百醜千拙草

何とかやっています

パルティータ2 プロジェクト

2023-07-25 | Weblog
いつの間にかウィンブルドンも祇園祭も終わっていて、梅雨まで明けてました。ツイッターのロゴも変わってしまい、あのロゴを見るたびにイーロンマスクの顔を思い出して不愉快になるのでもうツイッターはやめようと思います。私と言えば、同じような日々の繰り返しです。毎日、少しずつやっているフランス語とピアノの進捗は極めて遅く、おそらく来年の夏も同じような調子であろうことが想像できます。

ピアノは諸事情でカシオのプリヴィアという電子ピアノを使っております。ヤマハの電子ピアノかローランドのステージピアノと思っていましたが、この価格帯のヤマハの評判はあまり良くなく、ローランドはちょっと予算オーバーということで、比較的評判のよいカシオ製品に落ち着きました。弾きやすく、コンパクト、音もそれなりで練習にはいいです。電子ピアノ鍵盤の方が弾きやすいと感じますけど、本物の木製鍵盤のアコースティックのピアノとはそのタッチの質感と音のレスポンスに大きな差があります。やはり「生」がいいです。

練習しているのは、バッハのパルティータの2番。パルティータの2番と言えば、シャコンヌのおかげでどちらかというとバイオリン独奏組曲の方が有名かも知れませんが、鍵盤組曲の方でも2番がもっとも人気があるのではないかと思います。昔のビデオで、マルタ アルゲリッチがアンコール曲としてこの組曲の最後のカプリッチオを超高速で弾いているのを見たのがきっかけで、死ぬまでにこれを弾けるようになる、という壮大なる私のパルティータ 2 プロジェクトが約7年前に始まりました。このプロジェクトは数度の挫折を経て、中断していましたが、最近、老化防止の一環として再び取り組み始めました。我流ですし、ちょっと弾かないだけで全く弾けなくなるので、また0に近いところからのやり直しです。この1ヶ月ほどは、組曲の最初の曲、Sinfoniaを主にやっています。Sinfoniaは多分この組曲の中で一番難しい部分と思われ、前回、浚った時も6曲の中で最後に回して、結局、満足に弾けぬまま挫折しました。今回も前よりはかなりマシですがなかなか満足のいくレベルには達しません。Sinforniaは三部構成になっていて、最後の部分が最も難しいのですが、ここは基本的に2声の対位法で書かれているので、多分、きっちりトレーニングを受けてインベンションをいくつかやった人なら小学生でも普通に弾けるのだろうと思いますけど、私は自己流なので、5つの指を同じような強さで同じような間隔で動かすということがなかなかできません。速く弾くと間違えるし、ゆっくり弾くと音のテンポと粒が揃っていないのが丸見えになり大変みっともないです。

できない理由を自分なりに分析して考えてみました。解剖学的な問題なのでしょうが、やはり薬指の弱さが最大の弱点ではないかと感じました。それで薬指で弾く音をくっきり出すために薬指の指立て伏せみたいなトレーニングをしたり、薬指だけを独立して動かすような練習をしたりして薬指を強くしようとしました。しかし、ほとんど効果なし。

そして、あるときふと気づきました。解剖学的に無理があることをトレーニングでできるようにしようという考えが間違っているのだと。根性と努力であり得ないような魔球を生み出す昔の野球漫画ではあるまいし、科学的に無理なものを根性や努力で克服しようと思うのは、竹槍でB29を撃ち落とそうとするようなものであり、現在で言えば、中国と戦争をして勝とうとするようなものです。つまり、そもそも薬指は弱いのが自然であって、それは女性のお尻は丸く、猿のお尻が赤いのと同じなのだと。然るに、無理矢理に女性のお尻を四角くしようとしたり、猿のお尻を白くしようとしたりすることは正しいことであるはずがないと悟ったのです。私がやるべきは、その弱い薬指の「弱さ」をまず受け入れて、弱い薬指のままで思うような音が出る工夫を考えることだ、と理解したのです。三本指で超絶ジプシーギターを弾くジャンゴ ラインハルトの例もある、使えない部分を無理に使えるようにしようとするのではなく、使える部分を最大限に活かすことで全体をより良くしていくことができるはずではないかと思い至りました。

