片岡鶴太郎の絵を観るのは、かけがえのない楽しみのひとつだ。それは、いつもの展覧会とはひと味もふた味もちがう、心がほぐされるような時間である。
鶴太郎については、以前に「鶴太郎の鯉泳ぐ」という記事に書いたことがある。それは展覧会ではなく、彼が京都の善峯寺から依頼されて描いた襖絵を観にいったときのことであった。そのほかにも、デパートのミュージアムで開かれる鶴太郎展にぼくはしばしば出かけている。
今回もまた、京都で彼の展覧会が開かれていることは知っていた。だが、ぼくは最近転職したばかりで、生活のリズムが大きく変わり、大変疲れていた。正直にいうと、外に出るのも億劫なほどだったが、鶴太郎ならそんなぼくを癒やしてくれるだろうと思い、思い切って出かけてきたのだ。
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入口のドアが開くと、緩やかなBGMが流れていた。展覧会場に音楽を流されると気が散ってしまい、非常に困ることが多いのだが、今度ばかりは無抵抗に、すべてを受け入れるつもりで中へと入っていった。
ぼくはさまざまな展覧会をしょっちゅう観ているが、実をいうと、その場の空気になじむまでに少々時間がかかる。特に最初の一枚に対面したとき、なぜか素直に向き合えず、とまどってしまうことが多いのだ。これは一種の癖みたいなものかもしれない。力士が取組の前に何度も仕切りを繰り返して集中力を高めていくように、気持ちを切り替えるためのプロセスがぼくには必要なのである。
だが、最初の一枚『竹にすずめ』(上図)を観た瞬間に、ぼくはすっかり鶴太郎の世界に惹きこまれてしまっていた。その絵はまるで子供が描いたように天真爛漫で、素朴だ。特にすずめの愛らしい姿は、思わず笑みがこぼれるほどである。だが背景の竹の描写には、しっかりした技術の下地が感じられる。
鶴太郎の絵というと何となく“にじみ”を多用したものが思い浮かぶが、この竹の節をあらわす塗り残しの線のシャープさには、ちょっと驚いてしまうほどだ。彼は以前テレビ番組の中で、ティッシュを丸めた“こより”を使うなどの裏技を披露していたが、おそらくそんな隠れた技法を駆使しているのだろう。
だが、何にもましてぼくを感動させたのは、色のみずみずしさだ。特に竹の色彩は、微妙な濃淡で円筒の立体感を浮き立たせると同時に、内側から光を放つかのような不思議な透明感にみちているのである。これはまさに“鶴太郎流”の竹であると思った。
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