百醜千拙草

何とかやっています

よいお年を

2019-12-31 | Weblog
年末も差し迫り2020年となろうとしております。20/20ということで、来年は前後の見通しのよい年となりますようにと望んでおります。

前回の続きみたいになりますが、先週末も、知らない雑誌から査読の依頼がありました。メールにはタイトルと抄録だけがついていました。タイトルの英語からしていきなりおかしく、文法も間違っています。抄録も読んでみましたが、内容は推して知るべしというレベル。

論文のレビューをする方は、持ちつ持たれつだし、稀に面白い話を知ることもできるという特典があるから協力していると思います。しかし、英語も方法もまともに書いていないような論文に最低1時間は費やして読んでコメントを書くという虚しい作業を何度もしましたけど、結果、有意義なものを得たことは、これまで正直言ってありません。

クオリティーの低い論文を平気で投稿してくる方も問題ですけど、腹立たしいのは、レビュアーの時間を無料で使って金儲けしている雑誌社の編集室が何のチェックもせず、レビュアーに丸投げしてくることです。そういうジャーナルにはそういうレベルの論文しか集まらないだろうし、そうなればどうせ誰も読まないわけで、ならばそんな論文もジャーナルも無くてもいいものだと思います。どうしても出したければBioRxivとかもあるわけですし。

今回の論文は、普段からの不満もあり、編集者に、まずレビュアーに回す前に、原稿がマトモな英語で書かれていることを編集室でチェックするように、と要求しました。本来、編集室レベルで突き返すべきものだと思います。今のところ返事はありません。

今回のが中国からという証拠があるわけではありませんから、決めつけてはいけませんけど、現在、中国からの大量の論文が英語雑誌に投稿され、レビュープロセスがクロッグするという状況に陥っている中、最低限の作法もわきまえていないような原稿を投稿する方もそれを平気で丸投げで回してくる金儲け主義の編集室も、いい加減、全体的視点から状況を鑑みて、改善を考える時ではないでしょうか。

一年の終わりに愚痴っぽくなり申し訳ありませんでした。これで一年を終えるのはいけませんので、立った腹はスパゲッティーの代わりの年越し蕎麦で収めます。

みなさま、良いお年を。


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東洋的西洋科学論文

2019-12-27 | Weblog
報告書書きも終わり、実験も一段落させて、本格的に年末体制、また一年があっと言う間に過ぎ去っていこうとしています。パッとはしませんでしたが、とりあえず、大きな事件もなく無事で過ごせた一年だったことに感謝しています。

このブログは、そもそも、個人的に手紙を書いたり電話を代わりに、知り合いに向けて近況を伝える目的で書き始めたのですけど、約十年ぐらい前に、日本の社会の異常さ、政権、政府の不誠実さを思い知らされ、止むに止まれぬ気持ちで、政権批判、政治批判をすることが増えました。帰郷した時にいろんな人と喋ってみると、驚くほど、皆、政府、政権で行われているとんでもないことを知らない。外国のメディアが普通に報じ、批判している日本の政治が日本のメディアには全く流れない、と言う異常な状況を多少でもなんとかならぬものかと思い、そういう話を取り上げていますが、ブログでまとめて時折、書くというのでは取り上げる情報は限られるし、タイムリーでもない場合が多いです。最近、情報を広く集めるためにツイッターを使うようにしました(右横のリンク)。重要と思う情報はそこでretrweetすることにしましたので、ブログの方はもうちょっと個人的に興味のある話を中心にしたいと思っております。

さて、今年のクリスマスのプレゼントは、マグカップとちょっと断れないスジからの総説原稿の依頼。本業のオリジナル研究がパッとせず、グラントのネタにも苦しんでいる状況なので、総説を書いている場合ではないと自分でも思いますけど、依頼が来るのはありがたいことで、多少なりとも分野に貢献できる機会を与えてもらったのだと思うことにしました。

私、頼まれごとは二つ返事、を原則としていますけど、今月、査読した数本の論文のうち半数以上が中国からで、最近は、中国からの研究論文原稿の査読を引き受けるのは少し減らしても良いのではないかと思っているところです。

