山に越して

日々の生活の記録

疑似短編集冬の霧 二の②(疑似凝縮社会)

2019-11-06 09:32:12 | 短編集

冬の霧二の②(擬似凝縮社会) 

 

 全国で盲養護老人ホーム、及び盲特別養護老人ホームの数は七十七を数える。両施設合わせた収容人員は五千六百名に達しているが盲養護老人ホームは入所定数五十名の施設が多く、施設の数では盲特別養護老人ホームの倍以上ある。盲老人福祉施設の入所者のうち全盲が五五㌫、光覚弁、手動弁併せて二〇㌫、弱視が二三㌫残りの二、三㌫が普通に見える人が入所している。要するに夫婦で入所する場合、どちらかに視覚障害がある場合入所出来たので、普通に見える人も視覚障害者施設の入所者になっている。

 病気やいざこざもなく単調な生活が続いていた。フミは一日の流れや入所している人たちの名前も覚えたが、元来、人と接することが苦手だったフミは食堂やトイレに行く以外は居室にいた。

「あんた生まれは何処かいな?」

 同室の飯田とも乃が話し掛けてきた。とも乃は幼い頃に失明して七十歳になるまで光と言うものを知らなかった。炬燵や日向と同じような身体が暖まってくる感覚を光だと思っていた。

「埼玉県の川越で生まれました。主人と結婚して彼方此方と転々としましたが最後は蒲田の羽田空港の近くに住んでいました」

「飛行機が五月蠅くなかったですか?」

「耳が遠くなるかと心配していましたが、目が悪くなってしまいました」

「ハハハ」

 と、とも乃は大声を出して笑った。なかなか話し掛けて来ないフミを不審に思っていたが安心出来る人だと思った。

「面白い人だね、子供さんは?」

「娘が二人いますが嫁に行きました」

「この間来た人が長女さんですか?」

「ええ、上が圭子で下の子が静子と言います」

「良いね、二人も子供がいて。私は結婚出来なかったから子供どころか身寄りもいない。遠い親戚はいますが今では便りもない」

「何時も独りで居なさるのですか?」

「ここに入るまでマッサージ師をしていました。六十歳で来て、もう十年になります」

「十年ですか、長いですね」

「老人ホームが出来て二十五年になると聞いています。隣の林キミさんが一番長くて二十四年でしょう。自分のことが出来れば何時までも居られますが年と共に体力は衰えてくる。それに、何時身体の具合が悪くなるか分からない。そうなると別の施設に送られる。入院したまま帰って来なくなった人が大勢います。元気に過ごさなくてはなりません」

「そう言うことですか、福祉事務所の先生が三ヶ月間入院すると退所になると言っていました。所で飯田さん入院したことは?」

「いいや、一回有ります。胃の手術をしました。でも一ヶ月もしない内に戻りました」

「良かったですね」

 場馴れした人たちの間で生活することはなかなか大変である。自分の意志や行動を抑制している人も少なくない。集団生活を円滑にする為に自分を押し殺すことで静かな生活を望んでいる。

 フミにとって、自分が生まれ育ってきた環境は決して豊かではなかった。それに比べると施設の生活は安逸だった。自立した老人は施設の生活に迎合するのではなく自らの生活の自立を図ろうとする。しかし迎合する人間は狭隘な施設で如何に有利に生活するか、職員を味方に付け生活の利便さを得ようとする。これから先、安逸に暮らす為には当然と言えば当然のことである。地域社会のもっとも狭隘な場所、一人当たり三畳足らずの居住空間、娯楽室、寮母室、事務室、医務室、トイレ、その場所で生涯の生活が続くのである。家も財産も処分して他に行く当てなど有りはしない。処遇をより良くして行くには、入所者の必要に応じて職員が情報の提供を行う。しかし集団での外出、行事等のみに追われ、取り残された人たちは何時でも部屋の中で過ごしている。その分職員が話し相手なり面倒をみれば良いのだが、日頃の忙しさに追われなかなか相手が出来ない。都合よく振る舞う人がいる陰でジーッと耐えている人たちがいることを忘れてはならない。日常の豊かさを施設内外行事の多さと錯覚してはならない。

 狭隘な福祉施設、人事は同族会社と同じように自分の協力者、乃至言うところの服従者、または能なしが占めている。企業であれば利益を追求していく限り優秀な人材が求められる。公的資金で運営される施設は年度末に赤字を出さない限り、職員の人件費を抑えるか、修繕費や雑費を抑えることで成り立つ。引当金の多さを見れば実際問題施設の経営は黒字で終始する。人件費引当金、修繕費引当金、備品等購入引当金などに繰り入れられる。法人で組織している老人ホームは、理事長、理事会は架空に近いもので手続き上の組織と言っても良い。人事は当然のように施設長や取り巻き連の勝手になり、地縁、血縁、服従関係など内部的な繋がりのみで決定される。また、民間の福祉法人の不正については枚挙に暇がない。工事の不正支出、個人的流用、関係同族会社への支出など新聞沙汰になる。半日程度の監査で見抜くことはなかなか出来ないことで、見積もり等も複数取ることになっているが例に漏れず業者が揃える。

 北秋川会も福祉法人の名を借り関係の施設への移動が行われた。交流という名の下に実際は愛憎問題がある。寮母の笠原久子は今年も移動することなく養護老人ホームの職員として残ると思っていたが、施設長と肉体関係にある前田美樹は必要に移動を迫った。

「何時も虐められ耐えられない。お願いだから追い出して」

 と、ベッドの中で言った。

「そうは言っても直ぐには出来ないだろう」

「それじゃ厭」

 甘えた声を出しながら吉原喜一朗の局所を握った。

「俺も雇われ施設長だがその権限はあるか、お前の気の済むようにしてやるよ」

「大好き、ねえもう一回して。家の旦那馬鹿だから何にも気付いていない」

 と、言いながら絡み付いた。

 内部で移動の打ち合わせが終わった翌日だった。日頃から軽薄なところがある前田美樹の態度は脳天から奇声を発していた。

「今回異動あるわよ」

「そんなこと分からないわ」

 と、掛川由加が言った。

「だって、本当の事よ」

「何故そんなこと知っているの?」

「聞いたの」

「誰から」

「あの人よ」

 と、言って事務所の方に顎をしゃくった。

「そう言う関係か」

「知っていたでしょ?」

「何となく」

「自分の地位を確保する為には何だってやるわ」

「そう言うものかな?」

「この年では仕方がないことよ」

 こんな話が日中交わされている。人事は愛憎関係、欲得、服従、従属関係で決められている。これが税金で賄われている施設の実体と言って良く、公金を使いながら全てのことを私物化している。私物化している限り福祉制度を利用した商売をしているのに過ぎない。理事会があったとしても、直接施設運営に関わりのない雇われ理事では内部的な事情まで分からない。腐りきって悪臭を発散するようになっても実際上分からない。例えば年間四千万円の食事をしている。年間を通して十五年も同じ業者が、其れも個人の業者が食材を納入している。納入業者の入札なり他業者の見積もりなど例により揃えてある。売上高の二〇㌫が純利益になっても八百万円が転がり込んでくる。良い商売であると同時に施設の個人に還元される金額もまた見える。公費であることを忘れてはならない。常に公費を使っていることを忘れない限り不正は無いが、地位とは弱いもので何処かで寄り掛かろうとする。公的機関は単に措置費という形で支払い、施設に任せているのではなく、監査上指摘出来ることは十分にやるべきである。一時間や二時間で事を済まそうとする都の姿勢にも問題がある。所詮税金である。監査と言ってもその程度のことで終わっている限り現実まで見える筈がない。税金の使われ方を監視すること、及びオンブズマン制度の導入など、開かれた施設とならない限り入所している人々の生活の保障、そして運営の明瞭さは有り得ない。他人の目が入ることで日常的に見落とされている瑕疵を指摘していかなくてはならない。

