不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

百醜千拙草

何とかやっています

殺生

2021-11-30 | Weblog
長らく生理学的な研究を行う必要から、モデル動物を作成してそれを解析するというスタイルでやってきましたが、当初から動物を使う実験には抵抗がありました。私に限らず、動物を実験に使ったり殺したりするのが好きな人はまずいないと思います。昨年のコロナの施設閉鎖の時、実験動物の間引きをせざるを得なくなり、そうしたが日々が続いた時に動物実験は自分にはもう無理だなとつくづく感じることになりました。

さまざまな理由で、人間は動物を殺し、実験に使ったり、色々に利用したり、食料にしたりするわけですけど、実験に関して言えば、例えば私が学生だったころと今では動物実験における倫理上の理由における規制はずいぶん厳しくなりました。実験の結構細かい手順を書面にして、倫理委員会での認可を受ける必要があります。動物を実験に使って最後は殺すことになるのを、必要悪と認める一方で、必要ない苦痛を動物に与えないようにするという動物福祉の理由だと思います。

しかし、例えが悪いかも知れませんけど、人間の世界でも、他の国を征服してその人々を殺したり奴隷にすることは比較的近年まで平然と行われてきました。現在ではヨーロッパ系人種が、アフリカ黒人を使役動物として扱うことも公然と差別を行うことも許されていません。同じく、20年前はアメリカの研究室で働く外国人ポスドクの権利は非常に限られたものでしたが、今は最低賃金やさまざまな権利が保障されるようになりました(これによって、研究室は外国人ポスドクを簡単に雇えなくなり、外国人からするとポスドクの機会が減って小規模研究室の運営が困難になっているわけですが。ちょうど、社員の最低賃金をあげると、穴埋めに誰かがクビなるのと同じ理屈です)それはともかく、こうした人間界の動きは、世界的な人権運動の高まりの結果でしょうけど、動物実験の規制強化も、生き物全体における(人間からみた)権利意識の拡大の一部だろうと思います。

人間も動物も他の生き物の命を犠牲にして、食料として自分の血肉に変えないと生きていけませんけど、だからと開き直って、生き物の生命を軽視するようでは(動物ではなく)人間としての精神の発達はないと思います。ダライ ラマが主張するように、人間は「思いやる心」を持つ能力があり、思いやりの心こそが幸福の源泉だと私も思います。思いやる心を自分や家族から外に拡げていけば、動物も植物も自然と含むことになります。

そんな人々の意識の高まりの結果、スイスでは、これまでにも何度か署名運動が行われて、動物実験の廃止が国レベルの議題に上り、国民投票が何度か施行されております。動物実験廃止が可決されたことはありませんが、投票の都度、3-4割弱のスイス国民が動物実験廃止に賛成してきており、来年の始めにも、また動物実験中止を問う国民投票が再度実施予定です。イギリスの生物学研究所、Sanger Instituteも(動物福祉が唯一の理由ではないようですが)来年、70人以上のスタッフが働く動物実験施設を全面的に閉鎖する予定です。こうした動物実験を減らし廃止していこうとする動きは、思うに、世界中に拡大していると思います。奴隷制が廃止され、人種隔離が廃止されたように、人間の差別意識はなくなることはなくても、制度としては理想に向けて変化していくでしょう。

昨年、私は動物実験は少なくとも自分はやめるべきだと感じました。マウス遺伝学を主な実験系にしていたので、動物を使わないということは研究活動を実質やめることになります。それでも、嫌な思いをして動物を使ってまで、研究を継続したいのかと自問すると、ノーでした。自分の研究にこれらの動物の命を奪うだけの価値はありません。というか、世の中の動物実験のほとんどはそれだけの価値はないと思うようになりました。基礎研究以外にも、人の病気の治療法の開発の実験などで無数の動物が殺されてきました。仮に人間の病気の治療法の開発に動物実験が不可欠だとしても、結局は人間の都合です。