中国からの多くの科学論文に共通点があります。これは50年前の日本からの論文もそうだったのだろうと想像するわけですが、いわば「東洋的」に書かれています。東洋的というと語弊がありますけど、要は、全体が丸く収まっていれば、細かいことは気にしない主義、とでもいうような感じです。

例えて言うなら、漢方薬ですね。中国人は実利的であり、漢方薬、東洋医学というのは典型的な例です。中国では長年の経験に基づいて、ある症状に有効な治療法をいうものを見つけ出してきたわけですが、「なぜ、効くか」は基本的に問わない。意地の悪い言い方をすると、「効けば良い」という考え方でしょう。だから病気の原因を突き詰めて根治を目指すという西洋医学の基本的方針とは異なります。その現代西洋医学は「科学的アプローチ」を基本にしています。

西洋科学は(というか科学はそもそも西洋で生まれたものですけど)、むしろ「なぜ効く(効かない)のか」の理由を追求する学問です。そして、唯物論的、還元主義的手法で世界を解釈していき、その知識を応用することで「効く」ものを生み出してきました。実利的な中国人ですから、西洋科学が「効く(役にたつ)」ことは十分実感しているはずですが、しかし、彼らにその「科学」の精神は十分共有されていないというのが私の感想です。

意地の悪い見方をすれば、ここでも「効けば良い」という深いところにある中国的思考があるのでは(日本もそうです)と思います。つまり、中国人研究者にとって、研究が「効く」とはどういうことかということです。中国のアカデミアの競争は熾烈なようで、インパクトファクター主義、論文数主義です。ならば、中国の研究者にとって「効く」研究とは、論文になる研究です。「過程はどうあれ、効けば良い」という態度は「内容はどうあれ論文になれば良い」という思考につながり、結果、中国では南開大学の学長が研究不正の調査対象となり、こちらでは二流雑誌に山のように投稿されてくるクオリティーの低い原稿に査読者がうんざりさせられるということになっているのではないでしょうか。

中国からのそうした論文を読むと、結論が書いてあり、それを支持するデータが並べられていますが、具体的にどのような実験をどういう条件下で行った結果、そのデータが出たのかがわからない、という論文が(これまで私が査読したレベルの原稿では)「殆ど」です。英語も初歩の文法が間違っていたり、おかしい言葉遣いをしているのが多いのですが、これは単に「できない」のでないと思います。思うに、これは「英語など正確でなくても通じればいい」と思っていて、著者らが、「正しい英語を厳密に書くということが科学コミュニケーションの基本である」とは、考えていないからであろうと私は想像するわけです。つまり、やれないのではなくやる気がない(多分)。

要は、「実験の過程はどうあれ、こういうデータが出て結論が得られたのだから、細かいことはどうでもいいではないか」という態度で書かれているように見えるのです。正直言って、こういう論文は、方法がキッチリ書かれていないという理由だけでリジェクトされるべきだ、と私は考えていますが、実際問題、出版社は掲載料を集めたいわけですから、簡単にリジェクトしたくないというバイアスがかかっており、レビューを書く方も、よほどでない限り方法論の十分な記載がないからリジェクトとは書きにくい訳で、結局、具体的にそんな基礎の基礎の不備を一つ一つ指摘せざるを得ません。そんな不毛な作業に時間を費やして、肝心の研究内容の議論ができない、という非常に疲労感の高い結果になります。これが、過去十年ほど、中国からの論文の査読を引き受けるたびに延々と繰り返されており、全く改善していく傾向が見られません。

だから、きっとこれはそもそも中国の文化的な背景があって、中国人研究者は、多分この問題(私には、科学的アプローチに対する基本的理解の欠如、と見えます)を深刻なものであるとさえ、思っていないのではないか、と想像しています。「効けばいい」という実利主義の文化と、(効く、効かないはとりあえず置いておいて)現象のメカニズムをまず、明らかにして世界を論理と唯物論によって解釈し(そして、応用を考えて)いこうとする科学的アプローチは相性が悪いのかもしれません。(実利主義が悪いと言っているわけではありません。いくら好物でもクリームケーキに餃子をトッピングするのは勧められないという話で)

