百醜千拙草

何とかやっています

研究Quadrant

2022-11-29 | Weblog
RNA-seqは実験生物学では、ほぼルーチンと言って良いほどの実験手技となりました。その生データのpipeline解析は大抵、コア施設なり委託業者が行い、研究者の方は、Fastq fileかSpread sheet フォーマットまでプロセスしたデータから解析を進めるのが普通だと思います。しかし、Spread sheetのデータでさえ、ontology 解析やクラスタリングなどを行って、それなりの図表を作るのは実験生物学者にとっては厄介です。多くは「R」などでのパッケージを使ってコマンドラインでやることになると思いますけど、これも普段 R やPythonなどを日常的に触っていない人間にとっては簡単ではありません。

私もRNA-seqのデータ解析と図表の作成が一つ残っており、データのontology解析などを含む図表化に関しては業者のGenericな解析ソフトで作った図を使うつもりでした。しかし、これは便利ではあるのですけど、やはり出来合いのソフトにおまかせでは隔靴掻痒というか、思い描いたような図表を作れないし、微妙な調整(フォントのサイズであったりとか図の色や見やすさとか)ができず困っておりました。

そこへ、ツイッターで流れてきたpreprintで素人がGUI環境でできるRNA-seq解析ソフト開発のpreprint 論文が目に留まりました。ウェッブサイトもなかなか力が入っております。科学コミュニティーに貢献し人々の役に立とうとする善意の努力を感じます。発表から数日ですが、この論文はすでに900以上ツイートされています。

こうした努力には正直に頭が下がります。研究コミュニティーの人々の利便に貢献したいという意志を感じます。

研究活動での知見が直接、周囲の人々を幸せにすることは稀です。特に基礎研究はそうです。それでも誠実に実験を行って得た知識の一片を知識の大海に加えることによって人類の知に貢献すること尊いことだと私は思っております。仮にその努力が報われなくても、何らかの発見を行ったことに研究者自身が何らかの満足感を覚えるのであれば意義のあることです。このRNA-seq解析ソフトの開発のように、開発チームも研究コミュニティーも自他ともに利益につながる仕事というのは、最良の研究です。

一方で、研究コミュニティーの不利益には無頓着で自分の利益になりさえすればよいというタイプの研究者もおります。怪しげな低品質の論文を量産し、論文数だけ稼げばそれでいいというタイプの人です。悪貨は良貨を駆逐するの例えもありますから、低品質の論文というのはできるだけ投稿しないでもらいたいと思います。出版システムやピアレビューのリソースを無駄にするばかりでなく、怪しい論文が出版されることそのものが有害ですから。

最悪の研究は、捏造論文でしょう。マイナスしかありません。大体ハイインパクトな研究であれば、捏造はまずいつかバレます。日本でも自殺者まで出したスキャンダルが八年前にありました。結局、幸せになった人は一人もおらず、人類の知に何の貢献をすることもありませんでした。

正直で誠実であることは、幸せになるためにまずは遵守すべきルールであり、コミュニティーや社会の人々に対する善意は最終的な成功(単に金とか地位という意味ではなく)の秘訣であろうと感じます。
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暇つぶしQuadrant

2022-11-25 | Weblog
「人生は死ぬ時までの暇潰し」という山本夏彦さんの言葉や「人間から気晴らしを除いたら不安と倦怠のみである」というパスカルの言葉について何度か書きましたが、最近、あらためてこのことを考えなおしております。

「暇潰し」や「気晴らし」という言葉に含まれる多少、ネガティブで厭世的な雰囲気には好き嫌いがあると思いますけど、人間のやることはその程度のことだと思っている方が、私の精神衛生にはいいと思っております。諸行無常を実感する年になり、子供もほぼ手を離れ、仕事からも半分引退、没頭するほどの趣味もなく、大して親しい友人も親類もいなくなっていく、という状況に入りつつありますから、今後、どう日々をすごすかは具体的に考えるだけでも考えておいたほうがいいのではないかな、と感じ始めました。「暇が潰れてよかった」、「倦怠や不安を感じることがなくてよかった」と思えるようにするにはどうすればよいのか、具体的にどんな暇つぶしをするのかということです。

