百醜千拙草

何とかやっています

科学研究は国の嗜み

2009-11-26 | Weblog
しばらく出張しますので、その前に税金で研究活動が支えられているということの意義について、少し。

例の事業仕分けで、科学研究に対する予算の「ムダ」をどう判断するのか、という問題で、研究者業界は議論が沸いています。スーパーコンピューター開発プロジェクトが槍玉に上がりました。このプロジェクトの意義を素人にも理解してもらうのは難しいでしょう。医師によるインフォームド コンセントのようなものです。結局は知識に差がある者同士の理解というのは、対等の関係では起こらず、知識の量による力関係が決めてしまうことになります。「ベストの治療をしますから、任せておきなさい」「はい、それではよろしくお願いします」という一昔前の医師と患者の関係は、インフォームド コンセントが導入されたからといって変化しているわけではないと思います。治療の内容やリスクや効果について説明したと、医師側は思っていても、治療に対する同じ認識を患者側が持つことは、まず期待できないでしょう。患者は病気が治るかどうかという一点で医療の成否を判断しようとするでしょうし、医師側は、医学的に「正しくベストと考えられる医療」をしたかどうかが最優先であって、その結果として病気が治るか治らないかに責任をとることは出来ません。研修医のとき、不治の病にかかったヤクザの親分の娘を担当した同僚が、「絶対に、お嬢さんを助けてやって下さいよ!(もし、助からなかったら、どういうことになるか、先生、わかっとるでしょうな)」と組の者にスゴまれた、という話を思い出します。
 仕分け人に科学事業を説明する方も、医学知識の乏しい組の者に不治の病を説明するような難しさがあるのではないかと思います。科学コミュニケーションという分野もあるそうです。一般の人にもっと税金で支援されている研究のことをわかってもらおうという趣旨のようです。それが、子供の科学とか科学朝日やScientific Americanのように科学を娯楽として一般人に楽しんでもらうという活動であれば、私は賛成なのですけど、一般人に専門家の仕事を評価できるようになってもらおうというような趣旨なのであれば、ちょっとそれは僭越でないかと私は思います。
 一方、基礎科学研究は投資活動であって、コストと利益の比(B/C)をもって、遂行か廃止を決めるような他の事業と同列に議論すること自体がナンセンスだ、というようなことを言っていた野依さんの意見は尤もです。私も、以前は基礎科学は投資活動であると思っていました。歴史的に振り返ってみると、(やっている本人でさえ)よく価値がわからない研究を、主に好奇心にかられて、続けている間に思いもかけない発見がなされて、その発見が実地に応用されてきました。科学上のブレークスルーも医学上の有用な発見も、殆どといって良いぐらい、偶然の産物です。そういう歴史的観点から、有用性については現時点では明らかでは無いけれども、面白そうな研究はとりあえずサポートしておくと、稀に瓢箪から駒が出る事もある、という経験則に基づいて、「基礎研究は投資である」という言明がなされるのであろうと私は思います。しかし、この経験則が今後も真であるかどうかはわかりません。ブレークスルーには新たな研究手法の開発が必要です。簡単に発見できる部分はすでに発見されてしまい、新たな発見はますますテクニカルに困難になってきています。
 研究活動を投資とみる以上、そこに投資した額とリターンがそれなりに見合う必要があると思いますけど、投資額はともかく、リターンを評価することは容易ではありません。また、基礎科学の性質上、これまでの成果をもって未来のリターン率を推測することも不可能です。そう考えると、「基礎研究は投資である」という考えも、例えば、株式や不動産に投資する場合と比べると、少なくとも同じレベルでは比較できない類いのものであると思います。
数年前、ある日本人研究者の人が熱帯魚の縞模様がどういうメカニズムでできるのか、という疑問に対して、反応-拡散モデル(だったような気がします)をつかったシミュレーションモデルを提唱してNatureに論文が掲載されたのを覚えているのですけど、その著者の人は、「自分にとって、科学はエンターテイメントだ」とインタビューで述べていました。基礎科学研究とはどういう活動かという疑問に対して、現在、私が抱いている感覚に最も近いのが、この言葉ではないか、と思います。少なくとも、私は彼の論文を見て(細部はよく理解できなかったので読んではいません)「へー、面白いなあ」と楽しませて貰いました。現在、購読中の科学雑誌は、自分の仕事に直接役に立つことは殆どありませんけど、私は論文や記事は、娯楽として読んでいます。
 科学の活動が国や世界のレベルで成り立つためには、数多くの研究者が、様々な研究を行って、その成果を発信していくことが不可欠であり、そうした活動を通じて、国々どうしはお互いを認め合うという面があります。例えば、日本が国家としてこういう活動をサポートしないというのであれば、日本は世界の科学社会からは少なくともはじき出されて、友だち付き合いしてもらえなくなるでしょう。村八、ですか。私はそれ(村八にされないこと)が、国が科学活動をサポートする最大の理由であると思います。(私は、国民の多数が科学活動という点で、国際社会から対等に扱ってもらえなくなっても構わない、というのなら、反対はしません。村八、おおいに結構と思っております)資源のない日本だから科学技術は大切だ、科学技術立国とか言いますけど、投資活動であるにせよ事業にあるにせよ、科学活動を直接的、間接的に金と結びつけて議論するのは、マイナスだと思います。科学は基本的にエンターテイメントであり、若旦那の道楽の延長だ、というのが、本来の姿ではないかと思うのです。道楽の中でごく稀に一般の人にも役に立つようなものが出てくることがある、そういう様なものだと思っています。しかし、何か役に立つ様なものをつくりだそうとして道楽するのではなく、あくまでそれは、道楽の副産物に過ぎないのです。こういう研究活動の見方は研究活動を投資と見る場合と明らかに重点の置き場所が違います。
 それではその道楽になぜ、国民の税金が使われるのか、某バイオテクノロジー記者の人でさえ、「好きな研究をやりたいのなら、身銭を切っておやりなさい」というような見識ですから、一般国民が、苦しい生活の中からの税金を、どうして道楽に費やさねばならないのか、と思うのは尤もです。私は、これについては、研究活動というものは「国際道楽者クラブ」のメンバーシップを手に入れるために行うものであると理解するのが良いのではないかと思うのです。国際社会からの村八に恐怖感をもつ人は多いでしょう。科学や芸能に対する理解の乏しい国に対して、国際社会は「不気味さ」を感じると思います。それでは国益を損なうことになるでしょう。研究活動に国が金を出すということは、「日本も、他の先進国同様に、(投資と考えるならば余りに効率の悪い)研究活動を、エンターテイメントとして支援していますよ、同じ道楽仲間ですよ」というメッセージを国際社会に発しているのだと思います。国境を問わない科学や芸術は、そうして外交に貢献しているのではないか、そんな風に考えております。
 基礎科学研究を、経済的な見返りを考えて支援するのではなく、先進国の「嗜み」と考えてはどうでしょうか?先進国仲間であるためには、それなりの服装をし、芸術を愛好し、科学を理解することが必要なのだと思います。これは、リベラルアーツの大学に金持ちの子女が通うのと同様ではないかと思います。彼らは実用的な技術や資格が手に入るわけでもない大学に高い授業料を払って通います。実際的な日常生活には余り役に立たないと思われるような「教養」を得、上流社会のメンバーとしての嗜みを育むために、そういった学校に行きます。つまり、同じ社会階層の人々とうまくつき合っていくために必要なふるまい方を身につけるわけです。そんな一見、役に立ちそうにない教養は、結局は、彼らが裕福層の中で仲間とみなしてもらえることによる多大な利益に間接的に貢献すると考えられますから、これは「投資」活動でもあります。同様に、芸術や科学は国際社会で国が仲間として認められてもらうために必要な教養であり、国際社会で認められることは、国の利益に繋がる、そう思えば、科学や芸術に税金を使う意味も多少は納得してもらえるのではないかと思うのです。
 また仮に、研究活動が一般社会に何の直接的な利益を生み出さない単なる道楽活動であったとしても、私はその有用性に対する信頼は揺らぎません。若旦那から道楽を取り上げたら、何が残るかを考えてみたら、道楽の有用性もわかろうというものです。よく学び、よく遊べといいます。遊ぶことを知らないと十分に働けません。遊び、道楽はある程度、必要なものです。実際に基礎科学研究支援を国が行わないとなったらどういうことが起こるでしょうか?まず、大学が潰れます。研究活動無しに教育が生き残るはずがないからです。それでも大学が残ったとしたら、それは大学ではなく、いい年をした若者がやってくる小学校と変わりありません。その傾向は実用学科を教える所でより著しくなると思います。例えば、医学部では、研究ができなくなって診療と教育だけが残ったとすると、それでも薄給に耐えて大学に残りたいというような奇特な人はまずいないでしょう。そして、結果、医学教育そのものが壊滅し、日本から医者も技術者もいなくなるでしょう。
 ですので、私の思う国の基礎科学研究支援というのは、これまでの一極集中型ではなく、大学運営費のような型で広く浅くばらまいた上で、その上に競争資金を積み上げるというボトムアップ式でなければならないと思います。金を削らねばならないのなら、政府主導の大型プロジェクトから削り、比較的少額の研究費を多く残すべきであると思います。そうでないと、長期的には日本の研究システムは崩壊してしまうでしょう。
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トイレで決断