そもそも西洋でも比較的最近に生まれた科学という学問を、何千年という歴史の東洋的文化が染み付いている中国人や日本人が、せいぜいこの100年あまりで、学ぼうとしてきたわけですから、文化的な影響があるのは当然です。しかし、科学という西洋の学問には、すでに洋の東西を超えて確立された「科学的精神」があり、科学という活動に携わるものはその精神に則って活動を行うのがルールだと思います。
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新BGKO

2019-12-24 | Weblog
一年も終わりに近づき、仕事納めムードですが、来年頭の報告書の締め切りや休みの段取りなど雑用で忙しくしています。 今日は、全くどうでもいい話。
単純作業中はBGMがあると助かります。気が散るので歌詞がないか、わからないものをかけています。バロック後期ぐらいのクラッシックの器楽曲、合唱曲、60-70年代のフレンチポップス、ロシア民謡、それからバルカン音楽など。
 バルカン半島のジプシー音楽の魅力は、時々混じるエキゾティックな(二度の音が半音下がるようです)音階、それから独特のリズムだと思います。ターン、タ、タッタ、という感じの7拍子が基本になっているものが多いようで、どういう理由で7拍子なのか非常に興味があります。音楽のリズムは移動の時のリズムという話があり、三拍子は騎馬民族、二、四拍子は、田植えをする農耕民族のリズムということですが、それなら7拍子は放浪する民族、ジプシーが使う移動手段に由来しているのかなあ、と想像しています。

バルカン半島のジプシー音楽を主に演奏する多国籍音楽グループ、Barcelona Gypsy balKan Orchestra (BGKO)のリード ボーカルを7年務めたSandra Sangiao (Spain) がグループを最近に去ったというニュースを寂しい気持ちで聞きました。
10月末、バルセロナでのSandraの最後のライブコンサートの様子はYoutubeにアップされています。このライブでは、Margherita Abita (Italy)が一部で参加しており、おそらく、彼女がこれからのフロントシンガーでやっていくのではないかと想像しております。

Margherita Abitaのボーカルで、ちょっと以前と雰囲気が変わりましたが、なかなかいいと思います。曲は最近、ギリシャと揉めて、国名が変わった旧マケドニアの曲。

このビデオではパーカッションは小鼓ですけど、他の演奏などでは、上に座って指やブラシで音を出すユニークな四角い打楽器が使われています(下のビデオ) 。アコーディオンとバイオリンがスラブ系ジプシー音楽独特の感じを出しています。木管楽器はバルカン地方でよく使われ、ここではクラリネットですが、セルビアでは独特の横笛や縦笛が使用されます。

数年前のSandraがボーカルのBGKOの名演奏。サビとソロでは、ギターとベースがペースを保ちながら、ドラムのスピード感あふれる緻密なリズムにクラリネットとアコーディオンが絡みます。見ていて、楽しくなりますね。

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男性とか女性とか

2019-12-20 | Weblog
年末でいろいろ雑用が増えて生産性は上がらないのに忙しいです。
Twitterでニュースをフォローしていると、日本の社会の後進性が話題になっているものが多く目につくようになりました。政府与党の腐敗は海外でも話題になり、先日は、詩織さん事件で民事で詩織さんの勝訴となったのに、逮捕状が直前でアベ一味によって揉み消され刑事罰どころか起訴さえされなかった事件が再び海外でも取り上げられ、日本の人権に対する後進性に非難があつまりました。



それから、ヨーロッパで社会でリーダーポジションを果たす女性の割合が高いということ、一方、日本はいまだに少ないというのがここ数日、話題になってい
ました。女性閣僚の率は日本は最低レベル。

私は、女性も男性も人間に違いはないし、人種、性別に関係なく、能力に沿って、適材適所がよいと思っています。実際、自民党の女性議員はロクでもないのが多く、男性とか女性とかいう以前に人として問題のあるのが集まっているのがいまのアベ自民でしょう。
 というわけで、人種や性といったうまれもった個人の属性をみて、その比率がどうとかいうのはちょっと違和感を感じるわけですが、一方で、アメリカなどでのマイノリティー、女性に対するAffirmative actionは、社会がより平等に人々にチャンスを与えようとする努力の一環であるとも理解できます。