「仕事」というのは、それが苦痛でなければ最高の暇つぶし、気晴しだと思います。この数十年、暇潰しをしながら、メシが食えて家族を養っていけたことは、私にとっては非常なる幸運であったと感謝の念に耐えません。世の中には大勢の人が食っていかねばならぬが故にやりたくない仕事をしている人や、働きたくても働けない境遇にいる人、働いても食っていけないような人が少なくないことを思うと、これまで自分が受けてきた幸運に対して今後は何らかのお返し的なことをしながら暇が潰せたら素晴らしいなどと考え始めました。

「暇潰し」には、自民党議員と統一教会との関係に濃淡があるように、その質にはグラデーションがあると思います。つまり、最上の暇潰し、中ぐらいの暇潰し、悪い暇潰し、最悪の暇潰しといった具合。私が思う最上の暇潰しは、人が喜んでくれて自分も満足する暇潰し。そして、中は自分だけが幸せになる暇潰し、悪い暇潰しは自分は幸せになるが自分と関わる他の人々が不幸になる暇潰し、それから、他人は幸せになるが自分が不幸になる暇潰し、最悪なのは他人を不幸にした上に自分も不幸になる暇潰し。多分、この暇潰しのグレード分類には多くの人が賛同してくれると思います。私はこれをTask Quadrantならぬ、暇潰しQuadrantと呼びたいと思います。Task Quadrantにおいては緊急性と重要度によって仕事を4区分に分け、その中で第2 Quadrant、すなわち緊急性は低いが重要な仕事、に意識的に時間を振り分けよと教えられます。つまり重要性は緊急性より上位に置けということですが、暇潰しQuadrantにおいても「自分の幸福」は「他人の幸福」よりも優先されるべきだと私は思います。人が幸せになっても自分が不幸であるならば、本末転倒だと思います。(世の中には我が身の不幸に快感を覚えるM体質の人が少なからずおりますので、そうした人の不幸は不幸とは考えないとします)

この自分と他人、幸と不幸によって物事を区分する方法は、暇つぶし行為の区分以外にも広く使えるのではないかと思います。例えば、消費税への賛否。消費税を考える時に、それが自分にとって良いのか悪いのか、自分以外の人々にとって良いのか悪いのか、単純に分類してみればいいと思います。私にとっては消費税は最悪のQuadrantに入っています。財務省は、消費税増税しないと国家が破綻するとか円安がすすむとか、社会保障費が不足するとか、言ってますけど、とりあえずそういったものは全て度外視して、自分と自分の身の回りの人間の幸福によって自分自身で判断し態度を決めてていくのがシンプルではないかと思います。その総意が民意であるべきだし、民意が不幸な結果につながったのなら、新たに民意にそって改めればよい、と私は思います。民意が誤るのは世の常で、誤れば正せばよいし、誤ったと思ったら、何かを学ぶ機会を得たと考えればよいです。それが無理でも、しばしの間、暇を潰せて倦怠を感じずに済んだと思うことは可能ではないでしょうか。
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理論と実際

2022-11-22 | Weblog
論文リバイス、ぼちぼちやってますが、モチベーションがわかず牛の歩み。データをとってくれた人は急病で入院中、頼る人もいないので自分でデータを掘り起こし、解析をやり直したりしています。

今回のリバイス上での問題は、論文の統計の部分をレビューした統計専門家に実験生物学研究の理解が乏しいそうなことです。多分、臨床研究とかpopulation geneticsとかでの「考え方」を実験生物学にそのまま当てはめてしまっているのでしょう。しかし、言っていることは間違っている訳ではないので厄介なのです。

統計を行う目的というのは研究や実験の内容によって異なりますから、目的や背景を無視して手法の厳密や原則の正しさにこだわるのは、例えてみれば「手術は完璧だったが患者は死んだ」みたいな状況に多少近い、と言えばいいでしょうか。とはいえ、結果オーライなら手段は問わない、意味が乏しいなら適当でいい、というのでは科学ではありませんから、厳密さを求める態度を批判することはできません。単に、異なる研究分野では、それぞれの「常識」の程度と範囲は違うので、今回のこの統計学者からの批判や提案は、我々の分野では非常識と思われる部分が多いということです。