それで、弱い薬指に無理に力を入れるのではなく、強く弾く必要がある時は腕と手を少し上げて、その重力を利用することにしました。これによって無理なく打鍵が強まる上にリズム感も生まれるようになり指の連携も向上したのです。すなわち、薬指が弱いことをあたかも「欠点」であると捉えて、それを矯正しようとすることをやめて、薬指が弱いことはその指の「個性」であると受け入れ、十分でない部分があるならば、全体がサポートすればよいのだ、と気づいたのでした。

この考えを拡大すると、障害者であったり性的マイノリティーであったりする人々に対する我々の態度がどうあるべきかにも思いが至ります。障がいやマイノリティーであることはそれらの人々の固有の個性であって、矯正や忌諱の対象となる弱点や欠点ではなく、社会がすべきことは、彼らのその個性を受け入れ、そして彼らが十分に活躍できるようにサポートしてくことであると。障がい者が弱点だと思うのは、そうでない人々にとって具体的な目標を達成するのに有利でないと考えるからだと。自分だけ、今だけ、金だけが大事の資本主義の世の中で、目先の金儲けや自分の得にならない存在は欠点であり邪魔であると思うことが短絡的すぎるのです。なぜなら、目の前にいて邪魔者扱いされる障がい者は明日の自分かもしれず、邪険に扱われる老人は数十年後の自分自身です。今の自分だけが良い社会は、明日のそして数十年後の自分には住みにくい所であります。ま、そんなことを、私は自分の薬指を見ながら思ったわけであります。

さて、最初はマルタ アルゲリッチのダイナミックな演奏が気に入ってこの曲をやろうと思ったのですが、アルゲリッチは天才ですから彼女のように弾ける人はそうそういません。その後、何人かの演奏家の演奏を聞いた結果、私にはグールドのような演奏がしっくりするように思いました。アルゲリッチの天才芸術家的演奏もいいですけど、大工職人が一ミリの狂いもなくレンガを積んだ最後に完全な全体が完成するようなグールドの演奏が私の好みです。緻密な建造物のように書かれたバッハの曲に合っているように感じます。

グールドはSinfoniaの最後の部分を下のように弾いています。

ちなみに派手目の演奏が魅力のValentina Lisitsaはやや高速で抑揚をつけて弾いていて、これもなかなか表情豊かでいいです。

ゆったりめでとてもバランスがよいMurry Perahiaの演奏。私が目指すのはこういう演奏ですね。

つづきはまた次回にでも。


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平等と公平 (II)

2023-07-18 | Weblog
前々回、アメリカのAffirmative actionについての最高裁の判断を聞いて、思ったことを書こうをしましたが、本題に入る前に長くなって途中で終わっていました。今回はその続きを少し。本題は、日本の消費税とインボイス制度の不公平性です。

消費税は消費される物品にかけられて消費者が「平等に」負担するから「公平」だ、と主張する人々がおります。本当にそうでしょうか?
まず、消費税は消費者が一部を負担することにはなりますが、消費者が支払う税ではありません。消費税は事業者の売上げにかけられる直接税であって、故に、第二法人税とも呼ばれております。消費税は売上税分を価格の一部として消費者に負担してもらうという性質のものに過ぎません。つまり、消費税込みの値段がその商品の「価格」であって、消費者は消費税を物品などの価格とは別に支払っているわけではありませんし、支払いのうちの消費税分が別会計になっているわけでもありません。ですので、「消費税は『預かり税』だから、消費税を預かった免税事業者が消費税を納めないのはおかしい」などと平然とTVなどで言う元弁護士くずれのペテン師もおりますが、それはウソです。

消費税のプロトタイプは中曽根政権時の「売上税」です。売上に対してかける税金で、この法案は事業者が反対して廃案になりました。それと中身は同じなのに、名前だけ変えてだしてきたのが「消費税」です。あたかも消費者が税を負担するかのような印象操作をし、加えて売上3000万円以下の小規模事業者は免税事業者となるので消費税分が利益になると言って事業者を納得させて導入しました。そして、いつもの自民党。知らぬ間に消費税税率は3%であったものが10%となり、免税業者は売上3000万円であったものが1000万円以下と再定義され、挙句に今回は、インボイス制度の導入です。この制度によって、売上に関わらず小規模事業者も免罪業者を辞めて消費税を払うか、それが嫌なら名税業者との取引から排除されるか、どちらかを選べと言ってきたわけです。入口では甘い言葉で誘うが、中に一旦入ればやりたい放題、ぼったくりバーなみの詐欺です。しかも、あたかも、消費税は消費者が支払う税であるかのような印象操作を行い、消費税の仕組みをよくわかっていない一般国民を騙し、ペテン師にTVでウソを言わせて、免税業者を叩かせる悪質ぶり。