 こんな風に社会福祉法人北秋川会も結果的に噂話に踊らされ人事は決まる。必要に応じて必要な人が仕事をするのではなく、個人的都合と好き嫌いで決まることは世の常である。法人組織は有って無いと同じで、法人の運営上問題にならない限り、適当にコネとお弁茶らで良く、調子よく振る舞うことが必要とされた。陰で言いたい放題を言い面と向かっては提灯持ちをしていることが立身出世だった。福祉施設を運営するのは働いている全員である。メルクマールをもって、考え行動して行くことが問われる。雇われ施設長である限り無理な話で、当ホームの施設長も自分の地位保全を忘れることはなく、常に自分の利益を考え、他を省みないことで施設に執着する。執着している限りそれなりの利益を得るのである。

 また施設に働く人間は、その人間の本質が問われる場面に直面する。施設は営利目的の企業ではなく成績も売上高も関係がない。要するに業績など無くても良く統計資料が有れば良い。また入所者に対して、食事は摂っているか、排便はあるか、居室内のトラブルは無いか、孤立していないか、家族との交流は良いか、衛生的で住み易い環境かなど十二分に注意する必要がある。そして職員は自らの行為、行動が適当か自問しなければならない。特定の人に偏ることなく接触しているか見落としはないか問われる。

 日々変わることのない六時の起床、七時の朝食、部屋の掃除、週二~三回の入浴、月一、二回の川柳会、詩吟、歌謡、俳句などの趣味会、掛け持ちで参加している人もいれば全く興味を示さない人もいる。フミも日課に沿い行事に参加していたが、施設の中にいれば日常生活の全てが事足りる状態で、ひとつの擬似凝縮化した人間社会、それが老人福祉施設である。

 

                                        了


疑似短編集冬の霧 二の①(武蔵野)

2019-10-16 15:56:15 | 短編集

冬の霧・二の①(武蔵野)

 

 JR中央線立川駅から武蔵野線で約四十分武蔵五日市駅に到着する。拝島を過ぎる辺りから少しずつ緑が多くなり武蔵野の自然が拡がる。東京都で有りながら都会の風情とは異なりそれは不可思議な感覚になる。

 平成十五年四月十二日の午前十時になろうとしていた。山本フミは福祉事務所の伊藤主事と、長女の斉藤圭子に連れられて武蔵五日市駅に降りた。此処まで来ると風は未だ冷たかったが、穏やかな日和で、北側の方角には奥多摩の山々が拡がり爽やかな空気を運んでいる。フミは辺りの様子を暫く伺っていたが伊藤主事に促されホームの階段をゆっくり降り駅前のタクシーに乗った。

 檜原村は東京都の北西部に位置している人口三千五百人余り、山梨県と県境を接した山間の地にある。バスの終点、藤倉から陣場尾根伝いに三時間程歩くと奥多摩湖に着く。夏から秋に掛け奥多摩の自然を求め、都内から家族連れやハイキング客が訪れ賑わいを見せるが冬は厳しい寒さに人影さえ疎らになる。また、居住者の多くは武蔵野線で都会に働きに出ている。

 本宿の檜原村役場から北秋川へ十分程で盲養護老人ホームに着いた。正面玄関から左右に居室が並び、北秋川に近い左側に四人部屋が九部屋、山側に二人部屋が七部屋並び、四人部屋居室の中央に談話室、娯楽室、その奥に特別養護老人ホームが併設されている。正面左側に事務室が有り、寮母室、医務室、静養室などは四人部屋の前、また中庭に接する場所に食堂が位置している。養護老人ホームは定員数五十名、東京都の委託運営であったが、経営主体は社会福祉法人北秋川福祉会が行う民間社会福祉法人である。

 フミはタクシーを降りると大きく溜め息を吐いた。玄関に立ち、左右に拡がるコンクリートの平屋建ての建物を霞む目で眺めた。蒲田の家を引き払い、此処がこれから先、終の棲家となることに不安と悲しみを覚えた。

 網膜色素変性症と診断されたのは今から二〇年程前のことだった。診察を終えた眼科医師はおもむろに話し始めた。

「網膜色素変性症に間違いありません」

「見えるようになりますか?」

「発病時期が遅いので全く見えなくなることはないと思いますが、何れ少しずつ見えなくなります」

「日中は眩しくて、夕方になると周囲が霞んでしまって見えなくなります」

「ええ、それが徐々に中心部にやってくる。しかし突発性では無いので予後は良いと思います」

「予後が良いと言いますと?」

「全く見えなくなることはない。そう言うことです」

「これから先、私の目は見えなくなってしまうのでしょうか?」

 と、フミは繰り返した。

「いいえ、今は少し暗く感じていると思います。見える範囲が少しずつ狭まってきて、視野の中心部は恐らく六十五歳位までは大丈夫でしょう。その後、中心視野、黄斑部と言いますが、徐々に見えなくなります。でも、光だけは分かりますので全く失明することはありません」

「そうですか」

「アダプチノール、ビタメジン、ユベラニコチネートと言う三種類の薬が出ますので、食後三回飲むようにして下さい」

「毎日三回飲んでいれば見えると言うことですね?」

 不安が先走るのだろう、フミは尚も同じことを訊いた。

「忘れないようにして下さい。それから、二ヶ月に一度は診察をしますので必ず来て下さい」

 フミは理解しようにも言葉が難しくて分からなかった。一日三回薬を飲んでいれば見ることに不自由は無いだろうと思った。それから二十五年が過ぎた。今では黄斑部まで犯されてきたのだろう、薄ぼんやり明暗が分かる程度で、しっかり物を捉えることが出来なくなっていた。

  フミは玄関でスリッパに履き替えると入所手続きのため面接室に通された。程なく、看護師、主任寮母、相談員による入所面接が始まった。

「こんにちは」

 と、生活相談員の飯島が口火を切った。

「今日からホームでの生活が始まりますが、初めに入所の手続きを済ませ、次に此処での生活の内容を寮母から、そして、医療の事など看護師から話して貰います。時間は三十分位掛かると思いますが宜しくお願いします。伊藤さんから、入所に付いての説明を何度か聞いていると思いますが、改めて入所指導をお願いします」