2009-11-24 | Weblog
昨日、ちょっとした研究上の決断を下さないといけなくなって、あれこれ考えて決めかねて机の前でしばらく凍りついておりました。結局、結論を出しかねて、とりあえず判断は保留して、その後、トイレに隠っていた時、すっと霧が晴れたように、決断できました。
 昔から、「枕上、鞍上、厠上」と言って、良いアイデアは、ベッドの上か通勤電車の中かトイレの中で出ることになっていますが、これは私の場合もそうです。私は、机の前にじっと座って読書するということが出来ないので、本や論文を読むのは、バスと電車の中に限られています。最近は、この読書の時間の20%ぐらいは、読書に当てず、ものを考える時間にしています。研究上の新しいアイデアは多くの場合、自然に湧いてくるので、困らないのですけど、結局、それらのうちのどれを追求するかという決断は困難です。とりわけ、経済の良くない現在、その研究で、グラントがとれるかどうか、インパクトのある研究成果がでるかどうか、など、純粋に自分の興味とは別の部分の制約を折り合いをつける必要があります。そんな時に、どういう研究アイデアを選択をするか、という決断は重要です。振り返れば、「あの時、バスの中でこのアイデアを追求すると決断していなければ、研究者人生は終わっていただろう」と思いだされるような瞬間が何度かあります。一方、机の前でデータを見ながら論理的に下す決断が正しかったことは滅多にありません。不思議な事に、論理的に正しいと思えるが実際的には誤った決断というものには、論理に対する信頼過剰によるものか、むしろ感情的な思い入れが入ってしまって、捨てる決断が却って困難になるものです。むしろ、直感に支えられた決断には、思い入れが入らず、その後もより客観的に評価ができて、正しい方向に進むことが多いように思います。人間の直感というのは、おそらく、論理や数字に乗らない数多の情報に基づいてなされる、極めて高度な判断機構なのではないかと私は思います。以来、決断に迷った時は、机の前では決断はしない、必ず、まずトイレに行って、それでもダメなら、バスに乗って帰って、一晩寝てから、もう一度、トイレの中で考え直すようにしています。