とはいうものの相手はレビューアという権力的立場にあるわけですから、機嫌を損ねないように対応せざるを得ません。それで、こちらも実験生物学研究の実際をよく理解している経験ある統計の専門家と相談してきました。

感じたのは、厳密な数字の世界だと思った統計学の分野でも、数字をどのように処理するかは研究の内容や手法や目標をどう解釈するかによってかなりの柔軟性があるらしいということでした。また適用するのが理論的におかしい統計手法でも有用である場合は使用が黙認されているということでした。統計というのも何事かを評価するために人間が作り出した一つのツールに過ぎず、法律にグレーゾーンがあるように、現実社会では、理論と実際との妥協点を見つけて折り合いをつける必要から、恣意的な解釈がある程度許される部分が残されているのだろう、と思いました。

とういうわけで、今回は、下手に出つつも、「経験のある統計学者の人に相談した上でリバイスを行った」という事実をまず強調してから、反駁文を書くつもりです。ふつう、思考に柔軟性がない人ほど、権威に弱いですから、もしこのレビューアが経験不足からくる石頭なら、これでなんとかなるでしょう。それでもダメなら、エディターに直訴すればいいかなと思っています。エディターに常識があれば、度をすぎたコメントは抑えてくれるでしょうし。

おかげで統計の専門家と色々話ができて多少は統計の現場の実際面を学んだのは良かったです。実験生物学をやっている人も実験を計画する時に統計の専門家と話をしてみるのは大変有意義だと思います。数字の扱い方に自信が持てると思います。
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Twitter > Twitter 2.0 > Mastodon ?

2022-11-18 | Weblog
なかなかモチベーションがわかずに困っている例のリバイスの作業をしている論文ですけど、Preprintを読んでくれた人がいたようで、メールをもらいました。同じような研究をやっているので共同研究して欲しいという話でした。あいにく私は撤収モードに入っているので期待に沿えず。そもそもゴミ箱に捨てようと思っていたプロジェクトですから、preprintに出したデータを誰かが見てくれて何かの参考になったのならよかったと喜んでいます。

そのBioRxivにはフィードバック機能がついていてメディアに取り上げられたりするとわかるようになっていて、その一つがTwitterによるツイートです。私もTwitterを情報収集のツールとして使ってきました。研究の分野で研究成果のインパクトを示す指標の一つとして論文のツイート回数は、よく使われる指標となりました。これで私の論文にしても世間では何がウケて何がウケないかというのがわかります。ウケるウケないは論文の質よりは、その研究テーマに関心のある人の総数に比例しているらしいということがよくわかります。今年、パッとした結果が出なかったのでやむなく、Q2の専門雑誌に出したものは、他のQ1ジャーナルに出した論文もよりもツイート回数は多かったのですが、それは研究の結果よりもそのアイデアと研究手法により多くの人が興味を持ってくれたせいだろうと想像しています。

Twitterの強力な点は、ほぼ瞬時にしてその研究のインパクトの大きさが可視化でき、しかも相互通行性があるということで、研究者と研究コミュニケーションにとってはもはや欠かせないツールになっていたのですが、この数週間、人々はTwitterを使い続けるか、別のプラットフォームに移行するかという選択を考え始めました。もちろん、Elon Muskのせいです。

そして、ここにきて、彼が二日前に、従業員に送ったブラック企業独裁宣言メール("Hardcore" mail)によって、従業員のみならず世界中の心ある人々がTwitterに見切りをつけようとしているような感じさえあります。

Twitterの情報収集ツールとしての便利さは変え難いものがあります。しかし、上から目線で僭越ですけど、今回のメールでのElonの人間性というかトランプ臭とでもいうのが、あまりにちょっとアレなので、私も今後Twitterが嫌になった場合にどうするか考え始めました。