「私からは特別に有りませんが、施設に支払われる生活費、事務費など措置費は月額二十万円以上になりますが、東京都、蒲田区、国の費用で賄われます。また、山本さんは国民年金老齢年金を受給していますので負担金を区に支払わなければなりません。現在年間七十六万円ですので月々の負担金は二万二千円になります」

 養護老人ホームへ入所する場合、その収入によって、入所者個人の負担金の額は三十九段階になっている。負担金額〇円から最高十四万円で、本人の収入金額に依って決まる。但し四人部屋の場合二割減、三人部屋で一割減、五人、六人部屋は三割減、七人部屋以上は四割減で、二人部屋、一人部屋は割引の対象になっていない。国民年金障害基礎年金、厚生年金障害年金、その他の収入の中から入所者負担金として市町村に支払う。フミの場合、国民年金老齢年金から支払うことになるが入室する居室は四人部屋だったので二割減だった。

 相談員の飯島は入所決定通知書、身元引受書、措置費決定書、住民異動届、障害者手帳など必要な書類を順次受け取りその場を離れた。入所受諾書、預り金等預り証など書類を作る為だった。入所には、国民健康保険証、年金証書、印鑑、貯金通帳、その他衣類、小物類など施設で生活する為に最低限の物品が必要だった。また養護老人施設の場合、本人の住所は施設の住所地に移すこととされている。住み慣れた場所を離れ新住所地の住人になる。

 福祉事務所の伊藤主事は一通り手続きが終わると引き上げていった。今後老人ホームを福祉事務所職員が訪れるのは歳末慰問、訪問調査など年に一から二回程度である。訪問調査により養護老人ホームの対象者か、施設内の生活が正常に行われているか、本人と直接面接することで調査する。しかし今後は介護保険導入により訪問調査の意味合いは失われる。養護老人ホームの場合、居住地に住民届けを提出することになり、介護保険の認定は居住地の市町村が行うことになるので、出身市町村との直接的な関係はなくなる。又、老人福祉法の規定により施設を概ね三ヶ月以上離れるような場合(入院・行方不明)は退所の対象にとなる。フミは前居住地の手を放れ住民移動することで老人ホームの中で単独世帯となる。又、介護保険制度が始まった現状から養護老人ホームでの生活が困難になった入所者は、以前なら市町村に措置変更願いを提出することで、市町村の責任において今後の措置を必要としたが、現在は住民票の置かれている市町村に要介護認定の申請をする。そして、要介護認定された時点で施設の介護支援専門員、乃至地域の介護支援センターなどの介護支援専門員が特別養護老人ホーム、療養型病床群、老人保健施設などへの入所の手続きをすることになる。要するに市町村は養護老人ホームへの入所措置はするが、その後については仕事上の責務を負わないことになる。養護老人ホームから市町村に退所届けを提出することで全てが終わる。

 フミは娘の圭子と寮母に連れられ居室に入り、前日到着している衣類や湯茶用具などの整理を始めた。四人部屋は十二畳の広さに、押入、物入れ、幅三十センチほどの板の間が付いていた。一人当たりの広さは三畳であるが押入の出し入れや通路に使う為、実際は二畳程度しかなかった。狭い場所であるが、それぞれが自分の場所を畳の縁などで確認している。

 荷物を片付けながら、フミの心の中にどう処理して良いのか分からない感情が込み上げてきた。集団生活は尋常小学校以来のことである。管理され、拘束された他人同士の集団生活である。老人ホームに来るまでの数ヶ月の間、仕方が無いと諦めていたが、実際、他人と一緒の部屋に入って生活を始めることが遣る瀬無かった。娘の圭子はその日の夕方に帰った。施設にゲストルームは無く、せめて一日位一緒に居たかったがそれも仕方がなかった。自分の子供と雖(いえど)もそれぞれ家庭が有り必要な日常が待っていた。また地方から来る家族でさえ慌ただしく帰えるのが現実である。

 フミは部屋の人たちに訊きながら七時には布団を敷いた。しかし時間も早くなかなか寝付くことが出来ず残してきた借家のことが心配だった。夫の山本堅太郎と結婚してから何度か引っ越しをしたが、最後の二十年近く住んだ家だった。堅太郎の位牌だけは持ってきたので中段の押入にしまった。その他の荷物は蜜柑箱三箱に収まる程度のもので、フミは寝る前に位牌に手を合わせ横になった。朝から慌ただしく一日が過ぎた。しかし、それが社会的生活最後の日であると気付くのは随分後のことだった。

 横になり一時間二時間と過ぎていた。矢張り興奮していたのだろう、目を閉じていたが眠れず自分の生まれ育った家のことが記憶の底から蘇ってきた。嫁に行くまで二十年間住んだ家だった。フミは三人兄弟の三番目に生まれ、長男の野田順一郎が家を継いだがその兄も既に他界していた。姉のよし乃とは七歳違いで、同じ東京に住みながら最近は会うこともなく何をしているのか定かでなかった。子供の頃は姉とも年が離れていたので遊び相手にならなかったのか、一人で留守番をしていることが多く寂しい思いをした。昭和六年生まれのフミは太平洋戦争が終わったとき十六歳になっていた。昭和二十七年に山本賢太郎と結婚したが、町工場で働く賢太郎の月給はその頃五千円程で、家賃に千円掛かったが贅沢を慎み少しずつ貯蓄もしていた。豆腐が一丁十二円、味噌が一キロ六十六円の時代である。二人の子供を育て上げるのに苦労してきたことが思い出された。しかし二人の女の子は高校卒業後、就職、結婚と順調に進んだ。やがて孫も産まれ、今でも二組の家族は幸せに暮らしている。

 

 フミが入所して九ヶ月が過ぎた。施設内では一人の死亡者があり新しく一人の入所者があった。フミの入所している施設の平均在所期間は八十七ヶ月、七年強で、平均年齢は七十三歳である。入所後在宅復帰になることは殆ど無く施設で生涯を終えることになる。脳梗塞などで生活が出来なくなったような場合、特別養護老人ホームへの措置変更になるが、介護保険制度になった場合など速やかに移行が出来るのか分からない現状で、それでなくても特別養護老人ホーム、老人介護保健施設、療養型病床群も定員一杯の状況である。痴呆状態になった老人を受け入れてくれることも、その施設の運営情況によっては、介護保険制度の元では矢張り経営が優先される訳である。入所したくても出来ない状態が続き養護老人ホームに残されるか長期入院を余儀なくされる。在宅ケア優先で市町村の公的援助が後退する介護保険制度は、入所者にとっても現場で働く職員にとっても不安材料を抱えることになる。また、在宅ケアと言っても少子化高齢社会を反映する限り、介護保険制度が目指す在宅での自立した生活を望めるのは一部の経済的に恵まれた家庭であり、要介護区分以上のサービスを上乗せして受けるには費用を要する。費用を支払うことが出来る家庭のみがより以上の利益を得ることになる。

