天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

満州事変と日中戦争は侵略戦争か?

2018-01-04 12:21:18 | 時事


朝生で田原総一郎氏が満州事変と日中戦争は侵略戦争と明言した。



まず始めに答えを一言で言えば、
『わからない』が正解だろう。



その呼称、侵略戦争の定義、或いはどちらの国の視点から見るかによって対立し結論が出ていないからである。平成27年8月14日の公式な政府見解
所謂安倍談話に於いても、明言を避け過去の歴史的判断は歴史家に任せ判断していない。

つまり、政府見解としては判断せずに未来志向として侵略戦争を起こさないとしている。自民党は戦後明言を避け[この表現も問題があるが、(棚上げしたまま)]、日中友好を優先してきた。

問題はいくら個人的見解であってもジャーナリストが地上波で明言したことは放置出来ない問題発言であり、それがなかば常識化し、無関心に放置されること自体に危機感を感じる。

確かに国際法上武力で侵略してくる国など中国を含め皆無だろう。しかし、その極論に対して「殺すくらいなら殺されたい、尖閣はあげればいい」という虚無的正義感まで語られた後に日本軍の過去の冤罪を堂々と語るジャーナリストと局には茫然自失になる。

冤罪と表現したが、戦争の勝ち負けや戦後70年以上が経過して一体いつまで「わからない」ことを棚上げすれば良いのか、戦争体験者が激減している今改めて考えたい。



【中国の歴史年表を元号で記載した。】


・明治45、大正元年1月1日 - 中華民国成立し孫文が臨時大総 統に就任。臨時首都は南京。
・明治45、大正元年 - 宣統帝が退位し袁世凱が第二代臨時大 総統に就任。北京政府成立し、清朝滅亡。
・大正3年 - 第一次世界大戦勃発。
・大正4年1月18日 - 日本、袁世凱政権に21ヶ条の要求。
・9月15日 - 陳独秀、『新青年』を刊行。
・大正5年6月6日 - 袁世凱死去、黎元洪が総統に。
・大正6年 - 府院の争い
・大正8年5月4日 - 五四運動
・10月10日 - 孫文、中国国民党を結成。
・大正10年 - 外モンゴルが独立、モンゴル人民共和国へ。
・7月23日 - 陳独秀、毛沢東らにより中国共産党結成。
・大正13年 - 第一次国共合作
・大正14年3月12日 - 孫文、死去。
・大正15、昭和元年 - 蒋介石率いる国民政府、北伐を開始。
・昭和2年 - 日本、山東出兵開始。
・3月24日 - 南京事件
・4月12日 - 上海クーデターにより国共合作解消。
・4月18日 - 南京国民政府成立。
・昭和3年5月3日 - 済南事件
・6月4日 - 張作霖爆殺事件
・6月9日 - 国民政府軍、北京に入城し北伐完了を宣言。
・12月29日 - 張学良が南京国民政府に帰順。(易幟)
・昭和6年9月18日 - 満州事変勃発。
・11月7日 - 中国共産党、瑞金に中華ソビエト共和国の成立を宣言。
・昭和7年1月28日 - 第一次上海事変。
・2月18日 - 満州国成立。
・昭和8年 - 福建事変で中華共和国が成立。
・昭和9年 - 中国共産党、瑞金を放棄。長征開始。
・昭和10年1月15日 - 遵義会議
・昭和11年10月19日 - 魯迅死去。
・12月12日 - 西安事件
・昭和12年7月7日 - 盧溝橋事件発生、日中戦争へ。
・7月29日 - 通州事件
・8月13日 - 第二次上海事変
・9月 - 第二次国共合作
・11月 - 国民政府、重慶に遷都。
・12月13日 - 日本軍、南京を攻略。南京事件。
・昭和15年 - 汪兆銘政権成立。
・昭和16年 - 日本軍、真珠湾を攻撃。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。
・昭和18年12月1日 - 中、米、英3か国首脳によるカイロ宣言。
・昭和19年4月17日 - 日本軍、大陸打通作戦開始。
・昭和20年8月14日 - 日本がポツダム宣言を受諾,全日本軍の無条件降伏。
・10月10日 - 国民党と共産党が双十協定を締結。
・昭和21年6月 - 国共内戦が再勃発。
・昭和22年2月28日 - 台湾で二・二八事件が発生。
・昭和24年 - 人民解放軍が成都を包囲、蔣介石は台湾へ逃れる。


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昭和6年の「満州事変」と昭和12年の「日華事変」「支那事変」「日中戦争」における中国大陸での日本軍の一連の行動は侵略戦争だったのか?


