天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

校長は何故自殺したか?

2015-08-01 12:37:34 | 時事
平成11年広島県立世羅高校の学校長が自ら命を絶ちました。
当時のニュース記事、元教え子の手記、憲法学者のを抜粋しましたが少し長いですがもう一度読みながら皆さんも考えて下さい。

------------------------------------------------------
【状況】
当時、遺書はなかったが、車の中から手書きのメモが発見された。

「何が正しいのか判らない。管理能力がないことかもしれないが、自分の選ぶ道が何処にもない」

この悲劇をもたらしたのは、広島県の教育界を支配する異常な抑圧された空気だった。
石川校長の自殺後、広島県教育委員会は、調査報告書を作成した。

石川校長は、前任校時代から日本教職員組合(日教組)傘下の広島県教職員組合(広教祖)や他団体から圧力を受けていた。

石川校長は前任校で、ある教師を教頭に推薦した際、同校の組合分会の了解を得なかった。世羅高校に着任早々、この件を追求され、反省文を書くように要求された。
広島でいかに教職員組合が公教育を支配しているかが分かる。

石川校長は、「まず前任校の教職員に対して謝罪する」「平成9年度人事における人事推薦の反省のもとに、今後このようなことがないよう本校における人事推薦は、協定書に反しないように進めていく」などと、つるし上げのような状況で謝罪文を書かされた。

そして、さらに大きな問題が待ち受けることになる。平成10年12月17日、県教育委員会は文部省の指導に従い、「入学式、卒業式の国旗掲揚・国家斉唱を実施させるように」と、県内各校長に通達した。これに対し、広教祖は解放同盟広島連合会とともに通達撤回を求める闘争を始めた。

11年2月になると、解放同盟広島は、各地区で校長を招集し、広教祖と約100人にもおよぶ「大衆団交」を行った。
2月25日から2月27日にかけて数時間の職員会議が連日行われたが、教職員らは断固反対のままだった。板ばさみになった石川校長はついに自殺に追い込まれた。

そして7年後の18年、石川校長の自殺が公務災害と認定された。高校の職員らは誰一人として焼香に来なかった異常な日々を経て遺族の無念が晴らされた瞬間だった。


【広島世羅高校の校長自殺に労災認定】
(平成18年8月 朝日)
卒業式での「君が代」斉唱や「日の丸」掲揚をめぐり11年2月に自殺した広島県立世羅高校長(当時58)の遺族が、民間の「労災」にあたる公務災害の認定を求めていた問題で、地方公務員災害補償基金広島県支部は17日、自殺を公務災害と認定した。

同支部は認定理由を明らかにしていないが、県教委は、卒業式の実施にあたって心労を重ねたことが背景にあると判断されたとみている。

卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱の実施を悩んだ校長が2月に自殺した広島県立世羅高校で、当時同校に勤務し、高校教職員組合の分会長だった教諭(44)に、

「校長を殺したのはお前だ」などと脅迫する電話がかかったりしていたという。4月に別の高校に異動した後も続き、教諭は容疑者不詳のまま広島地検福山支部に脅迫容疑で告訴するという。

学校への脅迫電話は、校長自殺の直後から2週間だけで百数十本、教諭を名指ししたものもあったという。

また「校長が天国で待っている」などと書いた手紙が届いたほか、同様の電話や手紙は自宅にもあった。

転任した高校へも7~9月、同一人物と思われる男性から「先頭に立って追い詰めた」などという電話があったという。
 
教諭は「精神的に疲れ、家族も不安な生活を余儀なくされている。県教委が、君が代斉唱に反対した高教組に自殺の責任があると一方的に表明したことが、脅迫につながった」としている



【産経「黒田勝弘記者」】
平成11年3月6日の記事

ソウル5日卒業式の「日の丸・君が代」問題を苦に校長が自殺した広島県立世羅高校が毎年、生徒を修学旅行で韓国に送り、
ソウル市内にある独立運動記念公園で謝罪文を朗読するなど“謝罪行事”をしていたことが明らかになった。

五日付の韓国日報が社会面トップ記事で伝えたもので、記事には、生徒たちが市民の前でひざを折り、頭を垂れている写真が添えられ、案内を担当した年配の韓国人通訳の「生徒たちのまじめな表情に感動した」という感想も紹介されている。

