百醜千拙草

何とかやっています

代謝マップ

2021-10-29 | Weblog
最近、細胞内代謝をちょっと学んだりしているのですけど、この広大で芒洋とした分野にはすっかり圧倒されて、まるで島陰一つない太平洋の真ん中で右も左も東も西もわからず闇雲に泳いでいるような感じです。

細胞代謝経路は昔から「がん」などの疾病のターゲットとしても研究されてきており、実際、核酸合成経路などの重要な代謝経路の阻害剤が昔から抗がん剤として使われてきております。時を経て、低分子代謝産物の測定が技術的に容易になってきたこともあり、この十年ほど、再び細胞内代謝がブームとなり、私も図らずも偶然そこに関わることになりました。しかし、「遺伝子の時代」に教育を受けた私は、代謝経路に関しては、学生時代の何十年も前の生化学の教科書的知識が断片的にある程度だったので、ズブの素人です。あまりに知らないことだらけで何を知らないかさえもわからないような状況でしたので、何か道標になるようなものがあれば助かるかもと思って、しばらく前に、有名なRocheの代謝マップを申し込み、先日、届きました。
こんなやつです。



このマップは第一版が1965年に発行され、現在は改訂4版となっています。当初はグルコース代謝を中心としたマップでしたが、要望に答えてアミノ酸や脂肪代謝を含め、1972年に第二版、さらに多くの知識の蓄積を反映した第三版が1992年に発行され、Part 1とPart2に分かれました。(上の写真はPart 1)以後も知識の蓄積は増大の一途ですが、すでにこの2.5平方メートルのサイズにはとても収まりきらないということで、3版からは限局的なアップデートにとどめた第4班が出版40年を記念して、2005に発行されました。現在はドイツ語版は手に入らず、英語版のみになっているようです。以後、さらに15年ぐらいが経っており、第4版時点でも情報はかなり限定しているので、このマップでさえもそれほど包括的ではないとは考えられます。しかし、それでも十分に圧倒的なこのマップは、生命科学分野のごく一部の分野の100年に至る人類の知識の蓄積のそのまたごく一部を示したものです。

Warburg effectに名を残すOtto Warburgがノーベル賞を受賞したのが1931年、クエン酸回路の発見がノーベル賞になったのが1937年ということですから、代謝研究は古い歴史をもちます。そこに関わった無数の科学者や学生の努力の集積、800万本の代謝関連の論文の一部がこのマップに表現されております。素直に感動しますね。

早速、床の上に広げて、興味のある部分から見始めました。中心の円状のものがクエン酸サイクルを示しています。結局、五分で、このマップを使って代謝を包括的に理解しようとするのは諦めました。このマップでさえあまりに大きすぎます。実用性よりは、人々の努力の歴史を示す芸術作品としての価値の方が高そうです。後ろの壁に貼っておけば、ズーム ミーティングの時のよい背景になるかも知れません。

その後、ふと10年ちょっと前に別の施設に移った人のことを思い出しました。もともとは別の講座で生殖系器官の研究をしていた基礎研究者でしたが、扱っていた分子のノックアウトマウスで糖代謝が改善するとわかってから代謝研究にシフトした人で、最近どうしているかなと思って検索してみると、所属大学のホームページには、数年前にその発見をもとにベンチャーを作って医薬品開発もしているとありました。順調にやっているのだなあと思ってその企業のホームページに行ってみると、実は、彼は昨年末に急逝しており、会社の活動は停止したという告知があって驚きました。彼も昨年亡くなった私の大学院指導者の人たちも同年代です。施設を移る直前、初夏の美しい晴れの日に道端で偶然会って、二、三言、話をした時のことを思い出しました。時間というのはあっという間に経ってしまい、全てのものは変わっていくことを実感しました。
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相対的な幸福

2021-10-26 | Weblog
ショパンコンクールで優勝した人は二月まで自宅に帰れないようなツアースケジュールが組まれているそうで、今後、世界を回って人々の賞賛を受けることになります。一方、残りの140名ほどの参加者はコンクール前と対外的にはさほど変わらぬ日々であることでしょう。音楽は人それぞれの好みで、そもそも参加できるということ自体、すでに多くの人々に認められた証拠ですので、彼が圧倒的に優れているということではなく、単に審査員が気に入った点と気に入らなかった点の総合点が他の人よりも高かったというだけのことです。