杉浦日向子さんの漫画で、葛飾北斎の娘のお栄が、締め切り前日に龍の絵が描けずにいると、歌川豊国門下の絵師、国直がそれを見て、こう言います。

「お栄さん、龍ですかい? 龍はコツがありやす。
筆先でかき回しちゃあ弱る、頭で練っても萎えちまう。
コウただ待って…… 降りて来るのを待つんでさ。
来たてえところで、一気に筆で押さえ込んじまう。
他の生き物たあ違うんでね、とらまえ方もちがいやす」

研究のアイデアや決断というのも、こういう類いのものではないかと思います。そういったものの一番大切な部分は、自分の頭の外にあって、じくじく考えていると、その内、思いもかけない時に、舞い降りてくるのだと思うのです。それが何故トイレやバスの中でないといけないのか、不思議ではあります。

研究は相変わらず進みません。トンネルの出口が見えません。何かが舞い降りてくるのを待つ以外に、とにかく、できることを坦々とやろうとしておりますが、こんな時は、自分は何のために苦しんでいるのだろうと情けなくなることもしばしばです。
 いまだに「悲しき熱帯」の下巻を読んでいるのですけど(バスと電車に乗っている時間が限られているので)、その最終章の一部、ブラジルを後にしようとするレヴィ=ストロースの言葉が身に染みます。

何をしにここまでやって来たのだ?どんな当てがあって?何の目的のために?民俗学の調査というのはそもそも何なのか?、(中略)、、
私がフランスを去ってから、もうやがて5年になろうとしていた。私は大学の職を放棄していた。このあいだに、もっと賢明な私の同窓生たちは、大学人としての梯子を先に登っていた。私もかつてそうだったように、政治に関心を持っていた連中はもう議員で、やがて大臣というところだった。そして私はといえば、僻地を走り回り、人類の残りかすのようなものを追い求めているのだ。一体誰が、または何が、私の人生の全うな進路を爆破するように私を仕向けたのか?、、(後略)、、

ブラジルの未開の部族の厳しい生活の様子を読むと、「生きる」ということは大変なことなのだなあ、とあらためて実感されます。「生きる」ということは、黒澤明の映画のようなものではないのだと思わされます。私や(レヴィ=ストロース)は「全うな進路」などがあると思える社会にいるだけ幸せなのでしょう、そう思いました。

ところで、今週半ばから十日余り、出張しますので、その間、しばらく日記の更新はしない予定です。
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新政権の運命を握る沖縄基地問題

2009-11-20 | Weblog
沖縄米軍基地の移転問題、2006年の自民党政権時の取り決めの通り、キャンプシュワブ沿岸部への移転を年内に決定することをアメリカ側は強く押しています。一方、基本的に沖縄在日米軍をグアムに移すことを提案し、沖縄住民の負担軽減を公約に挙げて来た民主党は、従来の基地の沖縄内への移転を認めたのでは、約束が違うということになるでしょう。北沢防衛相はキャンプシュワブ移転案を押し、岡田外相は嘉手納基地への併合案を提言しているようですが、首相は口を濁したままで、感じが良くないです。困っているのでしょうけど、沈黙するのではなく、議論の経過も含めて開示していく姿勢が必要でしょう。
 また、事業仕分けでは、こういう大鉈を振るうのもやむを得ない状況なのはよく分かりますけど、当然、各界の関係者は皆、不満たらたらで、随分、人気を落としました。作用と反作用の法則はどんな局面においても真であるようです。大鉈を振るえば、同じぐらいのダメージが振るった方も被る可能性があることを民主党は自覚しているのでしょうか。こういうやり方ではなく、もっと穏便に、とりあえずは、一律に何割かカットして、末端でやり繰りしてもらうような感じにしないと、各官庁での不公平感を増幅し、長期的には逆効果となるでしょう。そもそも、事業が必要か不要かという問題に対する答えがそう簡単に出るのなら、不必要な事業は継続できないでしょう。新政権が発足したばかりで、社会が多くの問題を抱えていて、なんとか公約も守りたい、そんな厳しい状況で、功を急ぐ気持ちも分かりますけど、問答無用の無言実行ではいけません。なぜ、こういう大鉈を振るわねばならないのか、十分説明し、斬り捨てられたり縮小される事業をあてにしている一般関係者の人々の痛みにもっと配慮が必要であると思います。
 いずれにせよ、首相がもっと表に出て、はっきりと政府の方針を述べないのが悪いと私は思います。政府の大きな方向転換によって、総合的には国民の得になる政策を行おうとしているのはわかりますが、それによって一部の人は逆に痛みを受けることにもなるわけで、そのような人々には十分誠意と言葉を尽くし、その痛みを引き受けてくれるように、頭を下げてお願いすることが不可欠であると思います。
この沖縄基地問題は、取り扱いを誤れば、民主党政権を転覆させるに十分なだけのインパクトをもつであろうと私は思います。マニフェストに「基地の沖縄県内の移転はしない」とは明言していないから、仮に自民党政権の決めたキャンプシュワブへの移転を認めたとしても、公約違反ではない、という岡田外相の言葉は、詭弁です。こんな詭弁を弄して、沖縄県民の長年の願いを踏みにじるのであれば、間違いなく政権は短命に終わるでしょう。
 鳩山氏は、国民に対して、もっとはっきりした態度を見せることが重要だと思います。ゴマカシはいけません。国民は新政権に対して「よくわからない」「不気味」という印象を持ち始めているようです。マズいと思います。鳩山氏、「友愛」という言葉は私はよいと思うのですけど、国民との意思疎通を十分図らずに、こういう抽象的な言葉を使うと、ちょっと前の「美しい国」と言っていた現実把握能力、決断力、実行力、使命感と責任力に問題のある元首相と同じように思われてしまうのではないか、と心配します。
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サマーズと日本の金