女性に関しては、子供を産み育てるという男性にはできない仕事がありますから、社会が全体で子供を育てていこうという意識やシステムの乏しい国(日本)では、女性が社会進出しにくいのだろうと想像できます。社会の発展と維持のために、人々の能力を活かす、ということを考えると、子供を育てる、あるいは高齢者を介護する、といういった仕事は、関係個人のみに頼るのではなく、社会がもっと積極的に負担していく体制を作るというのが望ましいと思います。もちろん、誰かが負担をしないといけないわけです。それは各々が社会全体の構成員であるという自覚のもとに積極的に責任を分かち合う姿勢、つまり現在の日本での資本主義や自由主義とは一段上のレベルの意識の共有が求められるものと思います。首相やその夫人自ら、率先して、税金、政府、法律を己の利益のために私物化し、嘘をつき、身内の犯罪をもみ消し、自ら犯罪に手を染め、それをごまかすために公文書の偽造、隠蔽までして世界に恥をさらし続ける国、長いものに巻かれて嫌なことは弱者に押し付けるいじめ文化の日本では、そのレベルに到達するにはまだまだ先が遠いでしょうが。

と、こんな話をしているのは、昨日の会議に出席したからです。近所の複数の別施設の研究者で、興味がかぶる人々が集まって、情報交換と共同研究のプラットフォームづくりをしようという第一回のミーティングがセットアップされ、10余りの研究室からの代表が集まりました。半分以上は独立数年以内の若手で、七割ぐらいはすでに知っている人々でしたが、なぜか居心地が悪いなあ、と感じて、会議室の中を見渡したらその理由がわかりました。参加者の中で男性は私一人だけだったのでした。これではreverse affirmative actionが必要なのでは、と思った次第です。 
私の所属する講座には8つの研究室がありますけど、女性PIは一人だけです。しかし、周囲を見渡すと、確実に若手研究者の中での女性の比率は上がっているようで、ポスドクを含めてみると、私の場所では女性研究者は男性研究者の二倍はいるのではないか、と感じます。

子供を産んで育てるという役割のためにおそらく女性は社会進出が(日本のような国では)低いと私は想像しているわけですが、一方、男性は稼いで家族を養っていかねばならないという役割のために、近年、とくに不安定で所得も高くないアカデミアでの研究職を志す男性が減ってきているのではないだろうか、と想像します。結果として、若手研究者の中での女性の比率が相対的に上がっているのではと思うのですが、どうでしょうか。

例えば、学生時代に訪れたフィリピンでは、医師の七割は女性でした。男性は金の稼げる力仕事や出稼ぎに行き、それができない女性が医師になるという話です。似たようなことが、研究業界に起きつつあるのかなあ、と思う次第です。

ま、日本は、あいにく、政府与党がクズの集まりで、教育や研究を金儲けの手段としか思っていない不届きものばかりなので、放っておくと、日本の学問、大学、教育、研究、は遠からず滅びてしまい、男性とか女性とか言っている場合ではなくなるでしょうけど。男性とか女性とか言う前に、まずは政府与党のクズどもを放逐、折伏、殲滅するのが急務であろうと思います。
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怒りについて

2019-12-17 | Weblog
「怒り」は、仏教でいう「貪・瞋・癡」の三毒のうちの一つ、「猛毒」であり、それに気づいたときにはすぐに消さないと大きなダメージを受けるのだと、私は学んできました。特に悪意のない過ちを犯した人に対して、うっかり怒ってしまうと、人間関係にも深刻なダメージが起きます。「怒り」の負の影響について、この十年ぐらいはとりわけ、注意をしてきました。これは感情ですから、何かに反応して反射的に出てくるもので、出てこないようにするのはなかなか大変ですけど、出てきた怒りを理性によってコントロールするのは訓練でできるようになります。感情を理性で制御できるのは人間ならではです。

一方、喜怒哀楽が豊かなのは、感受性が高いということでもあります。近年は感情の表出を抑制することが求められ、特にパブリックな場所で、会見で号泣したり、このハゲーと怒鳴ってみたり、「ウラジミール、ともに駆けて、駆けて、駆け抜こう!」などと言葉尻を振るわせてみたりすると、「ドン引き」されます。(ま、最後のギャグにはプーチンも吹き出しそうになっていましたが)