税金の役割は複数ありますが、そのうちの一つは「富の再配分」と呼ばれていますが、その目的は「格差の是正」です。すなわち、あるところから取って、足りないところからは取らない、そして税収を財源の一部として予算を組み、足りないところに金を回すことです。しかるに、消費税は足りないところからも取る上に、弱者ほどその相対的負担を大きくして、格差を広げます。すなわち、本来の税の目的に反する税です。これが消費税が悪税と呼ばれる理由の一つであります。生活の苦しい人々からも否応なく徴税する消費税は「公平」ではないと言えるでしょう。

この消費税の逆進性、つまり可処分資産や所得の少ない人ほど相対的に負担が大きくなるという性質は、これまでも強く批判されてきたし、それゆえに消費税を導入している海外の国でも、すべての人々が消費する食品や日常必需品は無税もしくは低率の税しかかけられていないのが普通です。日本でも昔は「贅沢税」と呼ばれて高額な贅沢品だけにかけられる税でした。にもかかわらず、そうした先進国の税制に倣うことをせず、頑なに弱者への負担を増やす政策を継続し、国内消費を冷え込ませ、地盤沈下を促進し格差を拡大した挙句、「経済政策の失敗で先進国で唯一貧しくなった没落国」と呼ばれるような悲惨な状態に日本を陥れたのが自民党であります。

海外の先進国ではやらないような、明らかに「誤った経済政策」を続け意図的に弱者いじめを続けて国を破壊してきたのは、利権でしか動かない自民党の病理体質のせいでしょう。なぜ自民党は弱者いじめをし、強者に阿るのか。それは「票」以外にありません。強者は組織されておりまとまったの票をもつ一方、弱者である一般国民は分断されており、票の半分を捨てています。組織票を握った方が勝ちとなる小選挙区制度では、一般国民である弱者をいじめて強者にいい顔をする方が自民党の得になります。そして、弱者をいじめて得をするのは弱者を利用して金儲けをしている連中(つまり、資本家やカルト宗教団体などの強者)ということになります。

反省とか、恥という言葉を知らず、目先の金と力の匂いのする所に群がる大腸菌のような自民党が、さらなる弱者いじめとして導入するのがインボイス制度です。インボイス制度とは弱者に対する増税であり、事業妨害であり、「弱いものいじめ」そのものが目的とも言える悪質なものです。インボイス制度によって得られる消費税増収分は1%程度のわずかなものに過ぎないのに、これによって数百万という小規模事業者が廃業に追い込まれると考えられています。ゼロゼロ融資の返済がスタートしたためか、すでに小規模事業者の倒産件数はうなぎ上り、これにインボイス制が始まると、日本の中小零細企業は悲惨なことになるでしょう。そうして、街や田舎の小規模産業を根こそぎぶっ倒していって誰が得をするのでしょうか。それは地域の豊かな多様性を踏み潰して、小規模事業が潰れて浮き出した労働力を安く買い叩き、合理化され画一された商業モデルに置き換えて地域産業を独占する大企業でしょう。つまり、一部の金と権力をもつ支配者と大多数の持たざる被支配者からなる格差の社会、それを自民党と経団連企業は目指しているのだろうと思います。

さて、逆進性が強い税金で収入や資産の少ない人ほど負担が大きくなる「不公平」きわまりない税が消費税ですが、消費税は、雇用を不安定にし賃金を下げるというメカニズムを通じても、社会の貧困化や少子化を促進します。消費税は消費者ではなく事業者に納税義務がある事業者税であり売上から仕入れ値を引いた額にかけられる情け容赦のない税です。その差額のほとんどが人件費となって消えていきますから、事業者は、利益確保のために人件費を節約しようとします。そのために、正規雇用者を減らし、不足分をパートやアルバイトで賄うことになります。正規職は減り、非正規のパートタイムに置き換わる中で国民はますます貧乏となり、結婚したり子供を持ったりすることをあきらめていきます。

そもそも、弱い事業者と強い事業者に同率の消費税を背負わせるのは「不公平」であるという当然の認識が消費税導入時にはあって免税業者というものが設定されました。インボイス制によって、これらの弱い中小の事業者は潰されていき、日本の中小の町工場が持っている世界トップクラスのさまざまの技術や、現代日本の象徴でもある日本のアニメーション産業や伝統文化を支えているアニメーターやフリーランスは廃業を選び、そして技術も文化も日本から失われて、日本は、大企業とそこで働くロボットのような低賃金労働者からなる消費物を生み出すだけのただの無味乾燥な巨大工場になっていくのでしょう。
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自民党とかツイッターとか