2009-11-17 | Weblog
現在、オバマは東アジア訪問中ですが、先週末、

 菅直人副総理兼国家戦略担当相は14日、サマーズ米国家経済会議(NEC)委員長と都内で会談した。経済成長政策や、危機対応の財政・金融政策を平時の政策に戻す「出口戦略」などをめぐり意見交換したとみられる。サマーズ氏はオバマ米大統領とともに来日した。

とのニュースを耳にしました。 ラリー サマーズはクリントン政権の時も経済アドバイザーを務めていましたが、ブッシュ政権になってから、元の経済学者に戻り、ハーバードの学長を務めていた人です。公の席で、ハーバードで女性の教官の数が少ないのは何故か、と尋ねられて、「遺伝的な差も原因ではないか(つまり、女は生まれつき頭が悪い)」と発言し、非難の嵐を浴びて、ハーバード学長を辞任するハメになりました。ハーバードの教授会が不信任決議で、学長を罷免したのは史上初だそうです。因に、16歳でMITに入学したという秀才、サマーズのハーバード大教授就任は28歳の時で、ハーバード教授就任最年少記録であったらしく、何かとハーバード史上初が好きな人です。サマーズの次の学長はDrew Faustという女性になりました。それで、今回、再び民主党政権となって、サマーズはオバマ政権の経済アドバイザーに返り咲いた訳です。私、この人には、セクハラ問題でMITの研究所所長を辞任した日本人科学者のTさんほどは、Arroganceを感じないのですけど、本人を知る人の評判は余り芳しくないようで、「サマーズの謙遜とマドンナの貞操(ありえないもの)」と揶揄されているほどだそうです。ユダヤ人は一般にしたたかでCleverであると言われますけど、彼の男尊女卑的発言や、世界銀行チーフエコノミスト時代の「公害産業を発展途上国に移せば節約できる」発言をみていると、若い時に普通の人のする苦労をせず、あまりにトントン拍子に出世しすぎて、余人の気持ちが理解できないのか、余りClever という感じは受けません。
 オバマの訪日、訪韓、訪中の目的は、アジアへの顔見せで、半ば儀礼的なものと思います。そこにわざわざサマーズが一緒にやってくることが、アメリカの経済状況の切実さを反映しているように気がします。アメリカが日本に求めているのは、「金」と「アメリカ軍駐留地」でしょう。クリントン政権時代から日本の経済は直接よく知っているサマーズは、日本の経済状況を直接見て、日本はアメリカ国債をどれぐらい買ってくれそうか、その他アメリカ主導のプロジェクトにどれぐらい金を出せそうか、日本の新政権の懐具合と気持ちを探りたかったのでしょう。ソ連が崩壊し、中国が資本主義化して来た今、アジア諸国に対してアメリカが望むものは、何と言っても「金」であろうと思います。その点、日中韓を軸としたアジア共同体構想を持つ鳩山政権にアメリカは心安くないでしょう。だからそ、3日をかけて訪中し、中国とのパイプの確立を中心に据えた東アジア訪問となったのでしょう。しかし、中国人はユダヤ人以上に現実的で冷静です。今回の訪中で、オバマはタウンホールミーティング形式で中国人の次世代の若者と直接対話する機会をもったということですが、こういうやり方が中国に対して、どれだけ効果があるか私は疑問に思います。一方、日本人に対しては「鎌倉大仏より抹茶アイスが好き」と言うのは、かなり効果的ではないでしょうか。「抹茶アイスはオレも好物だ、抹茶アイスの好きなヤツに悪いヤツはいない」と思う日本人は私を含めて多数いることでしょう。それに、日本は敗戦国であり、アメリカは好き勝手ができました。中国とは対等です。アメリカの都合の良い要求をこれまでの日本のようにはハイハイとは飲まないでしょう。
 そういう点で、中国との外交はアメリカは真剣勝負と思っているでしょう。中近東、西アジアでの外交、軍事問題を抱えているアメリカは、東アジアと喧嘩している余裕はありません。とにかく中国とはよい関係を保持する必要があると考えているでしょう。一方、日本に対しては、在日米軍の拠点の提供と金、とにかく、それだけは押さえておきたい、ということでサマーズが同行したということなのでしょうと思います。
 日本経済の問題を間近に確認して、サマーズはどう考えたでしょうか。「公害産業を発展途上国に移せば(アメリカや先進経済国は)金を節約できる」という反人道的発言をしてしまうような人ですから、日本に「金がない」となれば、見切るのも早いのでしょうね。
 一方、 OECDが発表した世界の貧困率比較(2000年代半ば)によると、加盟30か国のうち、一人親世帯の貧困率(54%)は日本が最悪だった。全体の相対的貧困率では27位で、最下位はまぬかれたものの、下位層に位置している、とのニュースでは、日本人の経済格差の拡大と貧困化を伝えています。 この際、日本は、国際社会では、二軍にリーグ落ちして、アメリカにも早い所、見切ってもらって、世界との交際範囲を狭め、国内の国民の問題にもっと目を向ける方向に行ったほうが、長期的には、良い国になると思うのですけど、どうでしょうか?
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屋根上でバイオリン、墓場でヌード