でも、そうした感情の表出に対して、昔の社会はもうちょっと許容性が高かったようだったと、下の小田嶋さんの記事を読んで思います。小津の映画でも、大人の男が感情に任せて女房を平手打ちするという場面などがあって、ちょっと顔をしかめてしまいますけど、だからと言って、すぐに離婚や訴訟問題にはならずに、打たれた方も打った方も一時の感情の高ぶりにすぎないと思っている、そんな鷹揚さが昔はありました。現在ではそういうわけにはいきません。愛の鞭も暴力ですから。私も、肉体的にも精神的にも人を傷つけることは人間としての罪であると思っておりますし、そういう点でも怒りという感情は、取り扱いに十分に注意をしないといけません。

しかしながら、一方で、悪意のあるものに対して、怒りを持って批判するのをためらってはいけない、とも私は思います。怒りに支配されてその炎で自ら火傷をするのではなく、怒りをコントロールしてそのエネルギーを利用するということです。

、、、、
 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。
 なんだか古典的な左翼の言い草に聞こえるかもしれないが、私は、デカい主語でなにかを語る時には、古典的な左翼の分析手法はいまもって有効だと思っている。
 ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。
 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。
 、、、、、
 令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。
 私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。
 、、、
 私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。
 真顔ほど正直な表情はない。

私も正直さは最上の美徳であると信じております。だからこそアベ一味が許せない、彼らが、卑怯なウソと不誠実さで、大勢の国民を搾取し、欺き、傷つけてきたことに心底、怒っております。
 そして、何が問題かもわかっていないくせに、単に怒っているというだけで、真剣に怒っている人々を嘲笑するような人々にも怒りを禁じえません。(そんな人々も守りたい、と山本太郎なら言うでしょうけども)

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辞任届

2019-12-12 | Weblog
この七年で腐りきったアベ政権が壊してきたものは計り知れません。自己利益と保身のためには、法も倫理も破り、弱いものは力で押さえつけ、目先のカネと力がすべて、全くサル以下です。 保身のために都合の悪いものは規定から力ずくで変える。税金どころか法律まで私物化するアベ政権。


邪悪でバカ、つまり、カスでクズ、それ以外に言葉がないです。

まさに、コレ。普通の人間には恥ずかしさのあまり、布団をかぶって叫びたくなるようなことが平気でできる恥知らずのアベ。

恥も外聞もヘッタクれもない、能力、誠実、責任感、何一つないアベ政権。

アベが逮捕されず、のうのうと居座り、その上、改憲するとまで言う。自分で法律を破り、犯罪事実を隠蔽し、文書を改ざんするような恥知らずが憲法を変えたいなどど、どの口でいうのか。税金を延々と無駄に使い、経済、外交と何一つ成果を出すどころか、はるかに後退させ、諸外国に日本の後進性をバカにされるようになり、史上最低の無能政権で、かつてなかったレベルのモラルハザードを引き起こした犯罪者集団、アベ一味に忖度する検察。まさにサルの集まり。

と、前振りはこれぐらいにして、もう死んでいるゾンビ、アベ政権、さっさと辞めてほしいですが、アベも議員をやめた瞬間、逮捕されるのが怖くて辞められないのかもしれません。

というわけで、ちょっと前に目にしたユニークな辞職届を集めた記事

個人的に選んだ最優秀賞は、コレ。


これも、まずまず。




ひらめきと決断はトイレでやってくる。


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パンチドランカー

2019-12-10 | Weblog
「木で鼻を括る」という言葉がぴったりで、都合の悪い質問には、「ご指摘には当たらない(図星だと思うけど)」、「申し上げた通り(聞いてないけど)」、「ルールに従って(どこにそんなルールがあるの?)」、「担当省庁に聞け(政府の見解を聞いているのだけど)」、「回答は控えさせていただく(ストレートに回答拒否)」などなど、定型的文句での鉄壁の回答拒否で、アベ政権を防御してきたガースーでしたが、このところの会見では多少、その鉄壁の防御にヒビが入ってきた様子。
あの「桜を見る会」の一連のスキャンダル(というか、ほぼ、犯罪事実)、もう子供騙しの言い訳しか残されていない状況に追い込まれて、精神的なダメージが蓄積してきているようです。