このコンクールの1965年の優勝者はマルタ アルゲリッチで、その時のファイナルで弾いたコンチェルト一番の演奏がYoutubeで見れますし、その後三十年後にN響と共演で弾いた同曲のビデオも見れます。私、アルゲリッチの指使いのキレのいい男らしいところ(女性ですけど)が好きですし、派手な速弾きもいいと思ってはいるのですが、これらの彼女の演奏と今回のコンテスタントや他のプロの人の演奏を比べみても、アルゲリッチがとりわけ良いとは感じませんでした。アルゲリッチや今回のBruce Liuが技術的に優れているのは間違いないでしょうけど、そもそも音楽は技術面以上に、聞き手の好みでそれぞれが聞いて楽しいかどうかを評価するものだと思いますし。音楽のコンクールで誰が何位だったとかいう話にどういう意味があるのでしょう。

今の世の中、競争社会で、みんな勝ち負けで判断する傾向があります。勝ったからよい、負けたからダメで、勝ったものが負けたものを見下したりします。これは資本主義を支える人間の根源的な性質に由来していると私は思います。

悪魔の辞典では「幸福」の定義に、「他人の不幸を眺めることから生じる快適な感覚」とあります。シャーデンフロイデ、人の不幸は蜜の味、ですけど、これは皮肉でもなんでもなく、我々が感じる「相対的」幸福の中心原則です。

コンクールに勝つとなぜ嬉しいと感じるのでしょう。努力が報われた、人に認めてもらえた、という気持ちの根源を深く考えれば、それは、大勢のライバルが敗退していったという事実があるからこそです。もし幼稚園のように、全員が金賞で全員が優勝だったら、コンクールの優勝には意味がないし、「勝利の快感」もありえないです。勝ち負けというのはそういうものです。勝利の快感は敗者の屈辱に支えられている。そうした競争を、資本主義社会では、既得権益もつ権力者が「切磋琢磨」によって良いものが生まれのだ、と肯定的に喧伝し、社会を競争によってクラス分けをするよう変えてきた結果、一部の勝者を目指して人々は限りある人生を競争に明け暮れて過ごし、結果、勝った人も負けた人も、不幸の中で死んでいくということになるわけです。そして権力者自身は常に審査員席に安全な位置を確保して、他人の努力を批評する立場なのです。

人間の幸福の半分以上はこうした相対的なもので、比較する他人の不幸を必要とする幸福であって、油断すると、勝った方は驕り、敗者や弱者を見下し、負けた方は勝者を妬み、羨み、場合によっては憎しむことになり、幸福を求めるがゆえに、醜い心を生み出しては、ますます業を深めて、不幸の蟻地獄に陥ることになるのです。あー、アホらし。

社会がこうなってしまっている以上、勝った負けたの相対的な幸福感から完全に離れるのは難しいものです。しかし、そんな時には「わたしはわたしのことをする、あなたはあなたのことをする」とゲシュタルトの祈りを唱え、夏休みの青空や、休日の昼間の一杯のビール、あるいは、薔薇の花の上の雨粒や子猫のヒゲ、銅製のヤカンや毛糸のミトンなどを想って、絶対的な幸福というものがあることを思い出すのがよいと思います。
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Fazioli - Steinway - カワイ - ヤマハ

2021-10-22 | Weblog
とういうわけで、三日に渡ったショパンコンクールのファイナルステージが水曜日に終わり、深夜に結果が発表されました。

途切れ途切れながら、三日、ショパンのコンチェルトを何度も聴いていると、さすがに素人の耳にも違いが聞こえてきて、最終日の第一演奏者の小林さんの力強い第三楽章が終わり、あと三人を残すのみとなった時、ひょっとすると、反田さん、小林さんで日本人ワンツーになるのかも知れないと思って、そうツイートしました。しかし、その後の演奏者が強力でした。特に優勝者となった最後の中国系カナダ人、Bruce Liuの演奏は圧倒的でした。日本人二人とも私は第二楽章の細やかで情緒纏綿なところが最大の見せ場だと思ったのですけど、Bruce Liuの見せ所はなんといっても正確で粒のそろった打鍵での速いパッセージで、第三楽章の最後のvivaceは非の打ち所がないと素人の私でも感じました。演奏後の観客の多くがスタンディングオベーションで演奏を讃え、その立って拍手している人の数が他のコンテスタントに比べて明らかに多かったのが私の感想を裏付けていると感じました。