仏教的にはその治療法を使うことも、下に述べるように殺生を犯していると解釈できますし、そう考えると、殺生をしない人間はだだの一人もいないと思います。仏教では「殺生」は最大の罪ですが、動植物を殺すことなく人は生きることはできませから、これは殺さざるを得ないときには、殺すことの意味を噛み締めるようにという教えであろうと思います。仏教でいう殺生は「自殺(自分で直接殺すこと)」「他殺(他人に殺してもらうこと)」「随喜同業(他人が殺すのを喜ぶこと)」でこれらは等しく殺生の罪です。美味しい刺身を食べて喜ぶ、というのも広い意味で三つ目の殺生の罪にあたります。ですので、子供が魚を釣って、お父さんに頼んで捌いてもらって、お母さんが食べたら、この一家全員が三つの殺生の罪を犯したということになります。

殺すことなく生きることができないのは人間の業でありますが、だからといって開き直るのではなく、その罪を自覚して自らを律することが大切なのだろうということだろうと思います。動物実験や法の規制も、結局は人間の身勝手な自己満足であるとも言えます。しかし、「殺す」ことなく生きることができない人間ではあるにせよ、人間にとってもっとも大切な「思いやりの心」を多少でも実践していくのはそれが無いよりははるかにましではなでしょうか。たとえそれが身勝手な自己満足に過ぎず、殺される側にとって何の意味もなくても、それでも「思いやる心」が無いよりはましではないかと思います。少なくとも「思いやる側」にとって益あることだと思います。思うに、殺生を減らしたくて、菜食にこだわり革製品を使わない人というのは、肉食の喜びや生活の不便さと引き換えにするだけの精神の益を得ているのだろうと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義と規制

2021-11-26 | Weblog
またも、前回の続きのような話ですけど、先日は全国的な動物実験規制協会による施設の視察がありました。施設の動物実験委員会と動物実験施設の責任者が主に対応したので直接どういうやりとりがあったのかは不明ですが、施設の動物実験管理者も現場の状況の理解に問題があると思いますけど、上位規制組織の言い分は更に非現実的だったようで、話をきいてうんざりしました。規制する側にしてみれば、現場の不利益は気にしないのでしょう。

長期的に動物実験が減っていくことは望ましいと私も思いますけど、現状では、動物実験をやっている方は、それなりのニーズに基づいて、生活もキャリアも賭けて、なんらかの有意義な情報を得るために動物を犠牲にしてやっているわけで、だれも、好きで動物を殺したり虐待したりしているものは研究室にはいないです。そんな中で、不必要としか思えない数々の規制がトップダウンでどんどん増えてきて、それは全部現場に丸投げされ、違反者が厳しく処罰されるという状況が実際に起こっています。この流れはほぼ一方的で、年々、管理者のパワーは増大する一方でありながら、現場の事情は考慮されることは少く、窮屈で不十分なサポートの中で、研究者は規制におびえながらなんとかやっているのが実情でしょう。

だいたい、もしも本当に動物の命、や動物福祉ということを目的としているのなら、野生動物の狩りや害獣駆除も同様の厳しさで規制しないと不公平です。結局は人間の勝手な理由で一方的に線引きが行われていることには変わりありません。

規制というのは個人の自由を縛るものですけど、規制が年々、さまざまな分野で強まっているということに私は危機感を抱いています。

近代民主主義の象徴のフランス革命はフランス憲法と国旗にその精神が引き継がれ、フランスは国のスローガンとして、自由、平等、博愛をあげています。また、他の民主主義国家の憲法の精神のコアにあるものは、ドイツでは統一、正義、自由、カナダでは生命、安全、自由、そしてアメリカはもちろん自由の国であることを売りにしています。これら近代民主主義を受け継いだ国家で共通して尊重されるべきものと考えられているものは「自由」であるようです。自由とは個人の尊重に他なりません。社会やその構成員は王や支配者の持ち物ではなく、個人の集まりが社会であって、その自由意志の総和が社会に反映されるべきだという考えがあると思います。

しかしながら、人間が増え社会生活を営むには、個人の自由の制限はやむを得ません。数々の法律や規律があり、守らないものには罰が与えられます。議会制民主主義では、その個人の意思が代議士によって汲み取られて議会で議論された上で決定されるはずです(日本ではそうはなっていませんが)。しかし、一部の権力や支配力を持つものにとっては、国民の意志ではなく、彼らの自由意志を優先させた政策を施行してもらいたいわけで、政府政党と癒着し、彼らの都合の良い法案を作らせ、一般国民の富を合法的に移し替えて、彼ら自身と彼らに利益誘導する政治家だけが得をするようなシステムに変えて行っています。日本では、それを隠そうともしません。一般国民から消費税を通じて否応なく金を巻き上げて、企業や富裕層の減税分の補填に使うという非人道的なことが、露骨に行われています。死語だと思われていた「政商」という言葉が、政府と癒着した派遣会社のマクラ言葉に添えられるようになりました。加えて、アベ政権からは、そもそも権力者の暴走を防ぐためにある憲法を権力者自らが軽視し、一時的に憲法を上書きできるような法案を通し、そして憲法そのものさえも彼らに都合の良いように書き換えようとしています。