2009-11-13 | Weblog
森繁久彌さん死去のニュース。森繁久彌さんと言えば、「屋根の上のバイオリン弾き」。奇しくも、映画版で主役を演じていたTopolもついに引退するらしく、現在、約10ヶ月に渡る「屋根の上のバイオリン弾き」さよなら公演をアメリカ各地で行っています。現在74歳だそうで、森繁さんよりも20歳も若いというのは、驚きでした。屋根の上のバイオリン弾きはもともとはブロードウェーミュージカルで、初演は1964年だそうです。Topolは67年にロンドンの舞台でテヴィエ役を演じ、1971年の映画版はアカデミー賞3部門を受賞したとあります。劇も音楽も、大変良く出来たミュージカルだと私は思います。名作ですね。

篠山紀信さん、公然わいせつ罪容疑で家宅捜索とのニュース。東京都内の公的な場所で、ヌード写真を撮ったのを問題とされたようです。中には青山霊園で満月の夜に墓石の前でのヌードというシャレた趣向のものもありました。これに対して、霊園と墓石の持ち主は、無断で撮影に使われた上、墓石にヌードの若い女の子が絡んだ写真を見て、激怒。その気持ちもわかります。しかし、この写真集の存在を知らなければ、誰も何も文句をいう人はいなかったのです。後から墓場でヌード撮影されたことを知って、関係者の気持ちが激しく害されたということです。激怒する気持ちはわかりますが、そもそも写真集を見るまで、知らぬが仏だった訳ですし、済んでしまったこととして、大目にみてやっても良いのではないかと思うのですけど。前にも述べましたが、木仏を焼いて暖をとったというお坊さんの話もあることですし。墓場でヌードというのも亡くなった人への供養ということにしておくわけにはいきませんでしょうか。
 そもそも、芸術はアナーキーなものですし、それこそが人が芸術にそ求めるものであって、そうでなければ、芸術作品は単なる民芸品に過ぎないと私は思っております。墓場でヌードは、関係者の激怒を買ったという時点で、すでに芸術であります。ヌードという生々しい「生」と、「死」の象徴とも言える墓地、その取り合わせだからこそ、生まれる何かもあろう、というものです。私はヌード鑑賞の趣味を持ち合わせませんし、他人を激怒させても芸術を追求したいとも思いませんから、個人的にはどちらでもよいのですけど、墓場でヌード写真を撮るような人が日本にいることは、日本にとって幸せなことであろうと私は思います。少なくとも、墓場を荒らして金品を盗むよりは、はるかにましでしょう。篠山さん以外に墓場でヌード写真を撮ろうと考えるような写真家はどれくらいいるでしょうか。アイデアを考えつく人はそこそこいるかも知れませんけど、実行する人はこの人以外にはいないかも知れません。普通の人だったら、墓場でヌードというのは、自分の先祖の墓場でヌード撮影が行わた時のことを想像したら、実行には二の足を踏むでしょう 。しかし、そんなことを承知の上で、でも、表現欲を抑えられずにやってしまう、そんなアブナイ人が多少は必要であると思いますし、そして、篠山さんのような人がいる社会は豊かであると私、思います。こういう人は一種の「特権階級」なわけで、警視庁も社会も、無粋なことを言わず、「しょうがないねー」と言いながらコッソリ見過ごしてあげるような鷹揚さが大切だと私は思います。   
 ネットで人々の反応を拾ってみると、半年以上も前に出版された本なのに、どうして今になってガサ入れするのか、という一般人の疑問、写真そのものは猥せつ罪に問われないのに、撮影方法を以て公然猥せつ罪というのは無理があるのではないかという法律専門家の意見、こんなことでイチイチ検挙されていたら写真など撮れないという写真家の意見もあって、私はちょっとホッとしました。多くの人々は冷静かつ包容力があります。このガサ入れは、覚せい剤で挙げられた芸能人のように、いつもの見せしめ目的の恣意的な捜査である可能性が高いと思います。自分が「法」だとでもいうような思い上がった警視庁の体質を示すものではないでしょうか。最近の警視庁、本当におかしいと思います。墓場でヌードよりもよっぽどたちが悪いです。
 篠山氏、これにメゲずにこれからも日本のためにも頑張って下さい。
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ニュース雑感、レヴィ=ストロースの余韻