大正11年ワシントン国際会議【9ヶ国条約】(米、英、日本、仏、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国の9ヶ国が調印した国際条約)《中国の主権尊重と領土保全、経済上の機会均等を定めるもの》
参加して署名・批准した9ヶ国条約に抵触する疑いがあるが、

9ヶ国条約は「中国の領域」についての定義が曖昧で、満州と中国領との線引きについてはグレーゾーンだから、この曖昧な定義を拡大解釈して、「満州は中国大陸には含まれない統治者不在の土地だった」と見なせば、満州事変については
日本の条約違反でないとも言える。

昭和3年に締結【パリ不戦条約】(別名ケロッグ・ブリアン協定。国際紛争解決の手段としての
戦争放棄を宣言した条約。ただし自衛戦争は除く)


満州事変と支那事変を判断する前段階として、日本と朝鮮半島との関わりと動向を知る必要がある。

清国はたびたび朝鮮半島に軍を差し向け農民や庶民などから食料や貴金属などを強奪していた。
朝鮮朝廷は儒教に専念し内政に無関心で碌な兵力すら持ちえてなかった。

長い間鎖国を行っていたため世界先進国からも遅れを取り朝鮮半島自体は王宮以外は極貧の生活であった。


先進国の軍艦など最新鋭艦の砲弾にも脅かされる中で東学党の乱が2度勃発するが、朝鮮農民と東学党いわゆる壬午軍乱・甲申政変 で、清国から宮廷や朝鮮にいた日本関係者も襲撃されている。東学党第3教祖は日本に逃亡して朝鮮独立を嘆願する。

日清戦争 は李氏朝鮮の清国からの独立戦争を代理として行った側面が強く、大韓帝国として独立、日露戦争 は突如満州をロシアが制圧しその進軍は朝鮮半島に及んだための朝鮮半島保護の為の戦いであった。

樺太と満州鉄道の権益を手にしたが、国内は疲弊していた。



【満州事変】

日本は日清戦争・義和団事件・日露戦争・第一次世界大戦で次々と中国における権利を獲得した。一方中国はナショナリズムの高揚と、地方政府主導による反日プロパガンダで対抗した。特に反日教科書によるプロパガンダは効果を発揮した。

当時の中国は戦国時代で、中央政府は無きに等しかった。地方政府は日本が外交交渉で獲得した権利を無視し、権利の行使を認めなかった。更に国際共産党による画策が重なった。これでは日本が怒るのは当然であり、まさにテロとの戦いだった。

満州事変は関東軍の参謀・石原莞爾の謀略による柳条溝の満鉄線路爆破から始まった。しかしこの自作自演だけで関東軍の暴走と判断するには拙速だろう。

そこに至るまでの中村大尉殺害事件、万宝山事件と呼ばれる朝鮮人農民と支那人農民の衝突事件、日本人に対する無数のテロ事件があったことや、満州は日本にとっての生命線であったことを無視してはならない。

昭和7年3月「満州国」の設立後、日本軍はその領域とされた熱河省地方を制圧する準備を進め、8年1月山海関を占領し、2月から熱河作戦を開始、承徳、古北口、喜峰口を占領した。

日本軍の熱河作戦が国際連盟をさらに刺激することを憂慮する政府部内の反発を招いたが、連盟脱退をも辞さない軍部は作戦を強行し、4月には長城線を越えて河北省に拡大した。これに対して対日妥協政策をとる中国政府は日本との停戦を求め、5月31日塘沽協定を結び、日本側の条件を受け入れ、日本の「満州国」を黙認した。


大正9年に創設された国際連盟の常任理事国だったが、昭和8年2月24日の国際連盟総会では、中国の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1日本、棄権1タイ、これを受け満州事変を契機に国際連盟を脱退する。



【日中戦争】

日中戦争の呼称は宣戦布告していないので支那事変、日華事変であって実際は関東軍のテロ対処に等しかった。それに先立つ無数のテロ事件と、上海事変、盧溝橋事件これに続く通州事件、大山中尉殺害事件があったからである。特に通州事件では日本人一八〇人が極めて残虐な殺され方をした。日本が憤激するのは当然。

日華事変のきっかけとなった第2次上海事変については、蒋介石率いる中国国民党が、当時ドイツから中国に派遣されていた軍事顧問団の提案を受け入れ、上海にある日本人居留地を攻撃して日本の大軍を中国大陸におびき出し、これを上海郊外に築いた堅固なトーチカ陣地で迎え撃つという作戦計画(ファルケンハウゼンプラン)を立案し、これを実行に移したことで引き起こされたという面が大きかった。自存自衛は決定的である。