 養護老人ホームの場合、介護保険が導入されることはないが福祉の精神から言えば国なり、県なり、市町村の救済業務は何の為にあるのか分からない。必要に応じて介護を受けることになるが、末端の部分まで行き渡るのか、また個人の費用負担にしても、支払いが出来れば最高のレベルで介護が受けられるが、支払いが出来ない場合は十分な介護が受けられない。又、特別養護老人ホームの場合なども、施設運営をしていく場合、重度障害者ばかりでは日常的に動きが取れるのか疑問である。

 福祉サービスは金の有る人も無い人も同じである。また必要なサービスがあったとしても、施設に入所する人たちにとっては終の棲家と感じている人が殆どである。施設でのサービスが必要で無くなった場合、入所者はどの様にして行けば良いのか、福祉は単に介護だけのサービスではなく、精神的ケア、社会的ケア、家族的ケア、地域的ケア、医療的ケア、日常的ケア、相談業務など多方面に渡ってこそ始めて必要なサービスを行っていることになる。単にオムツを替え、入浴し、医療や食事を提供しているだけでは、これからの福祉は質の低下をまねからざるを得ない。

 入所して始めて福祉事務所の訪問調査があった。入所者に対して行われるこの調査、判定により、入所の継続か、他施設への移行か決められることになる。行事のように行われる年一回の訪問を楽しみに待っている入所者もいた。一年待っても二年待っても二、三割の人たちには誰も訪ねてくることはない。福祉事務所の伊藤主事がやってきたのは午前11時だった。一年振りだった。あの日、面接室で入所の手続きをしたのが伊藤主事だった。施設に入所せざるを得なかったことが思い出された。

「山本さんお元気でした?」

「ええ、どうにか暮らしています」

「身体の具合に変わり有りませんか」

「ええ、元気にしています。風邪も引かず冬を越すことが出来ました」

「視力は如何ですか?」

「薬を飲んでいますのでどうにか見えます」

「困ったことはありませんか」

「生活は単調で楽しいこともない変わりに辛いこともありません」

「他の皆さんと仲良くしていると伺っていましたので、これから先も大丈夫と思いますが、嫌なことがあったら話して下さい」

「特別有りません。もう歳で何も望んでいないし、三回温かいご飯が食べられるだけで十分です」

「未だ六十六ですよ」

「此処では五十歳でも六十歳でも変わり有りません」

「部屋は狭くありませんか」

「狭いけれど仕方がありません」

 施設は施設内だけの社会だった。外部と繋がっていても、社会に解放されていても、人の出入りは少なく、週一回の食料品販売、月一回の衣類品販売、嘱託医の往診、理容師の訪問など施設内で事足り、社会との接点は何処にあるのか分からない。

「家族の面会はありますか」

「娘が二人いますので時々交代で来てくれます」

「分かりました。これから先生と話がありますので終わりにしたいと思います。山本さん、来年も来ますのでお元気でいて下さい」

「有り難うございました」

 こうして、フミが死ぬまで続くだろう施設での単調な生活が始まった。

 

                                                    了

 

 


疑似短編集冬の霧 二の②(食事処美代)

2019-09-19 10:14:38 | 短編集

冬の霧・二の②(食事処美代)

 

 横浜の高層ホテルから遠く海岸線の夜景が眺められた。美代は窓辺に立ち行き交う船窓の明かりに見とれていた。大きなホテルからこんなに美しい夜景を観ることが仕合わせだった。時々は東京のホテルで会い。近くの温泉に旅行することもあったが、横浜の夜景は群を抜いていた。恋をして、愛することで美代は楽しい日々を送っていた。

 川図穣二を知ってから三年経ち美代は妊娠していた。

「何時までも眺めていないでこっちにおいで」

「だって、とっても素敵。行き交う船の明かりがすぐ其処に見える。穣二と私だけの夜景」

「言うことを聞かないと・・・」

 と、言いながら美代を抱いてベッドまで連れてきた。

「穣二、私のこと好き?」

 美代は耳元で囁いた。

「好きだよ」

「本当!嬉しい」

「穣二は素敵なホテル知っているのね」

「以前お客さんを案内したことがある」

「そう言う仕事までするの?」

「外商業務は一から十まで何でもやらなくてはならない」

「ねえ穣二、お話があるの?」

「何かな」

「私ね、子供が出来たみたいなの」

「嘘だろ?」

  穣二の顔が一瞬曇ったことに美代は気付かなかった。

「本当よ!嬉しいでしょ?」

「急に言われても困ってしまうな」

  美代には分からなかった。早く結婚したいと言っていたのは穣二の方で、子供が出来れば直ぐにでも叶うことだった。穣二のマンションに引っ越して、子供と二人愛されて、幸せな家庭が作れると思っていた。

「嬉しくないの?」

「いや、そんなことはない」

「だって、嬉しくないようだもの」

「病院には行ったのか?」

「行っていない」

「其れでは確かな事ではないな?」

「でも、間違いないと思う」

「一応病院に行って確かめた方が良い。気を付けていたのだから出来る筈がないと思う」

「ええ、来週お休みを戴いて行って来ます」

「暫く会わない方が良いかも知れないな」

「何故?」

「周囲の目も五月蠅くなっているし、注意した方が良い」

「でも、友達も穣二のことを知っている」

「そうか」

「ねえ、結婚してくれるでしょ?」

「その事だけど来週中に電話を掛けるよ」

「ええ待っています。医者には火曜か、水曜に行って来ます」

「分かった」

 何故もっとはっきりと嬉しい表情をしてくれないのか分からなかった。翌日美代は一人でアパートに帰った。それから二ヶ月過ぎたが川図が美代の前に現れることはなかった。会社で偶然出会うことがあっても川図は何も言わなかった。

 それから一ヶ月が過ぎ美代は故郷の益子町に帰っていた。東京の生活にピリオドを打つ為であった。相談する相手も無く、何をして良いのか分からなかった。益子での一週間が過ぎた。それまで何も言わなかった母の比佐子が二人だけの昼食が済むと訊いてきた。

「美代、突然仕事を辞めて一体何があったのかい」

「何でもないわ、会社が嫌になったから辞めただけ」

「そうは言っても、急に辞める理由が分からない」

「お母さん、後少しだけ時間をくれない。そうすれば何もかも話します」

「でもね、美代、お父さんも光彦も心配している」

「話さなければいけないと思っても、未だどんな風に話して良いのか分からない」

「でも」

愛する意味も、愛される意味も分からないで身を任せ、充足した生活が、日常が、川図と過ごしていた日々が確かなものと考えていた。川図が何を考えていたのかさえ知らず、優柔不断のところも無く性格も真面目な人だと思っていた。しかし益子に行こうと誘ったとき断られた。何故あのとき気付かなかったのか、乾いていた訳では無かったが、自分の思いの中に、将来の夢を生活設計を単純に描いていたのに過ぎない。裏切られたことが自分の浅はかさであると気付いたとき美代は死んでしまいたいと思った。