2023-07-11 | Weblog
安倍氏殺害から一年経ちました。しかし、自民党は何もかわりません。あいかわらず統一教会の壺議員がシレッと次の選挙の公認として発表され、自民党の改憲集会にいまだに統一教会が賛助しており、いつまでたっても統一教会の解散命令は発令されず、山上被告の公判は延々と延期されつづけています。自民党、相手が日本を喰い物にしようとする反日カルトであろうが「黒い猫」であろうが票をくれる組織が良い組織。ウラでコソコソやりながら、国民が忘れてくれるのを待っているのでしょうな。自民党というのはそういう組織です。ま、票さえくれれば何でもするのは公明党も維新も立民の一部も同じですが。

その安倍氏殺害の当日に安倍政治団体が「私人」であるはずの昭恵氏に引き継がれ、多額の税を免れていたことも最近明らかになりました。銃撃された本人よりも、その本人に付いている金と権力の確保がとにかく第一、といういつもの自民党。しかし、ここまで国民をバカにした対応を自民党が取るようになったのもアベ政権以来ですけど、ま、見苦しいですな。欲にまみれて無間地獄で蠢く餓鬼の集まりを見るようです。目先の金と力だけのために、人々を裏切り、ウソをつき、その悪行を知る者からは軽蔑され、ただ一度の人生を醜く過ごして死んでいくのを虚しく感じないのでしょうかね。思うに、淺ましさでは人には負けないというような者だけが残った結果が自民党なのでしょうけど。

さて、もう一つのニュースはツイッター。イーロン マスクに嫌気が差して第一次ツイッター脱出運動が起きたのが数ヶ月前。アカデミアでは、ツイッターにかわるプラットフォームとしてマストドンに移った人がそこそこいましたが、結局、ツイッターの地位は揺るがず、ツイッターは情報共有ツールの主要プラットフォームであり続けました。そして、先日、マスクがクビを切った旧ツイッター従業員を取り込んで、Metaがツイッターもどき、Threads、のサービスを開始しました。インスタグラムとリンクしたThreadsはサービス開始から急激にユーザー登録数を増やし、その爆発的な勢いのThreadsはツイッターにとってはThreatであったようで、マスクは法的に対処すると威嚇。

結局、ツイッターもMetaも目指すところは金儲けですけど、マスクのようにそのあたりがあからさまであると、ユーザーに嫌われます。Threadsが今後、ツイッターに変わる情報交換の場になるかどうかは微妙なところですが、十分、ツイッター並みに強力なプラットフォームには成長するでしょう。将来的には、ビジュアル系情報を主にやり取りする人はThreads、文字情報やニュースはツイッターと棲み分けが起こるのかも知れません。私もちょっと試してみましたが、使い勝手はツイッターと大差ない感じ、とりあえず、ニュースサイトをフォローしようと探したら、BBCとCNNが見つかりました。いくつかの教育機関、学術専門誌もすでにアカウントが見つかったのでフォローしました。
ちなみに、ツイッターは(まだ?)Threadsのアカウントを持っていないようです。
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平等と公平 (I)

2023-07-04 | Weblog
アメリカの大学では従来から黒人やヒスパニック、ネイティブ アメリカンの学生数を確保するための優遇措置が行われておりますが、先週末、こういった措置が「法の下の平等」を謳う合衆国憲法に違反しているとの訴えを認める判決がありました。またアメリカの私立大学の入学に関しては、こうしたマイノリティー優遇政策の逆ともいえる「家柄」の良さなどを考慮する優遇措置もあります。レガシーと言われますが、アイビーリーグなどの東部エリート校では昔から公然行われているエコ贔屓ます。ちなみに、今朝のTwitterをみたら、下の様なツイートがありました。