関東軍と蒋介石との小競り合いに中国共産党がソ連支持の元横槍を入れ双方に一発づつの蘆溝橋における発砲が引き金となった。

中国側の視点は、中国国民党がそうした作戦計画を立てた前提としては、日本陸軍が中国大陸で行なった「熱河作戦」や「北支分離工作」など、日本軍による中国への一連の内政干渉と長城(万里の長城)線以南への軍事的な進出工作からで、中国大陸における日中間の軍事衝突のは、9ヶ国条約に違反する行動をとり続けた日本の対中政策にあったという評価になり、その後の漢口・武漢攻略、徐州作戦、重慶爆撃などの日本軍の一連行動は、自衛の範囲を明らかに逸脱した侵略行為とみなしている。

要するに相手の応戦が侵略行為に映るような数々の綿密なテロ行為と統一政権の無い中国と宣戦布告の無い事変、21倍の敵を相手に同盟関係であったドイツを始め、後半では国際法違反の蒋介石の率いる軍隊の米英仏の後方支援、と中国大陸で一国で世界を相手に戦っていたこととなり、日本陸軍の強さは自衛戦争を主張してもそれを認める味方がいないまでに孤立していたことがわかる。

この後太平洋と満州を奪う目的でアメリカが太平洋戦争として日米開戦し日本は敗北を喫する。

疲弊した国民党軍は台湾に逃れ昭和24年に中華人民共和国、中国が建国される。

少なくとも満州事変、日中戦争が侵略戦争であるとこの期間に日本本土で主張するものは誰一人として存在しなかっただろう。つまり、日本軍は中国で内戦から人民を救っていたとの考察も可能なのである。



倒されていた孫文の銅像に青天白日旗をかける日本兵。中国の伝統文化への尊敬心からの行為。


中国人の子供や大人と共に正月の万歳をする日本兵たち(昭和13年)


結局のところ何故、現在歴史の一部分だけを捉えて侵略戦争と主張するものが日本人に多いのかは『わからない』で終わりたい。










沖縄は中国から取ったのか?

2018-01-04 08:48:04 | 時事


朝生でお笑い芸人の村本氏が『尖閣諸島はあげればいい、沖縄だって中国から取った』との発言が物議を呼んでいる。

本人はツイートで
『沖縄は中国だった、ってのは僕のこれを読んでの咄嗟の拡大解釈でした、反省』と反省という形で触れているが、取消す、取り消さないまでは言及していない。

地上波で個人的見解にせよ炎上し日本人の歴史認識にクエスチョンマークを付けた効果は国連女性差別撤廃委員長の林陽子が「男系継承は女性差別」と勧告しようとした時と同じくらいに危機感を感じる。

つまり、歴史戦に於いて日本の弱点ともなり得る部分にメスを入れる発言を日本人自らが行う危うさなのだ。

冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のことだ。

宗主国とは、実際の権力は対等もしくは逆転しているが格式や権威において上下関係を有するか、格式や名目上の権威においては対等だが権限範囲において上下関係を有する諸国において、その最上位にあって他の関係諸国を下位とする国のことである。

つまり、冊封国、朝貢国が必ずしも従属国ではない事を示しているうえに宗主国自体、現代では極めて曖昧に、植民地に対してその植民地を所有する国、事実上の従属国に対して一定の強制力を有する覇権国家、衛星国家に対してそれらを指導する地位にある国家などを漠然と包括して用いられてしまっている。

歴史を断片的に取り上げ中国王朝時代に従属国であったとする事を「中国から取った」とする解釈は当時の力関係と現代の解釈との二重の齟齬が生まれる超拡大解釈と言っても良い。

更に中国王朝迄も無作為に『中国』と呼ぶ曖昧さが加わり日本人自らが発してしまう危うさは日中の歴史戦が劣勢である事を物語ってしまっている。

これは全て近隣諸国条項の弊害が、中国にとっては罠が時を経て現在成果として現れているのだろう。

沖縄の基地問題は明らかにこの様な中国主導の歴史戦が同時進行でおこなわれ、日本ではなく、日本人に対して身近で直接的に攻撃を仕掛けてくる。

その脅威はホリエモン、村本の『尖閣なんかあげてしまえばいい』であり、中国王朝には見られなかった中国の恐ろしい一面であり、武力を使わない侵略に他ならない。

従って南京、慰安婦、731、等の日本軍の加害性のプロパガンダはその根底に日本人の残虐性を示唆する琉球王国まで遡り贖罪意識を植え付け領土に対する意識、果は国防意識までをも鈍化させる歴史戦の戦法であろう。

『沖縄は中国から取ったのか?』

『満州事変、支那事変は侵略戦争か否か?』

少なくとも日本人としてこの問いに直ぐに答えられないようでは歴史戦は敗北するだろう。