韓国日報は県立世羅高校の生徒たちが三・一独立運動記念塔前で謝罪した、と報じた=平成10年10月16日、ソウルのタップコル公園(韓国日報提供)

韓国日報は「“キミガヨ”で悩みの校長の教え子たち」「5年前からタップコル公園で“謝罪の参拝”」という見出しで、昨年十月十六日の様子を詳しく報じている。

それによると、「世羅高校の男女生徒約二百人は昨年十月十六日午後四時、タップコル公園の三・一(独立)運動記念塔前でひざを折って座り、日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した。

一部生徒はハングル(韓国の固有文字)を学び、謝罪とともに両国の和解を訴えるプラカードを日本で作って持ってきた」という。

さらに「公園での謝罪儀礼は犠牲者に対する黙とうと班長のあいさつ、謝罪文朗読、日本から持ってきた平和を望む折りづる献呈、公園内の史跡訪問などとなっていた」としている。

タップコル公園はソウルの中心街にあり、これまではパゴダ公園といわれた。日本統治時代初期の一九一九(大正八)年三月一日、大規模な抗日独立運動のスタートになったところで、記念塔などの施設があり、市民の憩いの場になっている。

「謝罪修学旅行を送り出してきた石川(敏浩)校長は、教育委員会の指示を拒否することも、自身の良心に反する行動も難しいという葛藤(かっとう)を味わったことだろう」と記者は述べている。




《信憑性15%》
【広島県の世羅高校の石川校長は私の担任】
だった

君が代、日の丸問題で自殺した石川先生の思い出

 今年、日の丸・君が代問題で自殺した世羅高校の石川校長は私のクラスの担任だった。石川先生は広島大学を卒業して、世羅高校に新任教師として赴任してきた。そして1年C組に入学したのが私たちで石川先生はクラスの担任になった。我々は若い石川先生を、石川さん、石川さんと呼んでいた。
 入学して間もなく、授業中に廊下を勝手に歩き回る私、そこに石川先生が他の先生の通報を受けて飛んできた。「神浦君、なぜ授業に出ないのですか」。「高校は義務教育ではありません。単位はキチンと取りますから、学校の生活は私の自由にさせてください」そんな会話をした思い出がある。

 石川先生は数学の担当だった。私は自慢するわけではないが数学が得意で、将来は数学者になりたいと思っていた事もある。しかし1年の1学期の試験で、石川先生の数学のテストで零点を取った。もう勉強をするのが馬鹿馬鹿しいと思い、数学のテストに名前だけ書いて提出し、勝手に教室を出ていってしまったのだ。当然ながら点数はゼロ。石川先生はあせってしまったに違いない。石川先生に呼ばれて、なにを話したか忘れてしまったが、長い時間石川先生と話し合った記憶だけがある。私はその次の数学の試験で百点を取った。あの時に石川先生と、何を話したか忘れてしまったことが残念でしかたない。

 世羅高校1年生の晩秋、私は自分の親や石川先生に内緒で、自衛隊少年工科学校の入学試験を受けた。1次試験に合格、2次試験にも合格し、面接や身体検査の3次試験の時に、とうとう親や石川先生にばれてしまった。合格通知を広島地連(募集担当)の隊員が田舎の自宅に直接届けたからだ。
 私の親との間で、いろいろな話し合いがあった。「世羅高校を辞めないで、高校だけは卒業だけはしてくれ。それから防大にいってもいいし、大学から自衛隊に入ってもいいじゃないか」。そんなことを言われて、少年工科学校に行かないように説得された。しかし私の気持ちは変わらない。その頃に、石川先生と話し合ったことも鮮明に覚えている。

 「どうして君は学校を辞めて自衛隊に行くのだ」「家が貧しくて、このまま私が高校に通えば、弟は経済的な理由で高校に行けません。私が自衛隊に入って、仕送りをして弟を高校に行かせます。少年工科学校に行けば、給料がもらえるし、高校の卒業資格ももらえます」。石川先生は、しばらく黙って考えていたが、「わかった。それなら私は何も言わない」、その時の石川先生の寂しそうな顔をはっきりと覚えている。