彼の一つの勝因は、これも素人考えですが、Fazioliのピアノとの相性ではないかと思います。Fazioliはスタインウェイのきらびやかな派手さは抑えられている一方、音がクリアに響くように感じます。話にきくと、そもそも、スタインウェイの欠点を克服したピアノを作ることを目指して工学的に計算してデザインされたピアノがFazioliなのだそうです。倍音が多く響くと華やかで豊かな響きになる一方、歯切れ良さが犠牲になります。第三楽章の速くて粒の揃った音を奏でるのに、Bruce Liuの正確な指使いとFazioliのクリアな音質はベストのコンビネーションだったのではないでしょうか。

とはいうものの、反田さんはGadjievと同率二位、小林さんはKuszlikとの同率四位、で二人とも入賞しました。日本人で二位は内田光子以来の快挙だと思います。

入賞者八人のうち女性は二人です。演奏を聴いて思ったのですけど、ショパンの技巧的で速い部分の音を歯切れ良く打鍵するのにかなりの手指の筋力とそのコントロールが必要なようで、その点で、そもそもショパンのコンチェルトは女性演奏者に不利なような気がします。

また、入賞者のピアノの選択も興味深いです。一位のLiuはFazioli, 二位のGadijevはカワイ、三位のGarcia-Garcia、五位のArmelliniもFazioli、六位のBuiがカワイ、残りの入賞者3人はスタインウェイを弾いたということで、入賞者に限れば、Fazioli 三人、カワイ二人、スタインウェイ三人とFazioliとカワイの躍進、王者スタインウェイの後退が見られます。6年前の前回はヤマハを選んだ人も多かったようですが、今回は残念ながらファイナリストの誰もヤマハは選びませんでした。

繰り返しのようになりますけど、プロがフェラーリのようなFazioliやベンツのようなSteinwayのピアノを好むのは当然でしょうけど、彼らが初心者だったときはきっとカローラのようなヤマハのアップライトでドレミを覚えたに違いないと思います。というわけでヤマハはやっぱり偉いと思ったショパンコンクールでした。

ファイナルでのBruce Liu, 反田さん、小林さんの演奏。三人とも一番を弾きましたが、下のビデオの第三楽章の一部などを聞きくらべてみるとFazioliのクリアな音が際立っているように思います。
また、この三人の第三楽章の最初から最後のタッチまで演奏時間を比べてみると、Bruce Liu が9’22''、反田さんが9'33''、小林さんが9'48とLiuのテンポが少し速いようです。これも山場の速いパッセージを際立たせた要因になっているでしょう。

Bruce Liu - FAZIOLI

反田さん - Steinway

小林さん - Steinway
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山葉さんのおかげ

2021-10-19 | Weblog
五年に一度のピアノコンクールの最高峰、ショパン コンクールが大詰めを迎えています。年齢制限や厳しい応募資格を満たす必要があることもあり、すでに選りすぐられたトップクラスの人々しか参加できません。参加者を見てみると7月に始まった予備選には約140名ほどが参加、その中で日本人は30名、本土中国と並んで最大勢力。台湾や中国系カナダ人などを含めると、中国系はその二倍ぐらいはいると思いますが。ついで地元ポーランドが16人、韓国14人など。今月から本選が始まり今年は日本人5名が第三ステージの23名の中に進みました。反田恭平さん、角野隼人さん、古海行子さん、小林愛実さんと進藤美優さんです。小林愛美さんは前回ファイナル進出者、反田さんは日本トップの評判、角野さんは人気のYoutuber。第三次予選の様子を見てみましたけど、みんないいです。
そして週末に第三ステージが終わり、反田さんと小林愛美さんの二人がファイナルの12人に入りました。あと数分でファイナルが始まります。日本人優勝者はまだ出たことがないので期待が高まります。