研究者コミュニティーではMastodonというプラットフォーム選ぶ人が多いという話題がしばらく前にNatureとSicenceのフロントページで取り上げられたようですが、私は知らなかったので、探ってみようと思っています。ま、当面はElonの慌てぶりがTwitterから伝わってくるので、それを見て暇潰ししたいと思っています。

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批判する能力

2022-11-16 | Weblog
先日、十年ほど前から起業した某大学の研究者だった人が知り合いの知り合いという絡みでやってきてくれました。数年前に大学も辞めて自分の会社に専念しているとのこと。私と同年代ながら、そのバイタリティには敬服の限りです。こちらはこのまま研究から足を洗って隠居生活へ摺り足で向かおうとしている状況ですから。

会社のウリにしている技術の性質上、大学の施設でさえもできない研究なのに色々な別業種の人の協力を募り、研究を軌道に乗せてきたとの話。ただただ、尊敬します。ビジネス面でも大変なはずで、人も雇っているし、かなり運営資金もかかっていると思ったら、自己資金と奥さんのビジネスでの利益、それからエンジェルの投資金を会社に注ぎ込んでいるという話。むしろ奥さんの方がノリがよくて、「私が稼いでくるからアンタは夢を追いかけなさい」というような感じでした。

私のところは、私が長年、痛い目に遭ってきたせいで、ロマンを追うよりはまずは老後資金の確保、大きく賭けてアドレナリン ブシューよりは、昆布茶でセロトニンというタイプなので、人生の伴侶と共に夢を追いかける人生というのは正直羨ましいです。

私は、リーダータイプではないし、クリエーターというわけでもありませんが、物事を評価し、再解釈する批判者としては、多分才能があると思っております。彼らの夢を追う姿勢は眩しいのですが、ビジネスのネタにするにしては、その技術の成果はまだ足りないとしかいいようがないと思います。これがビジネスではなく、大学の大学院生の研究なのであれば、それなりに良い論文になって学位にはなるでしょうけど、今のままではまだビジネスになるには遠いように思います。少なくとも一つの重要なデータを確定させて、それでパテントを申請してからでないと、難しいだろうと思いました。ま、もちろん私がそういうことを言っても、関係が悪くなるだけで何もいいことはありません。つまり、私の能力(批判能力)が、実際に役に立つことは滅多にないのです。選べるのあらもうちょっとパッとした能力をもらいたかったですね。
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Negative dataと統計

2022-11-15 | Weblog
しばらく忘れていたことをふと思い出したりしたとき、なぜか関連したことが起こるというのはしばしばあります。長らく会っていない誰かのことを思い出したら電話が鳴ってその相手からだったとか、微細構造定数が137である理由を考え続けていたパウリが入院して死んだ病室番号が137だったとか、シンクロニシティは日常に溢れております。この「意味のある共時性」という考え方はロマンティックですけど、大抵はそれだけで終わりますから、単なる偶然かも知れません。人間は数秒に一つぐらい思考を1日に何千と行っており、さまざまな事柄がソーダの泡のように思考の表面に現れては瞬時に消えていきますから、誰かのことを考えていたら電話がなったというのも、ただの偶然に恣意的に意味付けしているだけかも知れません。ちょうど、ワクチンは悪いと信じている人が、「ワクチン接種後に死亡、XX例目」というような新聞の見出しを見た瞬間に、ワクチン接種で死亡率が上がると思い込んでしまうようなものですか。

というわけで、前回、最近投稿した研究論文の返事が来ないと愚痴ったのですが、その直後に返事が来ました。Negative dataなのでリジェクトされるだろうという予想に反してエディターと二人のレビューアのコメントは非常に好意的で驚きました。これはこの研究は分野の人々の関心を持つ主題であったという私の希望的観測を裏付けたものではないかなと想像しています。そして、その直後、某S誌姉妹紙から、この我々の論文の内容に深く関連した投稿論文のレビューの依頼がありました。これはCOIを理由に断りましたが、依頼メールにあった抄録から想像するにそうレベルの高い研究とは思えないのですが、編集室がレビューに回す判断をしたのは、おそらく研究の主題に話題性があると考えたからでしょう。つまり、私の論文がリジェクトされなかったのと同じ理由で、この論文もレビューに回ったということだと思います。