東京新聞、望月記者が一人で辛抱強く打ち続けたボディーブローが、ガースーだけでなく、事なかれ主義の大手新聞の記者に対しても、だんだんと効いてきたようです。雨だれ石を穿つですけど、努力の積み重ねが実を結ぶのには時間がかかります。

アベはメディアを懐柔、恫喝することで、メディアコントロールを図ってきたわけですが、その一つがメディアのキャップを集めての会食。外国では、権力を監視する立場のメディアが権力者と一緒に飯を喰うというのは、非常に恥ずかしい非難されるべき行為だと考えられていますが、ここ日本では、マスコミ、司法も検察もアベに擦り寄るのを恥と思わないようです。原理原則を尊重しないのは日本の悪いところですね。

ところで、原理原則を尊重しないというのは、おそらく日本では、キリスト教のような絶対神を信仰するような宗教が歴史的になかったせいではないでしょうか。そういう意味では中国も同様です。そういうところでは、行動基準(例えば道徳)は相対的であり、場合によれば恣意的でさえあるわけで、適当な理由さえつけば、自分さえ良ければ良いという基準で行動する人が増えるでしょう。
 例えば、出版数に対して中国からの科学論文は諸国に比べて圧倒的に論文撤回の比率が大きい(アメリカの約5倍)ことが最近、明らかになったわけですが、思うに、それは、論文の出版が著者の利益に直接結びついている中国の科学政策が、科学的精神という原理原則を尊重する習慣のない文化と相乗した結果でしょう。真理を追求する学問精神という原理原則よりも怪しいデータを弄ってでも出版する方が大事(なぜなら、出版して職を確保しなければ家族が路頭に迷うことになり道徳に反するからであり、科学コミュニティーより自分や自分の家族の方が相対的に大切だから)と考えることができれば、Research Integrityのプライオリティは低くなります。
 さらに言えば、宗教ではなく道徳に依存する社会では、極端にいえば、他人に親切にするのも、「汝の隣人を愛せよ」と言われたからでも、ダライ・ラマにcompassionの実践を説かれたからでもなく、そうしないと自分が何らかの不利益を被るからという合理的理由がある。そういう基準だと、自分に利益があるかないかで物事や人に対する態度がコロコロと変わりえます。朝三暮四、サル化する社会はこういう歴史的文化的背景(日本における絶対神宗教とその実践の欠如)があるのではないかと思います。マッカーサーが日本人の精神年齢は12歳と評価したのも、こういう側面に対してではないでしょうか。

ま、というわけで、メディアを集めてのアベの会食、「ま、ま、メディアのみなさん、ここは一つ大人になって、小さなことに目くじらを立てて、事を荒立てないでいきましょうよ。みんなが不愉快になりますからな。まあるく、収めましょう。何と言っても、この世の中、持ちつ持たれつですからな。我々相互の利益のためには一部の人間や一般庶民に犠牲になってもらうのも仕方ない、何しろお国のためですから」という感じですかね。

メディアも権力、権力を持つ者こそ、襟を正し、より高い見地からの原理原則に従って、己を律することが求められるのに、そういう意識に乏しいので、官僚もメディアも、アベのような小人に使われ、「恥が虹のように広がり」、結果、結託して、弱者である一般庶民にツケを回す悪事の片棒を担ぐことになる。日本が民主主義後進国と呼ばれるのは、第一に頭が腐っているからですけど、その搾取される側である一般庶民も同様のメンタリティーがはびこってはおります。己が身を守るためには、ヤクザにみかじめ料を払うのも、弱い者に負担を押し付けていじめるのも仕方がないことだと思っているわけです。いつ、自分がその弱い者になってヤクザに脅され他の仲間だった人には見て見ぬふりをされて、いじめられたりするようになるかも知れないのに。