あいにく、私はショパンはあまり聞かないのでよくわからないし、みんなうまいのはよくわかるので優劣の評価は全くできませんけど、一流のプロの人は指使いをみているだけで、美しいと思いますね。とくに反田さんは手の動きは武術の達人のようです。しかし、ショパンのピアノ曲ばかりを聞いていると(そもそもそう好きというわけでもないので)ちょっと食傷気味です。私にはショパンというのは食後のデザートを楽しむように聞くのがあっています。一日2回のセッションで四人ずつ、合計八時間を何日も聴き続ける審査員はすごいですね。きっと好きな人は3食がケーキでも平気なのかも知れません。

楽器の選択は、演奏者のほとんどの人がスタインウェイを選びました。上の三次予選まで行った日本人演奏者は全員スタインウェイです。パラパラ私が見た中では、スタインウェイを選ばなかった少数派のうち、4人がカワイ(Shigeru Kawai)、4人がFazioli、2人がヤマハを選んでいました。スタインウェイはダイナミックできらびやかな感じがショパンと相性がいいのだと思います。高級ピアノとして最近評価を上げているFazioliは低音から高音までのバランスがとてもいいように思います。カワイは繊細な音がいい感じ。もっともカワイもヤマハもスタインウェイをお手本にグランドピアノを作っているようですが。

しかし、これだけ多くの優秀な日本人音楽家や中国人音楽家が国際的に活躍しているのは、多分ヤマハのおかげでしょう。ヤマハの量産ピアノや音楽振興事業のおかげで日本人は音楽に親しむ機会が増え、それが音楽家の裾野を広げました。ヤマハやスズキがなかったら、今日、日本人音楽家が世界的に活躍することはなかっただろうと思います。いまでは中国が独自に高品質のグランドピアノを生産するようになったそうで、チャイコフスキーコンクールでは実際に中国人参加者によって使われたようです。そのうちショパンコンクールにも中国製ピアノが登場するかも知れません。

追記。ファイナルステージの最初の午後のセッションが始まりました。ファイナルは二つのピアノコンチェルトのうちのどちらかを弾くことになりますが、一人目、二人目は一番を選びました。歴史的に一番を弾いた人が優勝した率が高いらしいです。現在、中休みを挟んで三人目の反田さんの演奏が始まったところです。反田さんもやはり一番を選びました。オーケストラの人も大変ですね。

つい最後まで聞いてしまいました。聴衆はスタンディングオベーション、指揮者も大満足の様子。本人も満足の出来栄えの様子。反田さん、これで少なくとも入賞は間違いなしではないでしょうか。

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限りある楽しみ

2021-10-15 | Weblog
平日に三日ほど休みをとって、季節はずれのキャンプに出かけてました。夏のキャンプでの子供づれの家族はいませんし、季節も少し肌寒いということで、キャンパーはまばらで、ほぼ独占状態です。湖のすぐ横のサイトで、色づき始めた木の葉がパラパラと舞う中、静かな水面を見ながら肌寒い朝に暖かいコーヒーを楽しむのは素晴らしいです。

そのしばしの快楽のために、遠くまで多くの荷物を積んで移動し、寝心地の悪い寝床で体のアチコチを軋ませながら寝て、森の湿気のために大量の朝露に濡れたテーブルを掃除し、左右上下からやってくる虫を払いつつ、夜中は食料を漁りに来る正体不明の夜行性動物と戦いつつ、という苦労をするだけの甲斐があるかどうかは個人の価値観。帰ってきて家で寝たベッドは心地よかったです。多分、もう五年したら少なくともテント キャンプはできないだろうと感じました。

悪いことに、キャンプサイトにも電波は通じているので、ついメールを見たりと要らぬことをしてしまいました。対応しないといけない連絡というのは必ず休暇中に来るというのは、誰の法則でしょう。