 あとで聞いた話だが、私が中退して、自衛隊の少年工科学校に行ったものだから、石川先生は同僚の先生から「なぜ自衛隊に行かせた」と、吊るし上げを食ったという。教え子を再び戦場に送るなというのが、広島県日教組の重要な活動方針だったからだ。しかし石川先生は同僚の吊るし上げに我慢をして、私の立場を説明し擁護してくれたという。私は少年工科学校時代に石川先生と交わした手紙(要旨)を、自衛隊を辞めて数年後の、二十数年前の「軍事民論(当時の社会党系軍事専門誌)」に頼まれて掲載している。

 石川先生は私にとって最高の教育者であった。世羅高校を中退し、少年工科学校に入学してから、私は一度も石川先生と会ったことはない。しかし世羅高校の同級生を通じて、石川先生の消息は詳しく聞いていた。石川先生も私のことをいつまでも気にしていたという。
 石川先生が君が代・国旗問題で自殺したとテレビニュースで見たとき、すでに34年の昔になってしまった過去が、鮮明に思い出されてきた。その時に考えたのは、私の人生はこれで良かったのだろうか。石川先生に私の人生をどう説明をすればいいのだろうかということだった。      
 その後、国会で国歌と国旗の法案が成立した。だが、その法案は石川先生の意志とはまったく別のものであるような気がしてならない。私は日の丸が掲揚されたり、後納される時は、直立不動の姿勢で日の丸に正対する。しかしはためく「日の丸」の向うに、今は亡き石川先生の真面目な顔が浮かぶことも事実である。合掌。



《信頼度50%》
【国旗、国歌法の立法過程の検討】
ー憲法学の立場からー

小野善康


石川校長自殺事件を契機に政府が法制化に踏み切ったことの意味に一言ふれてお
きたい。
この事件に対する一つの反応として国旗・国歌の指導の強制をやめる(あるいは緩 める)という対応が考えられた筈である。

しかし政府はこの方法をとらなかった。政府・自民党はこれまで文部省と教育委員会が進めてきた国旗・国歌指導の強制の路線を断固支持す るという道を選びこの路線を一層強化する方法として「法制化」という手段をとった。

それは政府・自民党が学校における国旗・国歌の指導を極めて重要な問題と考えていることを 示している。
さらにそれは政府・自民党が国旗・国歌を認めないという「思想」を許容し ないという思想をもっていることを示している。

石川校長自殺事件をめぐる政府・自民党の対応は「日の丸・君が代」問題がどのような問題 であるかを明るみに出した。
日の丸・君が代のシンボルによって代表される「天皇制と結びつ いた国家重視の思想」(国家主義イデオロギー)はそれを認めない者を断固として「排除する」 思想をその中に持っているということである。石川校長自殺事件が法制化の契機になったのは重要である。



〈野党意見〉
志位和夫議員は「日の丸・君が代は,今の日本の国旗・国歌にはふ
さわしくない」としたうえで「国旗・国歌は,国が公的な場で公式に用いるというところに限
られるべきであって国民一人一人にも教育の場にも強制すべきものではない」とした。

社会民主党の中西績介議員は「日の丸・君が代をどう認識するかについては基本的には国 民一人一人がみずからの思想信条に基づいて判断するものである」と言った。

また,「現在,学習指導要領によって強制されている日の丸掲揚、君が代斉唱は明らかに憲法が保障する内心の自由や思想、良心などの精神的自由に抵触するものである」と言った。

民主党の伊藤英成議員は本案件は「もし提案するならば国会冒頭に提案すべき重要な案件である」として政府が会期末に本法案を提出したことを批判した。
しかし日の丸・君 が代が国旗・国歌であることは「広く国民の間に定着している」と言って
この点について政府の見解に同調した。
「定着」について民主党内に異論があったことは既述のとおりである。

公明党の冬柴年三議員は,国旗・国歌への国民の「支持、深い定着」を認めると言った。
そのうえで戦後の日本国憲法は「天皇の神聖性の否定を明白にしている」という認識を強調
し「現行憲法のもとにおける君が代の歌詞の解釈」は「天皇を日本の象徴とするこの新生日 本国がいつまでも栄えますようにとの祈りを込めたものと解せられるべきである」とした。