われわれの論文のレビューには、二人のレビューアのコメントに加えて、もう一人、統計学の人からの要求が追加されており、このたった二つの図の論文に、20項目近い細かい要求が書かれています。この雑誌は臨床研究論文も掲載するという事情からと思いますが、近年、統計にはうるさくなりました。例えば、p-valueの使用については非常に抑制的で、p-valueに基づいて「有意差がある、ない」という表現をするのは避けるように投稿ガイドラインにあります。

生物学系の論文の50%で統計が正しく使用されていないと言われますが、それには理由があると思います。端的に言うと、われわれの研究のような実験生物学的研究ではそもそも統計処理にあまり意味がないのです。こうした研究では統計は実験結果の再現性を示すために使われることがほとんどで、その用途に関して言えば、私は個人的には必要ない、というかむしろ有害ではないか、と感じています。ヘンに統計処理した結果を使って議論するぐらいなら、生データを単純に示すほうがよいと思っております。だいたい、N = 3 で t-test(あるいはノンパラであっても)統計を行うことに何の意味があるのでしょう?しばしば散見されますけど、p-value 0.05という数字を水戸黄門の印籠のように使って、データのクオリティや数や効果サイズを無視し、都合の良い結論に導くために議論を歪めるなら、統計処理はしない方がマシです。また「群間の数値に統計的有意差がない」ことを「数字そのものに差がない」と意図的に混同して正確でない結論に導くこともよく行われます。「統計的有意差がない」というのは「帰無仮説が棄却できなかった」というNegative resultですから、その解釈は慎重でなければなりません。このp-value信仰とでも呼ぶべき慣習は少なくとも正されるべきだと私も思います。
しかしながら、私はわれわれが行うような小規模の実験生物学には統計は余り意味がないと思っておりますので、この種の研究に今回の統計専門家のコメントにあるようなレベルの厳密さを求めるのは、酒場で不謹慎な冗談を言っている人に正論で説教するような場違いさを感じてしまうのです。ま、酒場とは言えそんな不謹慎な冗談を言う方が悪いと言われれば反論のしようがありません。そういうわけで、こちらも統計学専門家の人に予約をとって相談することにしました。

いずれにせよ、Negative dataを出版しようとするのは、私の人生で初めてのことで、リバイスの機会を得たことは嬉しく思います。この論文の採否が私の今後の人生に統計的有意な影響を及ぼす可能性はゼロに近いですが、これを形にするのは意義があることのようですし、この分野でメシを食わせてもらった私の義務でありますので、もうちょっと頑張ろうと思います。
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データ無辺誓解釈

2022-11-11 | Weblog
一月前に専門雑誌に投稿した論文、Negative dataなのでサクッとリジェクトされるだろうと思って待っているのになかなか返事が来ません。

この場合のNegative dataというのは、仮説から導き出される結論にそぐわないデータが出たということです。こうしたNegative dataは評価すること自体がしばしば困難ですし、評価できた場合、つまり「仮説が正しいと証明できなかった」のではなく、「仮説が誤りであると(ほぼ)証明できた場合」であってもその価値を示すのはしばしば容易でなく、出版は困難です。

このプロジェクトも三年ほどかけて、結構面倒な実験をやり通したものですが、Negative dataに終わりました。ただ、この結果に価値はあると思ったので、データを2つのfigureに絞って投稿しました。この実験をするには1年以上は最低かかるので、もしも次に同じような実験をやろうと誰かが考えた場合にこのデータは参考になるはずです。実験そのものの意義を評価してもらえたらチャンスはあるかもしれません。BioRxivには出していますが、今のところ特に反応はなし。ダメだったら報告書を書いて終わりです。