湖上の初秋の空は青く深く、昼は青空、夜は焚き火の横で星空を眺めつつ、じっと森の中に座っているのは、贅沢なものです。たまにはいいものだ、と思います。

あと死ぬまでに何回、こういう経験ができるだろうかと思いました。それは、「明日」の数と同じように、有限数であって、ひょっとしたらこれが最後かも知れないのでした。




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雑誌の選択

2021-10-12 | Weblog
ようやく二年越しの小さな論文を投稿できてホッとしました。アイデアはまずまずと思うのですけど、結果がパッとしない、最近、繰り返されるパターンで、とにかく出版することを優先し、このマイナー雑誌に初めて投稿しました。あるグループの「分子」の機能をある「組織」で調べる、という形の論文ですけど、その分子の研究をやっている人々と、その組織の研究をしている人々のオーバーラップが余りないのです。その「組織」の専門誌に行くと結果がパッとしないのが致命症なのが目に見えているので、やむを得ず、今回はその「分子」の専門誌にしました。この雑誌はロングアイランドのコールドスプリングハーバー研究所の出版部が出しているマイナー雑誌の一つで、投稿と同時に同出版部が運営するpre-printに発表するオプションがあります。これは便利なシステムだと思います。

次の論文ネタも同じような感じです。ある細胞内小器官のタンパク輸送を司る分子の異常でヒトの病気が起こるということをマウスモデルで証明したという報告になる予定ですけど、ヒト遺伝学の雑誌に行くには、症例数が足りず、生物学系に行くには知見のインパクトが低いということで、遺伝学雑誌に行っても、医学系雑誌にいっても、生物学系雑誌にいっても、いずれもちょっとずつ足りないという状況です。また、この遺伝子に関するこれまで出版されている論文すべてを検索しても100本もないマイナー遺伝子で、その点でもインパクトがいまひとつ。困って、身近にいるヒト遺伝学をやっている人に相談した結果、この遺伝子異常でおこる病気は過去に報告がないこともあり、とりあえずヒト遺伝学専門雑誌の最高峰をトライしようという話になりました。ちょっと難しいだろうとは思いますけど。しかし、ヒトの遺伝学専門雑誌というのはこの雑誌と二番手との間のギャップが大きいのです。だいたいどこの分野もそうなっていくようで、各分野でトップのジャーナルと二番手以降の間のギャップは開いていく一方に思えます。
 
逆にかつてはパッとしない雑誌だったのが、いつの間にか順位を上げていて驚く例も稀にあります。例えばNARという分子生物学雑誌ですけど、私が学生だった当時は分子生物学雑誌はMBC, MCB, Mol Cell, G&D, EMBOというあたりがトップ ジャーナルで、NARはセカンド ティアでさえなかったような感じでしたが、いまや"Cell"ブランドのMol Cellに次ぐインパクトファクターで、MCBやMBCはおろか、G&DやEMBOも抜いてしまいました。とくにブランド力があるというわけでもないし、不可解です。

インパクトファクターは組織的な相互引用や総説論文を増やすなどで操作が可能なので、必ずしも掲載論文の質を反映するものではないですけど、多くの人がインパクトファクターの高い雑誌に論文を載せたがりますから、ふつうはインパクトファクターと掲載論文の質は相関します。

昔、普段のインパクトファクターが1前後のとあるマイナー雑誌がある年だけ50近いインパクトファクターを記録したことがありました。調べてみると、その雑誌の原著論文のほとんどの引用回数は一桁前半未満なのに、一本だけ極端に多い引用回数を稼いだ論文があって、その一つの論文がその雑誌のインパクトファクターを最高位に押し上げたのでした。

私のやっているようなマイナーな研究分野のマイナーなネタではどうやってもインパクトは低いです。それでも折角の研究をそれなりの形にはしてやりたいという気持ちはあります。インパクトファクターの高い雑誌に掲載されれば、論文は読んでくれる人も多くなるわけですし。

ただの自己満足に過ぎないと言われればその通りですけど、しかし、研究においては、自己満足以上に重要なものはないと私は思っております。
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Senior moment

2021-10-08 | Weblog
今日は別の学会の発表日で、これもオンラインですけど質疑応答はライブでやるので、また上半身だけ取り繕います。実は先日の学会のサテライトのイベントも今日あります。それで、昔の知り合いの発表を探そうとして、学会のオンラインサイトで検索しようとしたのですけど、顔は浮かんでくるのに名前がなかなか出てきません。しばらくその人と関連した昔のできごとをいろいろ思い出しながら、何とか名前を思い出そうとしたのですが、でそうででないくしゃみにように、結局出てこなくてあきらめました。