 伊豆の雲見崎で海を眺めていた。堕胎するなら一層死のうと思い此処まで来た。深い入江が切り込み崖下まで波を寄せ、海中に落ちてしまえば何もかも終わる。そう思った瞬間右手を掴まれた。

「離して下さい」

「離しません」

「お願いですから離して下さい」

「私が離しても良いと思えば離します。それまでは離しません」

「私、死のうと思って此処に居たのでは有りません」

「そう言うことにします」

「本当です」

「自分のことですから何時死んでも構わない。誰だって死にたいときが有るものです」

「いい加減なことを言わないで下さい。この手を離して、離してくれないと人を呼びます」

「好きなようにして下さい」

 手を掴まれながら美代は海を眺めていた。大型貨物船が南に向かって曳航していた。時間が過ぎていった。夕陽に赤く染まった美代の両頬を幾筋もの涙が流れていた。

「綺麗ね」

「生きることも死ぬことも意味が見出せない。しかし、今生きているのなら生きた方が良い」

「私・・・」

「希望や、明日のことなどなかなか掴めない。取り敢えず生きているけれど、自分の思う通りに事は運んでいかないと思います」

「生きているって難しいことですか?」

「一日終われば其れで良いのかも知れない。でも、終わっただけで始まりはない」

「私には一日の始まりもない」

  何時しか美代は心の内を話し始めていた。話し掛ける相手のことを知らなくても、これまで思い詰めていたことが、一つ一つ対象として捉えられるようだった。

「お名前、何て仰しゃるの?」

「石部孝之と言います」

「石部さん」

 と、美代は落ち着いた声で言った。石部はいつの間にか掴んでいた手を離していた。

「ご免なさい」

「僕こそ悪かった。手首は痛くなかった?」

「ええ、大丈夫です」

 生きようとする思いはなかった。しかし時は過ぎ、思い詰めた悲しみも辛さも少しだけ消えていた。

 

 翌年の春になっていた。美代は東京の府中市で調理師学校に入学した。朝八時半から授業が始まり夕方五時近くまで続いた。そして夜は石部の紹介で、日本料理店で働いた。見習いをしながら学校に通い、真夜中狭いアパートに戻り眠るだけの生活だったが、毎日毎日働くことで苦しみを乗り越えようとしていた。それでも日曜日は料理店が休みだったので郷里の益子に帰った。響子に会えることで、生活を考えることで生きようとしていた。偶に帰ってくる母親に、始めは不安そうな眼差しを向けていたが笑みも見られるようになった。

 美代は二十六歳になっていた。調理師としての勉強は新鮮で、板長の八田一郎は手厳しかったが、客に喜んで貰うもの、季節、季節に飽きの来ないもの、一度立ち寄った客を又通ってくるような、納得出来る料理を拵え覚えさせた。美代は新しい自分を見つけて行くことが出来た。卒業後はそのまま料理店で働き、材料の仕入れから、下準備、調理、頃合い、片付けまで一通り取り組んでいた。一つずつ確実に身に付けていくことで確かなものになりつつあった。

修行を積んで一年が過ぎた頃、伊豆の松崎町で居抜きの店を借りた。修繕や準備に一ヶ月を要したが、保健所への提出書類を書き終え美代はホッとした。後は今月末の検査が済みさえすれば営業出来る状態だった。地元新聞に折り込み広告を入れ、開店祝いも考えなければならなかった。町の食品衛生組合への加入や、商店街への挨拶廻りなど、一軒の店を開店させる為には忍耐と努力、経験したことのない準備が必要だった。カウンターが四脚、二人用テーブルが三脚、合わせて一〇人座れば一杯の小さな店だが、これから美代と響子の生活を支える広さだった。

 

 一年後、美代は中禅寺湖湖畔のホテルに来ていた。響子を実家に預け石部との再会を待っていた。ロビーから庭園を眺めていると、石部との出会いから今日までのことが幾つかの情景と共に思い出された。夕方にはこのホテルに屹度来るのだろう。石部が居たことで此処まで来ることが出来た。あの時、石部に助けられなければ死んでいた。石部に出会ったことで生きようと思った。しかし、女としての思いを託したのではなかった。

 石部隆之は陶工士としては未だ駆け出しだった。雑器とは言え自分で納得できる物はなかなか出来なかった。釜に置く位置、釉薬、季節、仕上がり状態まで考え轆轤の前に座っても、座ったまま一時間、二時間と過ぎて行くこともあった。益子に来てから既に五年が経ち、窯元に弟子入りした翌年窯業学校で陶芸の基礎から学んだ。数をこなすことで、身体で覚え、火入れをすることで感覚を磨いてきた。しかし自分でも気付かない何かが違っていた。形、色、使い勝って、必要性など考えても、数を幾ら造っても違っていた。陶器は使うものであり、使い込んで行く内に必要性が生まれ、生きた価値を持ってくる。それ自身で価値を持つようになる作品が必要なのか、使って価値が生まれてくることが必要なのか、売れる雑器は造ることが出来ても納得出来る作品は作れなかった。

「石部さん、お久しぶりです」

  石部は直ぐに電話口に出た。

「美代さん」

「石部さん、お仕事は順調ですの?」

「否、なかなか思うようにいかない」

「そう、でも」

「今日も轆轤の前で手が止まったままで、造る度に何をして良いのか分からない」

「石部さんでも悩むことがあるの?」

「何時も悩んでいる。このままで良いのか、何故この仕事を選んだのか、俺に作品が出来るのかって」

 電話を掛けて良いのか、声が聞きたいのか、石部の思いを知りたいのか、美代は生きようとする思いと、生きることの虚しさをどんな風に処理して良いのか分からなかった。石部の中に男としての力強さを感じ、石部に愛して欲しい思いと、響子のことを考え、女の思いを捨て去ることを考えていた。

「お会いしたくて」

「え?」

「一度だけでも、お会いしたくて」

「分かりました」

「お待ちしています」

 美代が西伊豆に店を持ちたいと思ったのは、修学旅行の思い出の場所であり、雲見の海岸で生を閉じようとした場所からだった。岸壁に佇んでいた日から六年が過ぎ、自分の生きる所は松崎町しか残っていないと思った。海岸線から見た夕陽が忘れられなかったのか、響子と二人、誰も知らないところで生きたかったのか、故郷を遠く離れ海と山の町で暮らすことに、不安や、響子と一緒に耐えられるのか自信がなかった。しかし自分で決めたことだった。

 美代は三十歳の手前になっていた。歳月が人を変え、人は過ぎて来た歳月に彩りを添える。光り輝くのか、くすんでしまうのか、その人の生き方によって様々である。しかし日々は過ぎ、一日一日の生き方、来し方が決めて行く。石部を待ちながら、美代は営業許可証の書類が届いた日のことを思い出していた。その日、カウンターに立つと何時までも涙が流れていた。

 

                                         了


疑似短編集冬の霧 二の①(西伊豆)

2019-08-09 11:40:31 | 短編集

冬の霧・二の①(西伊豆)

 