精神年齢はともかく、日本人の頭脳に問題があるわけではありません。戦後民主主義を十分に理解し、良心を持つ官僚もメディアもおります。ただ、出る釘は打たれる風土、権力者に逆らえば、付和雷同する大勢から「いじめ」られ、仕事を干される陰湿な文化のせいで、なかなか声をあげられなかっただけだと思います。そして、この花見の一件から、ちょっと潮目が変わったような感じがします。

最近では、大手メディアの中では毎日新聞が、アベとの会食を拒否。「間違ったことは間違っている」と当たり前の主張する、本来のメディアの役割を果たそうとするようになってきたようです。ガースーの会見でも、厳しい質問をするのは望月記者ぐらいだったのが、他の記者も鋭い質問をするようになり、ガースーも勝手が違ってきたようで、先日の会見では、10回あまりも官僚メモにすがって、立ち往生するというシーンがあったようです。私もその様子をちょっと見ましたけど、パンチを食らって意識が飛んでしまったボクサーのように見えました。ノックアウトも時間の問題ではないか、と感じさせるに十分でした。

ガースーも、政権を守るためにアベの悪事をかばっているのは自覚しているでしょうから、自分のやっていることが理解できないアベと違って、常に良心の呵責というものを多少なりとも受け続けているはずでしょう。それが積もりに積もって心体を蝕んできたと思います。この先、次期総理というのももう無理でしょうから、一つパンチドランカーの症状が出る前に、正気を取りもどしてもらいたいものだと思います。ま、しかし、まだホテルを建ててゼネコンにカネを回して天下り、を考えているようですから、すでに病膏肓ですかね。
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世界に恥を晒す 2

2019-12-06 | Weblog
アベ政権がなかなか倒れないのは、その邪悪で不正なメディアや官僚のコントロールだけではなく、普通の人間なら恥ずかしくてできないことを平気でできる異常さでしょう。時代劇なら、とっくの昔に「参りました」と、悪事を認めてお縄になるか、破れかぶれになって成敗されるかという局面、将棋なら雪隠に詰められて頭金を打たれた状態。なのに、負けを認めない。淺ましくも見苦しいことこの上ないです。

現代では、いくら廃棄、改ざん、隠蔽しようとしても、これらのアベの恥ずかしい答弁や映像はネット上に半永久的に残り、歴史上もっとも恥ずかしい総理として、なんどもプレイバックされることになるでしょう。恥ずかしさという点ではまだAVに実名、顔出しで出た方がましではないでしょうか。

どうもアベにはそもそも自分のやっていることが恥かしいということが理解できないぐらいの深刻な知能の欠陥と他人の痛みや気持ちを感じることができない発達障害か精神障害、あるいは性格異常がある、と思われます。






メディアの懐柔恫喝が効かない外国が、アベを見る目は正直です。


北朝鮮には言われたくないですけど、本当に何ひとつとして不足がないほど「完璧なアベの評価」。

先週話題になった関西の番組。
関西以外でも、



国民の一人一人が収めている税金で雇われているのがアベ。その雇われ店長とその嫁が、会社があたかもわがものであるかのように振る舞い、会社のカネを横領し、会社の評判を貶めて大損害を与えた上に、犯罪まで犯し、その犯罪を隠すために他の社員にも犯罪を強要する、というようなことをしたら、普通は、クビにした上で刑事で罪に問い、民事で損害賠償させるでしょう。さっさとクビにして、罪は牢屋で償ってもらいましょう。

それにしても、東大出の官僚が、国会で、うつむいて、子供の言い訳よりひどい答弁をさせられているのを見ていると、鳩山政権を潰した外務省、カンと野田を篭絡した財務省の官僚も、いまごろは民主党政権を潰したことを多少は後悔しているのではないですかね。
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英語教育改革とカネ