BioRxivの論文は、大量に発表される論文の中でその質を測る簡便な指標がありませんから、なかなか読んでもらえません。茫漠たる電子文書の宇宙の砂漠に投じられた砂粒のようなものです。しかし、正式に出版されたものでも、ほとんどの論文は、砂漠の一粒、大河の一滴にしかすぎません。私が興味を持っている分野だけでも毎週、300本ぐらいの論文が科学雑誌に出版されていますが、読む側にとってみれば、せいぜいそのうちの数本に目を通すぐらいが精一杯です。限られた時間内でどれを読むかを決めるときには掲載雑誌のレベルを見て私はトリアージしますが、BioRxivなどではそれができないので、BioRxivに出された論文の読者はその内容に最初から興味を持っている人の一部に限定されてしまうのだと思います。

Negative dataの出版は、以前から複数の人がその意義を喧伝し、実際、Journal of Negative Resultsなどいくつかの雑誌出版が試みられていますが、やはりNegative dataに関する研究者の抵抗は大きいものがあり、試みは成功とは言えません。15年ほど前、私の興味を持っていた分野で有名な分子があり、その生体での機能を知るためにノックアウトマウスのデータを皆が知りたがっていました。問題は機能的にオーバーラップする遺伝子が10以上存在するということで、あるグループは大変な苦労をしてそのうちの4つ以上をホモで欠くマウスの作成に成功したという噂を聞きましたが、それでも形質変化はマイルドで、そこから強い結論を得ることができなかったので、そのノックアウトのデータは現在に至るまで正式に発表されていません。

こうした場合、発表されていないからといって有意義なデータが存在しないということではありません。データそのものは有意義でも、データから強い結論が導き出されないと、科学論文としての価値が低いと評価されてしまうので、研究者の方も出版の労力に見合わないと考えて出版を諦めるということになりがちです。しかし、そうした意義あるデータが個人の実験ノートの中だけに埋もれて忘れ去られるぐらいなら、Preprintにしてとりあえず電脳空間に投入しておく方がマシではないかと私は思います。

すでに、この広大無辺のデータの宇宙には無数の解釈困難なデータが散らばっており、解釈を待っております。そうしたデータをマイニングし複合的、多角的に解釈して、人間が理解できる形に変換することを可能とするAIや情報伝達プラットフォームが開発できたら、科学研究は劇的に変化するでしょうね。
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プロジェクト復活?

2022-11-08 | Weblog
気の乗らない書き物の日々で仕事は進まず、平坦な人生に刺激が欲しいなあ、などと思っていたら、小児科医の先生からメール。

数年前から、神の書いたシナリオにしたがって、私は臨床遺伝学の人と一緒に希少遺伝疾患のモデル化とメカニズムの解析のようなことをやるようになりました。この先生は、数年前からとある原因不明の病気を持つ患者さんの主治医をされており、その患者について、以前にやりとりしたことがありました。今回、その両親に第4子が生まれたが同様の病気があるようだということで連絡をいただきました。

近年、ゲノムシークエンスによる遺伝子解析が容易にできるようになって、遺伝性疾患と考えられば、Linkage解析を行えない例でもある程度のアタリがつけれるようになりました。この病気も当時で一家系に二例、DNAが手に入ったのは一例だけの症例でしたが、新規疾患ということでゲノム解析を行った例です。両親と患児のトリオ解析で候補の遺伝子変異はかなり絞り込めました。その中で原因変異である可能性が最も高いと考えらえた遺伝子が、私にとって興味深いものであったため、先走って別の専門家も引き入れ、複数の動物でモデル化し分子機能解析をしようとしたものです。あいにく、それなりの労力をかけて解析したのですがヒトの病気をうまく再現できず、結局、結論が出ないまま撤退したものです。症例数が限られている家系で、遺伝子変異が見つかった場合、病気との因果関係を証明するため大抵は何らかのモデルをつくって機能解析をするという作業が必要なわけですが、遺伝子解析と異なり、この実験的な部分ははるかに時間も労力も費用もかかりますので、ヒト遺伝学研究での大きな課題となっています。モデル化するために、培養細胞や、ハエ、線虫、脊椎動物ではゼブラフィッシュ、哺乳類ではマウスなどがよく使われますが、マウスモデルでさえ人間とはかなり生理は異なるので、うまくモデル化できない場合がかなりあります。その場合に、アタリだと思った遺伝子変異が実はハズレだったという可能性と単なるモデル化の失敗であったという可能性の見分けは難しいです。この時はマウスとゼブラフィッシュで疾患モデル化を試み、培養細胞と非細胞系生化学的解析を行いましたが、結局、マウスではうまく病状が再現できず、ゼブラでは何かありそうだがmorpholinoの非特異的反応であることが否定できず、細胞、分子レベルでは興味深い機能異常があるが、それが症状と結びつかどうかわからない、という辛い結果に終わりました。

