鯉の数は、実に250匹を数えるという。

 これも正真正銘“鶴太郎流”の鯉であろう。限られた色を使って、ほとんど“にじみ”だけで描かれている。鯉を描いた絵は昔から数多いが、これほど画面いっぱいに、自由奔放に描かれているものは少ないかもしれない。

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 そう、鶴太郎の絵は一見、自由奔放なのだ。そこには決まったルールなどはなく、思うがままに筆を走らせているように見える。だがそれだけでは、世の中の多くの人が彼の絵に親しみ、共感する理由にはならないだろう。

 鶴太郎は次のように書いている。

 《絵を描く作業は自分と対峙しながら自分の中にいる腹の主と会話し、描くことの繰り返しです。そうやって自分だけの技術を得ることができるのでしょうね。みんなそれぞれ、例えばゴッホはゴッホの技術を自分で描きながら学んでいったわけで、それをまねしたところでぼくの絵はできない。自分の絵の技法は自分でけものみちを歩きながら、身体で覚えていくしかないんですよね。》(「続 鶴太郎流墨彩画塾 風景を描く」テキスト 日本放送出版協会)

 この言葉の中には、ある真実の一端が語られていると思う。彼はもともと絵が得意なわけでも何でもなかった。前の記事でも触れたことだが、仕事の上で大きな行き詰まりを経験し、その壁を切り開くようにして、絵の世界へと入り込んでいったのだ。まさしくそれは、険しい“けものみち”を歩くことにほかならなかったろう。

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 彼がそうやって絵を描きはじめて、10年以上が経つ。かつて売れっ子芸能人と呼ばれ、一世を風靡したひとりの男が、今では魚や小鳥たちや、花や果物といった生き物たちと日々向き合い、一心に絵を描いている姿は、何か心うたれるものがある。

 そうやって生み出された絵は、芸能人でもなんでもないわれわれ一般人の心にも、真っ直ぐに届く。彼の絵筆の動きは、ぼくたちの感受性のひだをくすぐるし、その色彩は澄み切った清新な光を投げかけてくれるのだ。鶴太郎の絵から元気をもらうのは、そんなときである。

 ぼくは『鯉図屏風』の前にたたずみながら、鯉の背に描かれた鮮烈な赤色が、鯉の体から少しずつ溶け出し、まるで池のおもてに降り注いだ大輪の花々のように浮遊するのを観ていた。


DATA:
 「片岡鶴太郎展」
 2007年3月30日~4月22日
 美術館「えき」KYOTO

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2 コメント

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鶴太郎美術館 (あべまつ)
2007-04-29 22:41:10
このGWに草津に行ってきます。
その地に片岡鶴太郎美術館があり、
とてもゆっくり鑑賞できます。
のびやかで、おおらかで、楽しげな作品に
温泉と共に、心の湯治場、です。
今回も時間が許せば、ぜひ訪ねたいところです。
こんばんは (テツ)
2007-04-29 23:40:58
ご無沙汰しております。

温泉ですか、いいですねえ。身も心もリフレッシュできそうで、うらやましいかぎりです。
こちらはたいした計画もないので、日替わりでいろんなところに出かけようかと思ってます(笑)。

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