てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「日展」の“点と線”(4)

2007年04月05日 | 美術随想
〈日本画〉その2


 岩澤重夫の描く風景画には、以前から魅了されつづけてきた。この画家については「選ばれし日本画たち(5)」で言及したことがあって、そのときにも書いたことだが、彼の描く山の景色を眺めていると思わず吸い込まれそうになることがある。ときには、頭がくらくらすることさえある。

 それはおそらく、山の稜線が谷底へとえぐれ込んでいくところの、急激なカーブの仕方にあるのだろう。まるで魚眼レンズをとおして観ているような眺めなのだ。今回の『慈眼山(じげんざん)』という絵はさほど極端ではないが、それでも緑が雪崩を打って斜面を転がり落ちていくような印象を受ける(上図)。これは一種のデフォルメというか、この画家なりの誇張なのかもしれないが、なぜか不自然さを感じさせない。

 岩澤重夫の絵を観ていると、われわれが自然を知らなすぎるのではないか、という気すらしてくる。ぼくは子供のころ、学校の課題で風景の写生などをするとき、近くの建物を大きく描き、その向こうに山を小さく描いたものだ。ぼくみたいな田舎育ちでも、自然は遠景の一部にすぎなかったのである。だが彼にとって、自然は主役であり、絵のすべてであるように思える。

 『慈眼山』は、岩澤が幼いころから見慣れた風景であるそうだ。だが、実際の慈眼山がこのような急峻な山かどうかはわからない(画家は文章の中で“小高い山”と書いている)。彼が自然を誇張して描くのは、自然への思いの深さのあらわれではないか、という気がする。日本のあちこちを写生して歩くうちに、彼は自然に圧倒される経験を重ねたのかもしれない。だからこそ彼の風景画も、観る者を圧倒するのだろう。

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 2007年が明けて間もないころ、京都伊勢丹の美術館で「富士と桜展」という展覧会を観た。近現代のさまざまな日本画の中から、富士山と桜を描いたものを集めて展示するというものだった。

 富士も桜も、日本人には馴染みの深い画題だけに、下手をすると紋切り型の表現になりかねない。ありふれたモチーフであればあるほど、そこに画家の個性を忍び込ませなければならないわけだが、だからといって富士や桜に見えないほど斬新に描くこともかなわない。とりわけ富士山は北斎以来、無数の画家が取り組んできただけに、もはや描かれ尽くした感すらある。

 そんな中で、川崎春彦の描く富士は異彩を放っていた。そこでは富士はむしろ脇役で、激しく渦巻く大気現象が画面の大部分をおおっていたのだ。なるほど、これはおもしろいと思っていた矢先に、ふたたび「日展」で同じ画家の手になる富士を観た。『春の曙富士』という絵である(上図)。これも、なかなかおもしろい。

 曙とはいっても、これほど鮮やかなピンク色は、日本画ではなかなかお眼にかかれないだろう。日本一の富士山も、これでは影が薄くなってしまうというものだ。・・・と思いきや結果は逆で、富士の威容が際立って見えてくるのは、何とも意外性があって、小気味よい。激しく流れる雲と、泰然として落ち着いた富士のコントラストが際立っている。富士をこんなふうに描いた画家は、ほかにいないのではなかろうか?

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 内藤由郎は、京都の画家である。『影』という絵で、都会のさりげない一場面を描いた(上図)。誰もが眼にしているようで、なかなか気がつかない光景である。真っ直ぐ伸びた横断歩道に、信号機と木々の影が重なる。

 よく観ると、ひらひらと舞う蝶の影が描かれていたりする。いや、作者がいちばん描きたかったのはここかもしれない。舗装された道路だけを描きながら、観る者に季節を感じさせる手腕は見事だ。「季節が都会ではわからないだろと・・・」という歌もあったが、都会で季節を探り得るヒントが、この絵の中に隠されているかもしれない。

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