 東京の府中市を離れ西伊豆は海岸線の町、松崎町に移り住んでから既に三年が過ぎた。暖簾を下ろし、機田美代は一日が無事終わったことに安堵したかのように煙草の火を付けた。人前では滅多に吸うことは無かったが、一日の仕事が終わりほっとした瞬間自然と手が伸びている。初めの一年は働き尽くめで身体を壊したこともあったが、今では週一回の休みも取れるようになった。一人娘の響子も六歳になり、一人で居ても手が掛からなく仕事に集中できた。

 食事処【美代】を開業して二年目、益子の実家に預けておいた響子を引き取った。馴染んだ祖父母と離れることに、親の辛さも響子の辛さもあったが矢張り一緒に住むことを願った。

 深夜蒲団に入ると、響子の為にもう一度生きてみようと願ったことが昨日のように思い出された。客はそれ程多くなかったが、町の中心に位置していたことで馴染みの客も増えある程度の採算も取れるようになった。また観光地でもあり昼食時は流れの客も多い日があった。昼は十一半時から定食を、夕方は五時から九時まで酒と食事を拵えた。出店した頃は借金に苦しんだが、今では銀行への返済も順調に消化して後二年ほどで完済する予定である。今月分の返済も明日入金すれば良かった。

 松崎町は伊豆半島南西部に位置する遠洋漁業の要港であり、桜餅用の大島桜の葉を生産する他、マーガレット栽培が盛んであり、戦前は早場繭の市場として知られ、古く明治時代は畳表の製造で知られた世帯数三千戸、人口九千人余りの町である。西伊豆の代表的な観光地であり、年間この地を訪れる観光客は三十八万人、また宿泊観光客は三十一万人に達している。漁業も現在は遠洋漁業から近海漁業に変わり、旅館や民宿で消費され、農業は畳表や繭の出荷量は無く僅かに葉桜を出荷する程度に過ぎなかった。

 美代がこの町に出店したきっかけは、陽入りの美しさと、石部との出会い、そして響子と静かに生きたいと思ってのことだった。毎朝の市場への買い出しに始まり、一休みしたあとは昼の準備に取り掛かる。そして、夕方は四時に厨房に入り酒の肴の準備に追われる。昼は近くの銀行や役場関係の来客が、夜は漁業関係者や地元の単身者が訪れる店だった。

「機田さん景気は如何かね」

 と、地元銀行の笹本が声を掛けてきた。笹本は時々昼飯を食べに寄ることがあった。居抜きの店を買うとき笹本の勤める銀行から借り入れていた。

「ええ、どうにかやっています」

「採算が取れるか心配だったが順調そうだね」

「三年目になりましたので後二年の辛抱です。其処を乗り越えれば銀行さんへの借金もなくなりますし、実家にも少しずつ返すことが出来そうです」

「三年ですか、昔はこの辺りも景気が良かったらしいのですが、何せ伊豆も奥に入ったところで、これ以上人口が少なくならなければ良いのですが」

「ええ、儲からなくても親子二人食べることが出来れば、それに越したことはありません」

「確か、娘さんでしたね?」

「来年、小学校の一年になります」

「そんなに大きなお子さんがおありでしたか」

「益々年を取ってしまいます」

「ところで、店の器だが益子焼きだね」

「ええ、そうですけれど」

「ほほう」

 と、意味ありげな声を出した。

「実家が益子なものですから、送って貰っています」

「そう言う訳か、趣味が良いので特別な陶工がいるのではないかと思っていました」

「とんでも有りません」

「器が良いと食べ物も旨い」

「いいえ、腕が良いのです」

「機田さんもやっと口を利くようになったね」

「申し訳有りません」

「いやいや、安くて旨くてご馳走さま」

「有り難うございました」

 

 夏の観光シーズンも終わり、西伊豆も訪れる客足は少なくなっていた。

「響子、お昼ですから下りていらっしゃい」

 土曜日だったので昼前に保育園から帰っていたが、食事をさせる時間がなかった。美代は二階で一人遊びをしている響子を呼んだ。お昼の客が帰った後の二人の遅い昼食だった。

「明日の日曜日、仕事休んで出掛けようか」

「本当?」

「三津シーパラダイスに行ってみない。お母さん運転して行く」

「うん、お弁当持って行こう」

「勿論よ、響子の好きな物沢山作るわ」

「早く明日にならないかな!」

「ねえ響子、来年は一年生ね。頑張れる?」

「学校に行くのが楽しみ!」

「そう、嬉しいわ。今日は早くお店終わりにするからね」

「ねえ、お母さん結婚しないの?」

「え?」

「保育園のお友達が言っていた。響子ちゃんのお母さん何故結婚しないのかって!」

「お母さんはね、響子がいれば良いの」

「響子のこと一番好き?」

「そうよ、二人で頑張ろうね」

「うん」

「お買い物があるけれど一緒に行く?」

「お友達の所に行ってくる」

「早く帰って来るのよ」

 響子が出掛けてから美代は近くのスーパーに行った。響子は響子なりに寂しいのかも知れない。仕事中は二階で一人遊んでいる。眠くなっても蒲団を敷いて上げることも出来ないし、客が居ても居なくても下に降りて来ることはない。我慢していることは分かっていたが側に行って上げられないことが悲しかった。夕方友達の所から帰ってきても、そのまま二階に上がって邪魔をしないようにと考えていることがいじらしかった。

 買い物を済ませ夕方まで美代は二階で横になっていた。二階からは那賀川の流れが直ぐ真下に見え静かな時間を過ごすことが出来る。響子は夕方戻ってきた。日頃から余り自分のことは喋らなかったが両頬に涙の流れた跡が残っていた。

「どうしたの?」

「何も無かったよ」

「虐められたの?」

「早く明日にならないかな」

「今日は早仕舞で明日の支度をしなくってはね」

「二階で静かにしているね」

 美代は響子のことを思い胸が熱くなっていたが店に下り夜の準備に取り掛かった。土曜日で店は立て込み片付けが終わると十一時を過ぎていた。響子は二つ並べた蒲団の端で丸くなり眠っていた。借金を返す為に働かなければならなかった。しかし響子と過ごす時間が無いことが悲しかった。

 

 美代は栃木県芳賀群益子町で生まれで、小さい頃から陶器に囲まれ育ってきた。益子町は、窯業以外は米作、葉煙草の栽培を生業としている農業の町である。窯元は三〇〇以上を越え、生産品目は和飲食器が殆どで日用雑器が中心である。春、秋と年二回開かれる町上げての陶器市には多くの観光客が訪れ賑わいを見せる。

 美代は高校時代陶芸部に所属し自分なりの作品を仕上げていた。手の荒れるのも構わず、放課後遅くまで轆轤の前に座り集中して作品に取り組んでいた。

「機田さんよく練らないと気泡が抜けないわよ」

 陶芸の指導は担任の大原先生だった。

「今度の作品展に出品してみない?」

 秋の県芸術祭高校の部作品展示会への出品だった。

「はい」

「陶芸は技術だけではないと思っていたけれど、機田さんの作品は温かみが有って良いと思います」

「有り難うございます」

「所で機田さん、これからのことどう考えているの?」

「どうしようか迷っています。両親とも益子に残って欲しいと思っているのですが、窯業養成所に入ってやっていけるのか不安だし、でも、私のような融通が利かない人間は一つのことに集中していた方が良いのかも知れません」