今回の患者さんについては、当のご両親にとっては心の痛む深刻な話ですけど、我々にとっては、この病気を解明する新たな手がかりなので、ちょっと興奮しています。そして、この病気の遺伝子解析そのものを考え直す価値があるのではないだろうかと考え始めました。というのは、当初は近親婚で両親に異常がないので、常染色体劣性遺伝と考えて、その方向で変異の評価を行ってきたわけですが、現在まででこの両親から生まれた四人の子供のうち三人が発症しているという結果になっています。常染色体劣性遺伝だと発症頻度がちょっと高すぎますので、むしろ優勢遺伝の方が数は合いますが、そうすると両親が健康であることの説明が必要です。例えば、Imprintingされた遺伝子の変異など、常染色体劣性遺伝以外の可能性も検討してみる価値があるのではと思い始めました。とすると今回の患者さんのサンプルは原因究明への貴重なデータを提供してくれるのではないかと期待しています。

あいにく、私自身がこの例を追求していくことはできいので、別の人に回すことになりのですが、それを任すに適当と思われる人と近々、別件で会う予定になっております。これも神によってシナリオが書かれていたのかもしれません。
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冬のヨーロッパ

2022-11-04 | Weblog
しばらく前に、久しぶりに昔の知り合いから電話がありました。昨年に新しい大学に移り、研究が回り出したので、ある実験手技について教えて欲しいとのこと。別に私が開発した技術ではないですけど、ちょっと細かい手技の習得が必要なので、直接指導してもらうのが早道だと思ったのでしょう。年末までだったら暇だからいいよ、と返事。ついでに、3月締め切りのグラント応募にも参加してほしいという話。私は来年の春からはアカデミアの研究活動から足を洗い、時間に縛られる出稼ぎサラリーマン生活をする予定なので、グラントや研究活動は協力したくてもできることは限られるので、その話は会った時に話をしようということになりました。ということでオフシーズンの北欧を訪れることになりました。 

三年前に行った時は初秋で、気候も良く、パリからストックホルムに行って、その後ドイツを観光で回ってきました。今回はスウェーデンはストックホルムとヨーテボリの二か所になるので、合計5日ぐらいで、後の1週間ぐらいは別の場所をウロウロしてみようかななどと思い計画を立て始めました。

 観光では、前回はライプチッヒのトーマス教会に行きたいという目的があったので迷うことはありませんでしたが、今回はどうしても行きたいと思うところがありません。ベルギーのルーベンとパリには寄るつもりにしています。そこにいる知り合いに最後に会っておきたいと思うので。そのうちの一人は私も少しだけ協力した5年越しのプロジェクトを最近S紙系の雑誌に発表したところです。
Leuvenの知り合いは自分の住む街を非常に愛しており、昔、別の国出身の恋人と別れたのもその恋人にLeuvenに住むことを強要したせいだろうと私は踏んでいます。ここはブリュッセルから近いですが、オランダ文化圏のフランダース地方に属し、科学が盛んな小都市で、ここの大学にはウチの分野ではNatureを連発するハイプロファイルな研究室の一つがあり、彼女も元はその研究室の学生でした。 

パリにもう一度立ち寄りたい最大の理由は、前回ルーブルで見れなかったモナリザを見ることです。15年ちょっと前、大ヒットした「ダビンチ コード」という推理小説がありました。それはルーブルでダビンチの「ウィトルウィウス人体図」を模した形で死体が発見されたという事件が発端で話が進みます。その小説に出てくる黄金率、1.61は当時の私にとってちょっと別な意味を持つ数字で、ルーブルのモナリザを見たいのは、多分そのせいです。 