冬柴議員のいう「君が代の歌詞の解釈」は政府の統一見解と同じものであり
冬柴議員の発言は政府法案に賛成するという公明党の態度を示したものである。


〈まとめ〉

法制化という手段をとった本法が石川校長の自殺事件を契機として制定されたことは,重要な意味をもっている。
石川校長自殺事件は,教育委員会と教員(あるいは教員組合)の対立から生じたものであるが
この対立の底にあるものは,枝葉を取り払って考えれば「天皇制と結びついた国家重視の思想」 (国家主義イデオロギー)と「個人尊重の理念を中核にすえる戦後民主主義の思想」の対立である。
それゆえ本法の成立は戦後民主主義の思想の大きな敗北を意味している。

戦後民主主義の思想はなぜ国民の強い支持を受けることができなかったのか,その理由を明ら かにすることは今後の重要な課題である。

------------------------------------------------------

いかがでしたでしょうか?
県立高校のトップが自殺というセンセーショナルなニュースはその真相も明らかにされぬまま
話題性だけで法案化に利用されてしまった感を否めませんので私はこれを別けて別々に解答しようと思います。

まず校長の自殺は産経の記事でも触れていますが、卒業式の教育委員会からの国旗国歌の指導と日教組の分会長の教諭を代表とする反対派の板挟で心労から亡くなっています。

ここからは状況証拠で推理も交えて書きますのでそのつもりでお読みください。

まず元教え子の手記ですがあまりに記憶が無く思い出話すら自分の事でたわいもない話で終始し、最後に法案化に反対だったと意図的に書かれており、とても本物とは思えません。

校長とは名ばかりで管理されたパーツの一つ、
つまり雇われ校長であったのです。教員になって自分なりの教育理念を持ってやっとそれが発揮出来る地位までになっての現実です。

世羅高校と言えばこの校長の時期に韓国への修学旅行が合わせて話題になりましたが、土下座などと謝罪旅行のイメージがセンセーショナルに話題となりましたが、学校側は平和と友好の旅行を強調してその真意もはっきりしません。

マスコミはお茶を濁して特殊な地域とだけに落ち着きますが、ある団体の存在は囁かれています。

解放同盟です。

設立者








公式方針としては反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の解放同盟の「子ども会」では

日本共産党

橋本浙子(日本共産党員。矢田事件への見解が原因で勤務先の大阪市役所から研修名目による職場いじめを受け、法廷闘争をおこなった)

昭和天皇

機動隊
などを「6つの敵」と称し、この6つをかたどったロボットをつくり、これらを倒す競争をさせていた。

※韓国への修学旅行
※解放同盟
※日教組

これでおわかりいただけたと思いますが広島県の高校は解放同盟と日教組が結びついて国と対立する構図が存在するのです。

国旗国歌法案もこの校長死を利用し反対または強制を認めないというロジックを作り上げていったのです。憲法学者小野氏のまとめもこちらに加担したものであると感じます。

ですから彼のまとめを利用してこの問題をまとめたいと思います。

対立の底にあるものは,枝葉を取り払って考えれば
「しっかりした国家観を根底にもつ個人尊重」 と「個人尊重の理念が中核にあると見せ掛けた戦後民主主義の思想」の対立である。

それゆえ本法の成立は戦後民主主義の思想の大きな敗北を意味している。

戦後民主主義の思想はなぜ国民の強い支持を受けることができなかったのか?

戦後民主主義とは名ばかりで敗戦を利得とするもの達の国家破壊、反国家主義を民主主義というベールをかけた虚構の勢力の化けの皮が剥がれたのです。

あたかも空襲の焼け野原の一等地を日本人になり変わって占拠していったものたちの様に。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ボギー)
2020-04-28 21:34:20
只の旗や歌つまり日の丸君が代に、膝磨付かせる強制は、ファッショ強権独裁
何時かはこの窮屈な世直しのときは、来るだろう。日本はこうしんこく、精神が未熟
Unknown (クジラ)
2020-04-28 21:49:18
世論を抑え、政府権力が一方的に賛否あるにも関わらず、法制化は頂点
支配層の歴史的手口 そうして1つ1つ一般国民をがんじがらめの強制力で
有無を言わせなくして行く、結果は国民に犠牲が来る

コメントを投稿