2009-11-10 | Weblog
アメリカでのヘルスケアリフォーム法案が議会でついに承認されました。賛成220票、反対215票というきわどい数で、賛成票を投じた共和党員はたった一人、民主党と共和党との根本的な考え方の相違が超え難いものであることを示しています。この法案はアメリカ国民全員が健康保険を持つことを義務化するもので、アメリカ国民全員が必要な時に必要な医療が受けれるようにしようということです。国民皆保険制の日本や他の先進諸国では当たり前のことですが、多民族国家で、旧移民と新移民間での利益相反が常にあるアメリカでは、保守派白人系アメリカ人を主とする共和党は、自らの利益にはならないと思われるこの法案には批判的であり、この法案の実行に必要な巨額の資金を主たる理由として反対してきました。一方、私立の健康保険会社は、病気の人の加入を拒んだり、支払いを拒否したりと、弱者の命と健康を犠牲にして、利益を生み出してきた、非人道的な現実があります。こういうシステムの問題は、アメリカ国民の誰にとっても正されなければならないことでありますから、このヘルスケアリフォームは為されなければならないことです。これまで、経済の調子のよかったころに、やるチャンスは何度もあったのに、目先の金を福祉に使いたくない人々がこの法案設立を潰してきました。そのために、経済危機となり、失業率が10%を超えた今になって、ようやく法案が成立することになりました。これが実行されて、その意義を国民が理解できるようになるまでは、まだまだ、時間も努力も必要でしょう。この法案は「奴隷解放」に匹敵する歴史的なものではないかと私は思います。行方を見守りたいと思います。

鳩山政権に対する不満があちこちで出始めました。政権政党ですから、不満が出るのは当たり前で、支持率が落ちていくのも当たり前なのですけど、私は、沖縄米軍基地問題に対する首相のあいまいな態度はマズいと思います。公約に挙げたことは必ず守る努力をしなければならないと思います。嘘つきはドロボーの始まりです。沖縄基地問題で、首相が厳しい立場に置かれているのは、よくわかります。日米安保の要であり、下手をすると日米外交に決定的な影響を与える可能性があります。しかし、国民との約束はそれに勝ります。このジレンマに対して、どのようにアメリカと交渉して、公約を実現するか、その考えと方針をはっきりと説明して国民の理解を得なければなりません。脱官僚を訴えて、政治主導を公言した以上、それだけの責任を自らが負うということですから、それが失敗した場合、国民の政治不信はますます増幅され、平成の無血革命は茶番に終わります。最近、民主党への失望感が予想以上のスピードで広がりつつあるのではないかと私は心配しています。首相は国民の目をまっすぐに見つめ、丹田に力を込めて「失敗したら腹を切る」覚悟を見せないといけません。優柔不断は敵です。

レヴィ=ストロース死去の余韻がまだ残っています。ようやく、悲しき熱帯の下巻を読み始めたところですけど、この本の巻頭に、次の言葉が引用されていることにあらためて目が留まりました。

ローランのために
 お前と同じように、これまでそうした世代は亡びてきたし、これからも亡びるだろう。 --- ルクレティウス「事物の本性について」第三巻九六九

ローランが誰なのか私は知りませんが(彼の息子でしょうか?)、誰かに知ってもらいたい何らかのメッセージがこの本には含まれていて、さらにそのメッセージを強めておく目的でこの言葉が添えてあるのだろうと思います。この言葉の意味になんら目新しいところはありません。祇園精舎の鐘の声や沙羅双樹の花の色に古人が感じてきたものと同じです。わざわざこの言葉を巻頭に添えた意図を思うと、レヴィ=ストロース自身が、彼の民族学という学問における無常性、民族や人種はつかの間の極めて流動的なものだということ、に悲観的な自覚を持っていたことが読み取れます。しかし、彼は、その無常の民族学を通じて、構造主義というある種の「科学的法則」に達し、その虚無感から救われたと一時的には感じたのではなかったでしょうか。そして、何十年が経ちました。永遠の命を持つと期待された「科学的法則」ももてはやされ、批判され、そして最も忌まわしい末路である、忘却と無視、に遭遇することになりました。振り返れば、本当に確実な存在は、「彼自身が経験し思考したもの」だけです。忘れ去られた法則は存在しないと同じことです。そういう意味で、レヴィ=ストロースの著作は、これからも読む価値があるのだろうと思います。(それに彼は、とても文章がうまいと思います)
 レヴィ=ストロースの死を扱っているブログを見てみますと、驚いたことにかなりの数の人が、このニュースに際して、私がレヴィ=ストロースの死を知ったときと同じように反応していたことがわかりました。つまり、「えっ、まだ存命だったのですか!(とっくに亡くなったものと思っていました)」という驚きです。このことが、かつての「知」ブームが去ってしまったのだということを裏付けているように思います。酒場で「目の前のコップの存在」について、延々と考え語って飽きなかった若かりし日々はとうに忘却の彼方へ去り、コップは液体を入れる単なる容器に戻って久しい中年以降の人々が、遠い目をして思い出す、私も含む多くの日本人にとって、レヴィ=ストロースとはそんな存在であっただろうと想像します。だからこそ、このタイミングはずれの彼の死が妙に余韻を引くのではないかと思うのです。あるいは、バッハやモーツアルトが、大作曲家というイメージとその楽曲のみによって覚えられているように、レヴィ=ストロースも肉体を持った人間であることが意識されないほど、人々に意識の中では抽象化された存在となって古典というカテゴリーに整然と仕舞いこまれてしまっていたということなのでしょうか。
 構造主義やポストモダンが人々の話題から消え去り、グローバリゼーションによって、少数民族は保護区に追いやられ、世界中の子供がマクドナルドのハッピーミールで成長するようになった現代を、レヴィ=ストロースはどういう気持ちで眺めたのでしょうか。かつての同胞、友、敵、ライバル、皆が去っていった後も、一人生き残り、「知の時代」の終焉を見届けなけなればならなかった彼は、ひょっとしたら、死んだ我が子の墓を建てる老いた父親のような心情であったかもしれません。あるいは、彼自身、その生来の悲観的性向で、淡々とした気持ちで、まるで窓の外の天気を確かめるかのように、世界の移り変わりを見守っていたのかも知れません。あるいはまた、もし「悲しき熱帯」の巻頭に添えられたルクレティウスの言葉が、この著書をきっかけにして劇的なパラダイムの変換を引き起こした構造主義の行方についての自己予言であったとしたら、総てが筋書き通りに展開していく様を、台本作家が劇を見るような感じで見ていたのかも知れません。
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レヴィ-ストロースと「知」の時代