「ど忘れをする」とか「勘違いをする」は英語で「have a senior moment」といいますけど、この言い回しを、私は昔、私よりも20歳年上の人のメールの中で覚えました。何かの件で行き違いがあって、私が忘れたか勘違したのではないかと思ったようです。

その当時、メールを送ってきた人は中年後期であって、勘違いしていたのも、シニアなのも私ではなくその人の方だったというのが、可笑しかったのですけど、それから随分経って、もう可笑しいと思えない年に私もなってしまいました。先日は、緩い階段を杖を片手に一歩ずつ降りてくる老人とすれ違って、つい将来の自分の姿を重ねてしまい、次に住む家は平家でバリアフリー、コンビニとスーパーが徒歩圏内、病院までは車で十分以内の自然豊かな静かな温泉地で海が見えて冬は温暖、夏は湿気がすくなくてさわやかところにしよう、と思いました。多少の妥協は必要ですが。

結局、その知り合いの名前は思い出せず検索するのは断念しましたが、大抵は忘れたころに思い出すものなので、まあいいかと思って放置しています。

「Senior moments」で思い出したスリー ディグリーズの「When will I see you again」を。最近のことはどんどん忘れるのに昔のことはよく覚えているものです。

(意訳)はーあー、ふーうー、ど忘れ。いつ再び思い出すのでしょう?いつ分かち合えるのでしょう、ど忘れを。永遠に待たないといけないのですか?一晩中泣いて苦しまないといけないのですか?
いつ心は通いあうのでしょう?ど忘れは恋人?それともただの友達?
これは認知症の始まり、それとももう末期?
いつ思い出すのでしょう?
、、、

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一人残されて昔を懐かしむ

2021-10-05 | Weblog
ノーベル医学生理学賞発表されましたけど、ちょっと驚きました。失礼ながら他にもっと適切なものがあるのではないかと思いました。Piezoに関してはちょっと触っているので、フォローしていますけど、今では関連した論文が週に1-2本出れば多いぐらいのレベルです。比較するべきではないとは思いますけど、昨年のHCV、一昨年のHif1、その前のImmune Checkpoint とかを思い出せば、インパクトという点で見劣りするように思います。近年は、研究そのものが細分化してしまい、広く大きなインパクトがある発見や発明というものそものが少なくなったような気がします。受け手があってはじめてインパクトは起こるので、受け手の数とその影響度の大きさがインパクトを決めます。そういう点からは近々、RNAワクチンでしょうけど、委員会はあと数年は様子を見るでしょうね。ま、インパクトがどうとかイノベーションがどうとか、研究している本人にとっては、余計なお世話でしょうが、賞というのはそういうゲームですし。私のやっていることはインパクトはゼロですけど、自分が楽しいことが一番だと思っています。

今日は、先週末から始まった学会の最終日です。学会はハイブリッドですけど、参加者の2/3はオンラインの参加を選びました。私もオンラインのみの参加です。というわけで、気楽なもので、空港に行ったり、辛い飛行機でマスクをつけて移動したり、晩飯の心配をしたりする必要もありません。発表も、バーチャルポスターで、ウチの優秀な技術員の人がオンラインポスターの作成もそのナレーション録音もしてくれてすでに提出ずみ、質疑応答時間も特にないというので、ふらっとサイトを覗きに行って、面白そうなものを見ればよいです。知り合いに会うのはできませんけど、知り合いの多くも会場には来ないようですから行ってもあまりメリットはなさそうです。今年は去年と違って、ライブ配信はGuidebookというソフトをつかっており、これが強烈に使いにくいです。

最近はウチの分野の学会も面白くなくなりました。初めて参加した時は、とても面白いと思ったものでした。当時はゆったりした時代で、学会も丸々一週間あって、水曜日の午後は観光のために開けてあるというようなスケジュールでした。その時、一緒に参加した大学院時代の師は昨年亡くなってしまいしたが、会場のそばの海辺のシーフードレストランで一緒に昼食を食べたのを昨日のことのように思い出します。会場は活気があり、多くの企業がコースディナー付きの教育講演を開催し、そこでタダ酒を飲み、タダ飯を食べながら、いろいろな所から来た人の中に混じって面白い話を聞く非日常の一週間でした。今では会費を払ってのビュッフェで、見慣れた人がどこかで聞いたことのあるような話をして、その中身は翌日には忘れてしまうという有様です。