それで、モナリザが目的の一つなら、今回の観光テーマはダビンチでどうか、と考えました。ならば「最後の晩餐」は外すわけにはいかぬと思い、とりあえずチケットを購入。購入には個人情報の提出が必要です。これは500年前の壁画で保存が難しく入場制限があってチケットの数が限られているからです。

というわけで、12月のヨーロッパ旅行、まだ飛行機もホテルも電車も何も予約していませんが、この日の正午にミラノのチケットオフィスの前に身分証明書を持って立っていなければならない、ということだけは決定しました。
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人生いろいろ

2022-11-01 | Weblog
週末は5年ほど会っていなかった昔のポスドクだった人がサプライズでやってきました。現在は遠方の病院の形成外科のプログラムの4年目だそうで、会議でこちらにくる機会を利用して立ち寄ってくれました。この人とはほぼ音信不通になっていたのに、昨年の年末に突然、クリスマスと新年の挨拶をテキストしてくれて、不思議に思った覚えがありました。私もその時は型通りの返信をして忘れていました。

髪の毛がショートになっていて、髪型が変わったのでわからなかったというと、「ケモしてたから」と言われてビックリ。二年前に卵巣癌が見つかって治療中、とサラリと言われて、何を言えばいいのかと思っていると、私にテキストしてくれたときはちょうどケモのコースの途中だったと言われました。病気が見つかったあと、ひょっとしたら死ぬかもしれないという気持ちと向き合うことを強いられた結果、「自分の命は贈りもの」だという啓示を得て以来、心は穏やかになり、体が元気だった時よりもはるかに幸福を感じれるようになった、と話してくれました。それで、ケモの合間にふと私を思い出してテキストをしたのだと。「禍福はあざなえる縄の如し」というのが適切な表現かどうかわかりませんけど、この困難によって彼女は心の平安を得る切っ掛けになったと言うなら厄災にも良い意味があったということです。いずれにしても、今は幸福で充実した日々を送っているらしいことを知って嬉しかったです。今後、形成外科医としてのキャリアを目指す彼女はニッコリと笑って抜け出した会議に戻って行きました。

その余韻が残っていた中、カレンダーに見慣れぬZoom会議の招待。何かと思えば、これも五年以上も顔を見ていない10年以上前にウチで働いていた技術員の人に関係したことでした。彼女は有名大学卒業後ウチに来て技術員として2年弱働いてくれました。もともと大学院へ行って獣医になりたいと言っていたのですが、勤め始めて一年ぐらいのとき、ちょうど母親に末期肺がんが見つかり増した。思うところあったのでしょう、技術員を辞め、予定を変更して看護学校に行き始めました。その後はとある大学病院の手術室担当のナースとなったという辺りまでは知っていました。そして昔の知り合いと結婚し、数年前一度、顔を見せてくれた時には医学部に行こうかと考えているという話を聞きました。今回は、どうもとある大学の大学院 (PhD)に応募したらしく、その入試の面接官が私を面接に招待したようです。過去に何度か就職の時に推薦状を書いたことがあるので、きっと私を推薦者として応募書類に書いたのでしょう。一緒に働いたのはもう10年以上の前の話だし、この大学院入試に際して推薦状を書いたわけでもないし、ましてその面接に私が顔を出すのも場違いと思うので、この招待は見なかったことにしようと思います。

ところで、このカレンダーにスケジュールを送るやり方というのはどうも馴染めません。カレンダーを常に使っている人は便利だと思うのでしょうけど、私のような人間はスケジュールが送られていることに気が付かず、当日に警告メッセージがいきなり出てびっくりします。

彼女の人生も波乱万丈です。当初は獣医学の研究をする予定でした。しかし、母親の深刻な病気と死がその予定を変え、そして紆余曲折の10年以上が経ってから大学院に戻ってきました。その間、ナースになり、結婚し、病院で昇進し、いろいろなことが有ったのだと思います。

同じように時間が過ぎていく中「人生いろいろ」だな、と自分の平坦な人生を思いました。私の人生が平坦だから、きっと、彼女らもふと思い出して何かのついでに会いにきてくれたりするのでしょう。
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