「そうよねえ、実際問題誰だって躊躇ってしまう。でも来春には卒業になるし、機田さんの進路を決める上でも作品展は良い機会になると思います」

「もう少し考えてみます」

「確かに陶芸で身を立てることは難しいと思います。私の父も窯元の一人で毎日毎日陶器を作り続けている。でも、父の顔を見ていると納得していないことが分かる。私も見様見真似で、轆轤の前に座りだしたのが小学校に入って直ぐの頃だった。仕事場に居ても、父は何も言わず私の方を眺めていた」

「先生は何故陶芸を続けなかったのですか」

「生業として、立つか立たないか微妙なところだと思います。陶器の善し悪しは簡単に見分けられるものではないし、季節、天候、釉薬、火入れ、使い手に依っても変わる。それが分かって来なければ職業としても成り立たない。作るだけなら機械でも構わない。今では使い勝手の良いものが簡単に出来るようになり、でも、人間が作る物は其れなりに味が滲み出なければならない」

「分かるような、分からないような気がします」

「私も高校時代は何時間もこうして座っていた。形が出来上がり、素焼き、本焼きと進む。でも、自分のイメージと出来上がった物が微妙に違っていた。同じものを同じように作り続けても違う物が出来、釜から出す期待が直ぐ失望感に変わる。その度に作陶の厳しさ難しさを味わいました」

「ええ」

「確乎とした思いがあっても生まれてくる作品が違う。その時に、初めて父親の顔が歪んで見えた意味が分かりました」

「陶芸で生きて行く為には自分との闘いだと思います」

「しかし、生活して行く為には売れなければならない。自分が良いと思っても売れなければ価値がない。売れる品物が良いとは限りませんが、そう言う物を作らなければ生活が出来ない。陶芸を続けられなかったのは私の器量を越えていたからでしょう」

 と、大原は溜め息を洩らした。

 その年、作品展に出品したものの結果的に入選することはなかった。入選しなかったことで就職しようと思った。美代は職業高校卒業後、東京の中小の証券会社に就職した。社員寮は小田急線の成城学園前から多摩川に向かって一〇分ほど歩いた、東名高速道路が多摩川橋に架かるところにあった。大手町の会社まで一時間ほどで通勤出来る距離である。また、寮は二人部屋で長野の高校を卒業した上江田百合と同室だった。

 百合と一緒に毎朝早めに寮を出た。都会生活に憧れ東京に出て来た訳ではなかったが無我夢中で一年が過ぎた。また、課が同じ佐川美津とも友人になることが出来た。美津は静岡県沼津市の出身で、美代は美津の利発な性格や屈託のないところが好きだった。会社と寮の往復だけの単調な生活だったが、東京での一年は美代を変えていた。精神的には未だ子供であっても表面的には大人の雰囲気が現れ、田舎から出てきた娘が東京での生活に慣れ、少しずつ磨かれ大人の女性に変わっていた。

 夕飯は殆ど寮で食べていたが、その日は、部屋の変わった百合と美津と三人で、渋谷で買い物をして夕飯を摂ることになっていた。

「ねえ、彼出来た?」

 と、百合は意味を含ませるように訊いた。

「仕事を覚えることで手一杯、とっても恋人なんて作れそうにない。美津さんは?」

 美代は心の中で思っている人はいたがそう答えた。

「高校の頃から付き合っている人が沼津にいて、月一回は会っているし、今のところ興味のある人もいない」

「そう、私だけね。営業の田所さん知っている?」

「知らない」

 二人とも声を揃えたように言った。

「恋人同士の関係になっている。結婚はしないと思うけれど毎日楽しいって感じ」

「だって、遊びだったら困るでしょ?」

「割り切って交際しないと誰も付き合ってくれないよ」

「大人の人と付き合わない方が良いと思う」

「同級生だと、ワイワイ言っているだけで直ぐ飽きてしまう」

「人を好きになるって難しいことだと思う。でも違うかな、美代さんはどう思う?」

 美代は話を聞いているだけで喋ろうとしなかった。どんな生き方が出来るのか分からないし、愛についても知らなかった。成長したのは外面的なことであり精神的には未熟だった。

「私、分からない」

「美代ちゃん、子供ね」

 と、百合が言った。

「百合は何処まで行っているの?」

 美津が訊いた。

「どこ迄って、行くところまでよ」

「凄い」

「だって、欲しいって言われた」

「先のこと考えなかったの?」

「とっても楽しんだもの、先のことまで考えたって仕方がない」

「そう言うものかな?」

 美代は二十一歳になっていた。同じ会社の川図穣二に出会ったことで、仕事に行くことも楽しく日々の生活も変化していた。会社が終わってから川図と毎日のように会い、当然帰寮も門限ぎりぎりになっていた。しかし自分の生活が乱れているとは思わなかった。有頂天になっていたのか、初めての恋では無かったが、親元を離れ、自分だけの生活を持ち、知らず知らずの内に変わっていたのかも知れない。

 美代は二年目も終わりになる頃寮を出てアパートを借りた。川図に進められたこともあったが、敷金や礼金、生活に必要な物品を買い入れ二年間貯めた預金も使い果たした。自分では贅沢をした積もりは無かったが、自炊する為に細々としたものまで買わざるを得なかった。アパートに越してからは、誰にも遠慮せず、遅い時間に帰ってきても好きな時間に出掛けても迷惑を掛けることはなく、始めて一人で生活することに一種の充足感を味わっていた。

 一DKのアパートに川図が訪ねてくるようになった。

「素敵な部屋になったね」

「有り難う、やっと一人暮らしが出来るようになってわくわくしている」

「会社には少し遠くなったけれど大丈夫?」

「帰りの時間を心配しなくて良いし、一人の部屋を持つことが夢だった。これからは日曜日の朝だってゆっくり眠っていられる」

「泊まりに来ても良い?」

「でも」

 美代は一瞬迷った。アパートで一人の生活になれば、川図がそう言うだろうと思っていた。しかし自立した生活、仕事、将来、それらをしっかりと確立して来たと言う自負心があった。それに、幼いながらも川図のことが好きだった。

「二人だけの時間を持ちたい」

「ええ」

 と、美代は承諾した。

 

                                        了


疑似短編集冬の霧 三の③(冬の霧)

2019-07-12 09:56:00 | 短編集

冬の霧・三の③(冬の霧)

 

 ・・・山手線だろうか緑色の電車がすれ違った。俺は片手に書類袋を持っている。中を確かめると細かな数字が並び、表紙には見積書と印刷されている。背広姿の身なりと言いサラリーマンらしい。時間は午後だろうか、居眠りをしている乗客、そして空席も目立った。しかし本当にサラリーマンなのか、飯沼産業株式会社宛と書かれた見積書を見ながら必死で考えた。電車は池袋を過ぎ新宿に近付いていた。降りなければと言う思いが過ぎり、新宿、新宿と何度も呟いた。しかし新宿で降り、これから飯沼産業に行くのか、飯沼産業の帰りなのか皆目見当が付かない。