さて、日本でもアメリカでも、人種に限らず性、教育、社会地位、経済レベル。さまざまに差別があります。そういう社会で自由競争をさせれば、強者と弱者間の差、金持ちと貧乏人との格差は開く一方になります。生まれながらに子供の教育に価値を認めないような地域、教育を受けたくても金がないという家庭に生まれ育った子供は、そうした環境から抜け出ることができず、格差は固定化し拡大し、極端な富や権力の偏在を引き起こし、現在のような格差社会に至ります。格差の拡大は国民の権利を保障する民主主義国家にとっての脅威であります。一つの国において格差が広がり、国民が持てるものと持たざるものとの間で分断されるのは為政者にとって好ましくないことであり、とくにアメリカのような国では、「多様である」ことと「国家としての纏り」を保つことを両立させていくのは重要な政治的課題です。

バイデンはこの判決に異を唱え、(黒人、ヒスパニック人種の学生が一流大学に一定数含まれることを目的とする制度を通じて)多様性を保つことはこの国の最大の強みである、というようなコメントを出しました。

二大政党制のアメリカで、現在の最高裁所判事は9名中6名が共和党大統領による任命で、3名は民主党大統領による任命ですので、最高裁ではバイデン政策に不利な判決になりがちなのかも知れません。ちなみに、この判決の直後、バイデンの公約の目玉政策の一つであった奨学金返済免除に関する裁判では最高裁判所が6-3で認めないという判決に至りました。

バイデンの民主党では、黒人、ヒスパニック系、都会生活者は大きな支持基盤となっていますから、民主党にとって黒人やヒスパニックの権利が縮小することは望ましくはなく、バイデンの言明も半分は政治的動機からでたものでしょう。ところで、「多様性」は強みであるというのは、思うに、これは生物学的な観察からの推測であって、人間社会で人種的多様性が「強み」であるかどうかはわからないと思います。しかし、アメリカの様な社会で「多様性」を許容しないことは弱みになることは容易に想像できます。日本でも同じだと思います。多様性の許容なしに民主主義国家は成り立ちません。

さて、こうしたAffirmative actionは男女の格差、人種間の格差を是正する目的で導入される特定の属性の人に対する優遇政策ですから、その優遇政策を受けれない者から見れば不公平と思うのは当然であって、その不公平の根拠を憲法の「法のもとでの平等」に求めるのも理解できます。黒人というだけで大学入学で特別扱いするのは不公平だと白人が言うのをもっともだと思う人も多いでしょう。しかし、それは白人であるというだけで得ている数々の特別扱いを無意識または意図的に無視していると言わざるを得ません。

突き詰めていけば、「平等」とは何か、どう言う条件を満たせば「平等」と言えるのか、そしてそもそも「平等」という概念を人々は同じように理解しているのか、という問題があると思います。「公平」、「不公平」といった概念にも同様に恣意的解釈の余地があるでしょう。また、今回の判決の根拠になっている「法の下の平等」という条文も、立ち位置の違いによっては解釈は180度変わりうると思います。

人間ですから、特定の人種や性に生まれ、容姿や頭脳に恵まれる場合もあれば残念な場合もあります。障害をもって生まれた人もいれば、生まれつき何かに秀でたような人もいます。親の名前と地盤を引き継いで国会議員になって国民を不幸にする世襲のボンクラ議員もいれば、学業に励み身を律して国民につくそうと公務員になったのに、そのボンクラの悪行の尻拭いをさせられて自殺に追い込まれた人もおります。そう思えば、生まれた瞬間から人間は基本的に不平等です。この生まれながらの不平等はどうしようもないです。ですから、生まれつき不平等は不問にして、平等を目指すのでは矛盾は避けられません。言葉遊びのようですけど、「平等」ではなくどちらかと言えば「公平さ」を議論する方がまだ良いかも知れません。この法案に反対した人おそらく黒人でもヒスパニックでもない人で、そのために大学入学の優遇措置を受けれないのが「不公平」だと思っているのだと思います。しかし、彼らが黒人やヒスパニックでないことから得てきた数々のメリットは都合よく無視しています。それは「公平」なのでしょうか?

男女がスポーツで競うとした場合、同じ条件で(例えばテニスの)試合をさせるのは平等かも知れないですが、公平ではないでしょう。何らかのハンデが必要です。職場でもそうです。女性やマイノリティー特有の問題を考慮することは不平等ではなく公平さを目指すことです。Affirmative actionは「公平さ」という概念で社会格差を是正していこうという措置だと思います。しかるに、公平さという観点を無視して、どんな背景にあっても同じ条件を一律に課しているから「平等」で問題がない、と平気で言えるのが新自由主義者であり強者の理論だと私は思います。

さて、ここまではマクラで、本題に入ろうと思っていましたが、もうすでに随分、長くなっていますので、続きは次の機会にします。
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