学会が面白くなくなった理由は複数あります。第一に分野が縮小しつつあること、第二に主に研究資金の問題で基礎研究よりも応用研究的なものに重点を置いた研究が増え、製薬会社の下請け研究みたいなものが増えたこと、それから、私の興味が分野の中心的な関心からかなり外れてきたこと、などが理由として浮かびます。研究が細分化したこともあると思います。先のノーベル賞のように、多くの人が関心を共有するような研究は少なくなったと感じます。しかし、結局、多くは私の側の問題です。早い話が「ああ、昔はよかった」と思うほど長く居すぎたこと、それから今のこの分野の研究にあまり刺激を感じなくなったことが大きいです。

大体、研究は三十年周期で焼き直されるように思います。いま流行っているAIやコンピュータによる種々の解析などは、90年台に流行した人工生命研究を思い出させますし、その人工生命研究はさらに60年台に流行したサイバネティクス研究の焼き直しでした。われわれの研究分野も一回り前の流行を新しい技術を使って焼き直したという感じのものが増えてきた(と感じる)ようになりました。はやりすたれはどこの世界にもあり、それは螺旋階段のように循環しているようです。

きっと、私の年代以上の他の人も私と同様の虚無感を多かれ少なかれ抱えているでしょう。彼らはそれでも、研究の中身そのものよりも、ビジネスチャンスとか出世の機会とか政治力の強化とか、研究の周辺部のことがらにそれなり興味を見つけたりして、なんとかやっているようです。臨床家や教育者なら日々の義務をこなすのに忙しくて虚無感を感じているヒマもないかも知れません。

みんなそうやって次に移っていくのでしょうけど、そうして周りを見渡すと自分一人が、同じ場所に取り残されているように感じて、つい昔を懐かしんでしまうのです。過去に輝いていた(ように見える)研究への供養のようなものかも知れません。
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人生はなぜむなしいのか II

2021-10-01 | Weblog
先日、「人生はなぜ虚しいのか」というタイトルで思うところを書いたのですけど、その中にも、それからそれを書くきっかけとなった菊谷さんのビデオにも、「なぜ」という問いかけに対する「答え」が示されていません。そのことについても書いておこうとちょっと思ったので。

菊谷さんのビデオでは「なぜ人生は虚しいのか」という問いに対して、いきなり「仏教では人生は虚しいものであると教えている」と説明します。

これは、なぜツイッターをブロックするのか、と聞かれたブロック太郎が「ツイッターにはブロック機能がついているから」と答えたのと一見、相似のように見えるかもしれませんけど、全く異なるものであります。

仏教で人生は虚しいと教えているから人生は虚しいのだ、というのではなく、あえて言うなら、これは、「人はなぜ人生が虚しいのかと問いかけずにいられないのか」という問う側の問題であると思います。これは循環論法のようですけど、この問いを問うこと自体が、まさに人生が虚しいものであるということの証明に他ならないということではないでしょうか。

週末に川べりを散歩したときに見た水鳥は顔を水に突っ込んで水草を食べ、嘴を使って身繕いし、ときどき羽を広げて伸びをし、しばらく休んでは同じことをずっと繰り返していました。毎日毎日、彼らは死ぬまで同じような日々を過ごすのだろうと思いますけど、多分、彼らは「人生はなぜ虚しいのか」と自問自答したり、あるいは「生きているのが辛いから死のう」とも思わないだろうと想像します。ただただ、栄光の生命そのものを生きております。やってくる困難は右から左へと受け流し、受け流せない困難は素直に受け止める、シンプルです。

人生の虚しさを実感して、「人生はなぜ虚しいのか」と問わずにいられないのが人間で、そう問う瞬間に、人生は虚しく、そして、そう問うことによって、人はその人生の虚しさに対処しているのだと思います。
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