2009-11-06 | Weblog
先日、レヴィ-ストロースが死去したことを内田樹の研究室で知りました。100歳だそうです。ちょっと驚きました。なんとなく、とっくに亡くなった人だろうと思っていましたし、それに、ちょうど今、彼の本を読んでいたところだったからです。
  私の大学院のころは、いわゆるポストモダンブームが去っていったころでした。ポストモダンが余りにもてはやされたので、ファジーとかニューロとかのように、ポストモダン掃除機とかがそのうち発売されるだろう、と冗談のネタになったほどでした。当時、若かった私は実験科学の方法論に疑問を持っていたこともあって、科学哲学的な話にも興味をもって、その関係で言語学、構造主義の入門書もちょっと読んだりして、それで、レヴィ-ストロースを知りました。レヴィ-ストロースは、私よりもう一世代上の年代のインテリの人なら知らない人はいないでしょう。民族学者ですが、構造主義の巨人です。ちょうど今、私が読んでいる本は、1955年に発表されたブラジルの紀行記、「悲しき熱帯 (Tristes Tropiques)」で、この上下ニ巻の本は、日本では、1977年に川田順造の翻訳で中央公論から各巻、1500円で発売されました。この本の第三刷版を私は大学院時代の友人から借りたまま、この15年以上も読まずに放っておいたのでした。この本はその友人が引っ越していって、私も数度の引っ越しをした後もどういう訳か私の本棚の中に鎮座していて、ようやく先日、ふと思い立ってページを開けて、読み始めたのでした。
 この本の出版に先駆けて川田順造がレヴィ-ストロース本人へのインタビューをしたときに撮影された本人の写真が巻頭に添えてあって、写真では既に初老のレヴィ-ストロースが気難しそうに眉間にしわを寄せてポーズをとっています。このベストセラーの本が日本で22年の後にようやく発売されることになったということでの戸惑いを隠しているかのような表情です。そしてそれから32年が経って、私がようやくこの本を読み始めた時になって、レヴィ-ストロースはこの世を去っていきました。
 この本は基本的に紀行記であって、余り哲学くさいところはありませんし、レヴィ-ストロース自身が言うように30年代の彼のブラジル滞在を彼は楽しいものとは捉えていなかったせいか(そのために、この本は紀行が終わって15年もしてから書かれました)、その客観的、やや批判的で平坦な記述が、かえって読者の興味を引きます。(といっても、私はまだ半分ぐらいまでしか読んでいませんけど) この日本語版のために、レヴィ-ストロースは短い序文を書いていて、子供の時に、父がくれた「広重」の浮世絵がきっかけで随分日本の美術に興味を持っていたこと、その日本へのあこがれのイメージが壊れるのが恐くて、この本の発売時点では、まだ日本に実際に来たことがないことを述べています。半分は日本の読者に対するリップサービスでしょうが、イメージが壊れるのが恐くて日本に来なかったというのは(彼はそもそも民族学者ですから)あるいは、本当なのではないか、と想像したりするのです。「悲しき熱帯」というタイトルにも、ブラジルの未開の種族の中に、すでに西洋文明が忍び込んでしまっていたことに対するレヴィ-ストロースの失望感が表されているのではないかと私は思います。悲しいのは熱帯ではなく、南米の未知の世界に対する期待を裏切られたレヴィ-ストロース本人であって、その心情が逆に対象に投影されているのです。同様に、もし広重のイメージを期待して日本を訪れていたとしたら、彼はおそらく随分失望したことでしょう。あるいは、それをネタにもう一冊本を書いていたかもしれません。
 実存主義も構造主義もポストモダンも、今、振り返れば、まるで何かの熱病であったかのような気がします。ベルボトムジーンズやアフロヘアのインテリ版のようなものだったのでしょうか。野坂昭如が「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、、、」と歌うウイスキーのコマーシャルを思い出します。
 あの頃に「知」と呼ばれた思想家たちは、確かに「知」とはなにかについて考え、何らかの結論に達して、そして「終わってしまった」、そんな感じがします。ポストモダンブームが去って数十年が経ち、サルトルもフーコーもラカンもメルロポンティもこの世を去って久しい、そんな祭の後のような寂しさの中、線香花火の最後の火玉がぽとりと落ちて静寂の闇が訪れるように、巨人が去って行きました。レヴィ-ストロースの死を聞いて、一時代が終わったのだという感じを、あの頃を知っている人は皆、抱いたのではないでしょうか。近代の「知」の祭の終わりを象徴しているようですね。   
 因みにレヴィ-ストロースとアメリカのジーパン会社、Levi-Straussの創設者とは、冗談ではなく、本当に血の繋がりがあるそうです。
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友愛と思いやり、タダほど恐いものはない