2019-12-03 | Weblog
ちょっと前の続きですけど、英語教育改革の話。ある討論会のビデオを見たので、それを紹介したいと思います。

その前に、英語を使える様になるにはどうすれば良いか、という問題に対しての真面目な提案。現在、必要上、英語を使う日本人は数多くおり、私の知る彼らは従来の日本の英語教育を受けておりますが、英語は、皆、立派なものです。一方、英語の必要がない人が英語能力が低いのは当然でしょう。仕事上、英語の必要があるのにマトモに使えないのはアベぐらいではないですかね。隗より始めよ、ですな。
つまり、物事を十分に習得するのに「近道はない」し、それなりの努力をすれば誰でもあるレベルには達すると思います。一方、努力しなければ、いくら早期から英語教育を始めようと、英語環境にしようとムリです。楽器の演奏を学ぶ様なものでしょう。喩えば、小さい頃からピアノ教室に通う子供は大勢おり、「チューリップ」ならすぐ弾ける様になります。しかし、最終的にそのうちの何割が音大レベルになるでしょうか。これは、ちょっと極端な喩えですけど、一体どんな目的を目指して英語教育をするのか、という点をはっきりさせる前に制度を変えようとしていることが問題だと私は思います。

つまり、日常会話程度ができる様にするのが目的なら、会話に特化した授業をちょっと加えれば事は済むので、何も教育を改革して小学生から英語を学ばせるほどのことはないです。一方、高度の内容の英語でのコミュニケーションは英語が母国語の人でも長年の訓練が必要だと思います。

以前、藤原正彦さんのエッセイを読んだ時、アメリカの大学で学生に数学を教えていた時、学生の出してくるレポートの英語がひどいので、英語の添削の方に時間がかかったという様なエピソードがあった様に記憶しています。数学やその他の科学では、論理的で緻密な思考が必要です。英語の表現も同じことで、論理的に文法に沿って文の構造を正しく組み立てる能力が求められます。その能力は英語教育を早期に始めるとか、英語環境で教育すれば身につく、というようなレベルの話ではないと思います。英語の問題ではなく、言語の構造の理解、文法というルールの理解に関する問題ですから、論理的思考ができるかどうかという問題です。高度の内容を英語で適切に表現する能力は、ネイティブであるとかないとかはあまり関係がないと思います。

まずは、プライマリーとなる言語体系をしっかりと身につける必要があると私は思います。それによって緻密に論理的に思考し表現することが可能になると思います。それが十分にできなければ、英語、日本語に関係なく、高度なコミュニケーションはできないであろうと思われます。

さて、本題の動画「『最悪』の英語教育改革が始まろうとしている」(ダイジェスト版、約10分)ですけど。当然ながら複数の思惑があります。しかし、多分、最も大きな動機はカネでしょう。 以下、要点だけ箇条書き。

- 英語はネイティブが教えないといけないという根拠のない神話。
- 問題の所在がきちんと把握できていないまま、処方箋が書かれるので、どう考えても間違った処方箋が出されてしまうという典型例。
- 制度を変え、中学入試などに備えて、教育業者が出てくる、結局、利権。
- 試験を出す側と試験対策をする側が一緒。自分のところの試験を受験生に受けさせ、「ウチの塾に来れば、いい点数が取れますよ」というビジネス。ベネッセさんは、いろいろ文科省と仲良くやっている。
- 試験や教育の目的はわからないではないが、手段が稚拙。
- 単語だけ知っていてもだめだと言うが、おかしな話で、まずボキャブラリがなければ話にならない。高校までで学ぶ単語は5000、でそれは、英語の柱となる中心的なものにしかすぎない。

ま、アベ政権では、いつものことですけど、結局のところ、教育改革、入試改革とやらは、元文科大臣、文科省と癒着したベネッセという民間業者が、子供の教育をネタに金儲けしようとしたということらしいです。

元文科相下村氏が後ろ盾、元文部事務次官佐藤氏が天下り
、、、ベネッセと共同で検定試験「GTEC」を行っている(一財)「進学基準研究機構」の役員構成。理事長に旧文部省元次官の佐藤禎一氏、参与に文科省出身で、元岡山大学事務局長・阿部健氏が就いていた。国会で取り上げられる事態になり、2人とも慌てて辞職したという。、、、

政商とはちょっと古い言葉ですが、越後屋と悪代官、アベ政権では最近特に、多く目に付きますな。モリカケ、スパコン、水道事業に原発、、、、最近ではジャパンライフですか、数え上げればキリがないですな。異常事態が異常事態に感じられないぐらいの異常さです。
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