百醜千拙草

何とかやっています

大善は非情に似たり

2017-11-21 | Weblog
うーんと考えさせらた稲盛和夫さんの言葉。研究で若い人と仕事上のつながりを持つようになってから、稲盛和夫さんの京セラ誕生時の話を知り、随分と考えさせらると同時に勇気付けられました。偉人の言葉には、人を問わず感動させるものがあります。

大善は非情に似たり。

優しい情愛に満ちた人であると同時に、すさまじい厳しさを兼ね備えた人でなかったら、社長なんて器は務まりはしません。どんな小さい会社でもそうです。

つまり、同一人物が両極端の考え方をあわせもち、そしてそれが同時に正常に機能できる能力を持った人でなければ経営者は務まらないと思います。ただ優しいばかりの社長では、経営になりませんし、厳しい一方の人では誰もついてきやしません。その両方が綾織りのように出てくる人でなければ、経営者なんてできやしません。

私は、いつも善の大切さを説いています。
人間らしい優しい、いい生き方をしなきゃいけませんよと、いつも私が説く考え方に、みなさんは賛同しておられ、それを自ら実践されているはずです。

そのような優しい、すばらしい経営者の方が、この不況で会社が赤字に転落をしそうなとき、「経費を減らせ」と言って、もう鬼みたいになってやり出すことがあります。そうすると周りは、「いつもあの優しかった社長とは違うやないか。二重人格みたいなものやないか」と言い出す。でも、私はそれでいいと思います。

会社が厳しい状況になったら、鬼みたいな形相で、厳しいことを一直線になさねばならないのです。
逆に問題なのは、嫌われるのがいやで耐えられないから、お茶を濁し、妥協し出すことです。

善を説き、人の優しさを説き、それで人の喜びが自分の喜びに、人の悲しみが自分の悲しみに感じられるような人こそが、経営者にふさわしいということと、私が必要だと思う厳しさとは、考え方のベースが一緒なのです。

これは仏教の教えである、「小善は大悪に似たり」「大善は非情に似たり」ということから説明ができます。

「ええわ、ええわ」といって、猫なで声で従業員をかわいがるという小善は、みんなを甘やかし、経費は増大し、不況にひとたまりもないぐらいに脆弱な企業体質をつくってしまいます。そして実際に不況になり、会社をつぶして100人の従業員を路頭に迷わしてしまうのです。

次に大善。
大きな善というのは、非常に似て厳しいのです。獅子は我が子を千尋(せんじん)の谷に突き落とす。しかしじつはそれが、子どもの成長には大いに役立つ大善、大きな善なのです。「俺が今やっているこの厳しさは、大善をなす行為だ」と自信を持つようにする。「それは凡人から見たら非情に見えるかもしれないが、これは大きな善なのだ」と思えば、ひるまないわけです。
、、、
私はみなさんを救うために、あえて厳しいことを言います。それこそが大善というものです。


過去の数年間、私も、人間関係を壊さないために、スジを通さずに、妥協して、問題を見て見ぬふりをしていたことを実感しました。自分がフォローすれば済むことだと甘く考えていました。結局、それはプロジェクトの進行を妨げ、私にとっても、本人にとってもマイナスの結果をもたらしました。自覚して態度を改めてくれることを期待して、厳しく対峙することを避けたために、結局、本人は成長せず、プロジェクトは進まず、私はその後始末に苦労することになりました。

そのことは、実は、別の研究室の人からもアドバイスされていたのでした。言うべきことはきっちり言わねばならない、そして使いものにならないとわかったら、サッサと切らなければならない。そういう人を抱えたまま生きのこれるほど、甘くないのだと。本人の成長は自己責任であり、言われずとも努力を継続できないようでは見込みはない、と。頭ではわかっているつもりだったのですけど、身にしみて理解していたわけではなかったのでした。

現実を厳しく見て、甘い期待を抱かないことを徹底することを実践するのはなかなか容易ではないと実感しました。
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