「矢部さん?矢張り矢部さんだ」

「はい」と、俺は慌てて返事をしていた。

「十数年振りになりますか」

「貴方は?」

「私ですよ、柿沢」

「柿沢さん?」

「中学の柿沢喜一、喜び一番の喜一」と、見知らない男が言った瞬間、駅員のいない小さな駅に下りた。

 ・・・左右を見渡してもタクシーの陰さえない田や畑に囲まれた田舎の町だった。さて、如何したものか迷っていると一台のタクシーが通り掛かった。咄嗟に手を挙げた俺はタクシーに乗り込むことが出来た。住所の書いてある紙を運転手に渡すと、「三十分近く掛かりますよ」と言われた。降りた駅を間違えた訳ではなく、それも仕方がないだろうと思った。山間の僅かばかりの透き間に幾つかの集落が点在していた。人々は山を切り開き、一日数時間しか陽の当たらない場所に住み着く。しかし数軒の家は既に廃屋になっていた。子供たちは家を継ぐことはなく都会に出て行ったのだろう。又、僅かばかりの段々畑に腰の曲がった老人が鍬を持って立っていた。

「お客さん何処から?」と運転手は言った。

「秋田から」

「此処が秋田ですよ」

「いや、東京かな?」

「お客さん、大丈夫ですか」と、運転手が言った瞬間、芳醇な香りに包まれていた。

 ・・・着飾った女たちが俺の周りを取り囲み囁いている。

「矢部さん、今日良いわよ」

「意味が分からない」

「今日良いって言っているの、私のこと欲しいのでしょ?」

「言った憶えは無いな」

「矢部さん、りっちゃんが可哀相よ」と、隣の女が言った。

「ご執心だったくせに」と、前の女が言った。しかし俺の周りにいる女たちに何を言ったのか見当が付かない。

「矢部さん、意地悪ね」

「だって、俺は独身じゃない」

「関係ないことよ、今日の矢部さん変ね」

「俺が以前からりっちゃんを誘っていた?」

「今更、何を言っているの」と、怒った口調で言われた瞬間、見上げると雲間から雪が落ち始めていた。

 ・・・身震いするような寒さに俺はコートの襟を立てた。寒い思いをして会社の為に働いている。毎日毎日同じ時間に出勤することで家族を支え、会社を支えていると言う虚しい自負心があった。私立大学を卒業して二十一年、俺の日常は変化すること無く過ぎている。自分自身に対する不安か、有給休暇を取ることもなく、真面目で仕事熱心であったが普通でしかない。それが会社内での評価だった。しかし意に介することはない。可も、不可も無く仕事をこなしていくことの困難さを知っている。

「其処の席、少し空けてくれない」と、若い男が言った。通勤電車を降り会社に向かっていた筈だ。しかし未だ車内に居たのかも知れない。

「もう一杯だよ」と、俺は言った。

「座らせな、この野郎」

「お前に、この野郎と言われる筋合いはない」

「爺さん、殴ってやろうか」

「貴様らみたいな連中が生きている必要はない」

「この野郎」と、男に殴られた瞬間、歌など歌ったこともないのに鼻歌を歌っていた。

 ・・・まったく珍しいことだ。カラオケではなく家の風呂場なのかも知れない。これまで人前で歌など歌ったことなど無かったが湯船で歌っている。しかし俺は背広姿のままだ。何故、服を着たまま風呂に入っているのだろう。

「私のことを愛していると言った」と、女が言った。

「遠い昔のことだろう」

「いいえ、一週間前のことよ」

「覚えていない」

「二人で頑張ろうって」

「忙しくて時間に追われていた」

「言い訳に過ぎない。他に愛した人はいないのに貴方は私を疑っていた。何故、何故なの?」

「疑念は無い」

「嘘、貴方は何時だって一歩離れて私を見ていた。そう、初めて逢った時から変わらない」

「愛しても、その後が分からない」

「何故、そんなことを言うの?私の全てが貴方のものだった。貴方に出逢えたことで私は生きることが出来た。貴方がいなければ生きて行けない」

「これ以上何も出来ない」

「私の愛は終わるの?」

「俺に何が出来ると言うのだ」

「私の何を必要としたの、愛することが出発点だと思っていた。でも、それは終着点に過ぎず、貴方は私のことを心の片隅でしか考えていない」

「俺は背広を着たまま風呂に入っている。此処はどこだ」

「そんなこと関係がない」

「何れ終わりが来る」

「貴方は傲慢よ、単なる浮気だったの?」

「違う」

「貴方は自分を正当化している。未来は、明日は空疎なものだと言って何もしない」と、知らない女が言った瞬間、神奈川に来て巨大な船窓を見ていた。

 ・・・コンビナートに囲まれた街は矢張り赤錆び付いている。俺が降り立った駅は、川の中にあるのか、海の中にあるのか、ホームの真下は一筋の油を引いたような水が流れている。覗くと銀色の魚が流れに逆らって泳いでいる。

「行こう」

「ええ」

「静かだね」

「このまま一緒にいたい」

「今ある時間を大切することが仕合わせだと思う」

「私と貴方だけの時間」と、誰かが囁いた瞬間、古びた街並みが並んでいた。

 ・・・家内工業が発達しているのか、家内工業に依って生きざるを得ないのか、大阪の片隅にあって日本経済の原点のような場所だった。地道な作業が毎日続けられ日々が忘れ去られる。仕事が終われば銭湯に行き一風呂浴びる。冷えたビールを飲みながらテレビを見ている。何処の街にもそんな風景がある。一日の疲れを家族が癒し、小さな家庭を守ることで穏やかな日常を送る。

「貴方、やっと来てくれたのね。何処を彷徨いていたの?」

「俺は一人で生きようとしていた」

「そうね」

「東京に帰らなくてはならない」

「勝手にどうぞ」

「真面目なんだ俺は」と、足掻いている傍らに【墓地分譲中・死後はお任せ下さい】と言う看板が立っていた。死んだ後も骨を埋める為に土地と葬儀が必要である。死後のことを考えなくては生きることが出来ない。死ぬ前に墓地を、墓石を買い、死ぬ準備する。

「縁切れよ」と女が言った瞬間、バスに乗っていた。しかし何処を走っているのか分からない。路地裏に入ると都会の夕方であるにも関わらず人の姿を見掛けなくなる。

「俺は三鷹駅を下りてバスに乗った」

「そう言う嘘は通じない」

「俺にも未来が有って良い筈だ」

「死人に必要なのは棺桶さ」

「棺桶だって」

「深昏睡、瞳孔散大、脳幹反射の消失、脳波の平坦化、自発呼吸停止」終わりだな、と声がした。

「終わりだって」

「人工呼吸器、スイッチオフです」

「外は冬の霧だね」

 

                                                             了