2009-11-03 | Weblog
超党派の「チベット問題を考える議員連盟」の牧野聖修会長(衆院政治倫理・公選法改正特別委員長、民主党)らは1日午前、都内のホテルで、来日中のチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世と会談した。牧野氏は「再びお会いできることを願っている」とする鳩山由紀夫首相のメッセージを紹介した。
とのニュース。

 鳩山首相は、以前にも複数回ダライラマと会ったことがあるそうですが、チベット自治運動のリーダーとしてのダライラマが中国に目の仇にされているということで、中国を刺激しないため会見を見送ったということだそうです。日本の首相としてはやむを得なかったのだろうと思いますが、鳩山氏の政治モットーは「友愛」であり、ダライラマ14世は人間で最も大切な資質は「compassion」(思いやり)であると主張していますから、彼らの理想の相性は良いでしょうし、会談が行われていたら有意義なものになった可能性は高いと思いますから残念です。
 私個人的には、「友愛」をモットーとする日本の新しい首相が、「ヒューマニズム推進を支持するためにダライラマと会見して、人類平和を訴える」という姿勢を世界に見せるのは、悪くないと思いますし、そういう建前である以上、誰も会見を批判することはできないと思うのです。しかし、中国政府は、人類平和とか友愛とか思いやりとか、そういるレベルで思考できるほど余裕のある状態ではないでしょうから、チベットのリーダーと仲良くするものはみんな敵とみなして牽制してくるでしょう。話が通じない相手は敬遠するのが確かに無難かも知れません。中国政府が、チベットの自治権を与えてしまうと、それによって民族独立運動が各地で火を噴く可能性があるのではないかと想像します。もし複数の民族独立運動が同時に起これば、中国政府は制圧できないのではないか、少なくとも国内の内紛は、先進国化してアジアの覇権を手にしたいと思っているその野望実現への妨げになるでしょう。それを中国政府は怖れていて、チベットの自治を認めることができないのではないかと思うのです。しかし、どう考えても人口14億の広域にわたる多民族国家が一つの政府で治まるはずがないと私は思います。中国はやがて漢民族と非漢民族との間の対立がやがて激化し、ソビエト連邦が崩壊したように複数国へと分裂することは避けられないのではないかと想像しているのです。ソ連解体はゴルバチョフのペレストロイカ後に起こった庶民の生活の急激な不安定化が引き起こしました。中国の急激な近代化は既にかなりの貧富の差を生んできています。民族問題でなければ、いずれこの国内の貧富の差からくるひずみが中国を内から揺さぶるのではないかと私は思っています。
 私、ダライラマ14世の著書は一冊だけ読みました。2001年の「Compassionate life(思いやりのある生活) 」です。当たり前のことが易しく書いてあって、私はとても好感を持ちました。ヒューマニズムは政治に優先します。そうあらねばなりません。そしてヒューマニズムを推進し、人間が成長し、社会が成長するのに最も大切なことはCompassionという資質を育むことであろうと思います。中国政府がヒューマニズムをその中心に置いていないのは、単に政府としてそれだけの余裕がないのだろうと良いように解釈していますが、儒教や、仏教をはじめとする宗教が忘れ去られた中国で、伝統的に現実主義者である中国国民の気質を考えると、中国政府が「友愛とか思いやり」のような非物質的で目に見えないものに余り価値を認めないのも仕方がないのかな、とも思います。しかし、歴史を振り返れば、何千年も前は、おそらく世界で最も進んでいた国は中国でありました。法治国家を一時的にでも世界で初めて構築したのは中国であり、儒教や道教といった(神という概念の助けを借りない)現実に即した高度の思想的活動を行い高い倫理観を持っていたのも古代中国でした。これらの偉大な中国の遺産がなければ、今の日本は勿論のこと、ひょっとしたら中世以後のヨーロッパもありえなかったであろうと思います。あるいは、中国人は、産業革命以後の近代の物質文明社会で取り残されたということで、かつて世界最高の文化を持っていたという彼らの自尊心が必要以上に傷つけられてしまっているのかもしれません。中国政府のアグレッシブかつディフェンシブな対応というのは、そんな屈折した心理によるものではないかと想像したりするのです。

産經新聞が無料で読めるサービスをiPhoneユーザーに行っているという話を知りました。民主党政権となっても産経の民主党バッシングは全く止む気配はなく、自民党はちょっと復活不可能に思われますし、一体、その意図は何なのか、私はよく理解できません。経団連は、「民主党政権にすり寄っても、自民党の時のような美味しい汁は吸えないだろう、どうせすり寄っても無駄ならば、とことん民主を叩いた方が良い」そう考えているのでしょうか。そうなら、iPhoneの無料サービス、世の中、タダほど恐いものはありません。iPhoneユーザーの若い世代に、反民主党メッセージを吹き込み、世論コントロールを企み、国民の生活よりも大企業の利益とGDPを優先してくれる政党の人気復活を図るための策ということです。無料サービスにして、新聞社としての利益を犠牲にしても、反民主党メッセージが国民に浸透してくれれば、もとは十分とれる、そう考えているわけで、大企業がこれまで自民党の優遇政策のおかげで、国民の生活の犠牲の上に、どれほど潤ってきたか、よく分かります。この無料サービスで、そのうち、国民が「トヨタ様やキャノン様のおかげてワシらは喰っていけるのじゃ、ありがたいことじゃ」とでも思ってくれたらシメたもの、と考えているのでしょう。iPhoneユーザーの若い世代は情報世代で、そんな経団連、自民党の広報誌の提灯記事を鵜呑みにはしないだろうと私は楽観してはおりますが。
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