腐敗した政権政党のあからさまで非合法的な手段によって、日本は、非民主主義、独裁国家へと変貌し、国民の奴隷化が促進されつつあります。昔の、百姓は生かさず殺さず、を、政府は今は一般労働者(特に非正規雇用者)を対象に行なっており、人々は日々の生活に追われて、選挙に行く気力も国会を見る気力もなくしているように見えます。

しかし、この傾向は日本は極端ですけど、諸外国でも多かれ少なかれ、起きていることだと思います。民衆の力によって成し遂げられた近代民主主義でしたが、だんだんと世界的規模で、形骸化して侵食されていきつつあるのではないかと私は感じています。この近代からの退行は、テクノロジーの進歩によって、権力側が、さまざまなレベルにおいて、一般国民を管理することが容易になったことがあると思います。つまり権力者のもつ権力がより強力になったということです。アメリカでは生まれた時からソーシャルセキュリティ番号を与えられ、社会のあらゆる活動でその番号を要求されます。その番号は納税記録から銀行やその他の資産情報、過去の職歴、犯罪歴、などなどの情報にリンクしており、その気になれば、特定の国民の資産、履歴、行動パターン、は丸裸同然で収集できます。悪いことに、権力者だけではありません。国民同士がお互いを監視し、管理するような社会になりつつあります。

そして、現在、個人の自由というのはそうした自己増殖する管理システムのために、どんどんと侵食されているように感じます。法に基づいたガイドラインに沿って人々はお互いを尊重しあって社会生活を営むというのが理想ですが、困ったことに、何らかの問題が起こるたびに何らかの規制が生まれ、その規制のために新たな問題が生まれ、その問題のためにさらに規制が敷かれるということが繰り返された挙句に、何か行動すれば何らかの規制に引っかかり、規制にひっかかれば、罰せられるということが起こるようになりました。

私は心配性ですけど、悪いことに心配したことの半分ぐらいは実際に起こります。世界規模のディストピア化は当面進行していくかも知れません。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由と規律

2021-11-23 | Weblog
ちょっと前の話と関連した話ですけど少し。
かつて社会の中で、自由が最も尊ばれる場所は大学でした。大学は自治が基本で、それは研究や学問は自由な発想を自由に追求するところに発展の鍵があり、政治的に独立でなければならない、と考えられていたからでしょう。残念ながら、アカデミアの自由はグリーンランドのアイスシートなみの速さで侵食されているように感じます。その原因は、慢性的な資金不足に加えて、管理強化でしょう。つまり、金と力です。

最近、某旧帝大で研究室を立ち上げた人と話をする機会がありました。いずこも同じ秋の夕暮れ、となりの人も実は同じ悩みを抱えております。資金を出す方は金を出す以上に口を出し、現場は無意味な書類書きを強いられ、進捗状況を細かくチェックされて、自由な研究どころか、製造ラインの作業員さながらに縛られる、一方で、大学の施設は支援は全然乏しいのに規制だけは強化する、結果、現場で実際に活動している者、つまり「価値を生み出す本体」にもっとも皺寄せがきて、疲弊し、燃え尽きて、去っていくことになっています。これでは学問が発展するわけがないです。

資本主義の世界では、とっくに「働かない」ものが最も稼ぐようになっていますけど、これは学問の分野でも同様になってきました。実際に手足と頭を動かして働いている教官や研究者や学生という大学の活動の本体は、さまざまなレベルの管理者に縛られ、その狭い囲みの中でお互いに競争させられ、圧力をかけられ、使い捨てにされるという現状があるように感じます。

そして、トップダウンの規制が次々と研究現場に導入される結果、かえって弊害が増えてきているのではないかと感じます。本来、規制は、何らかの現状の問題を防ぎ解決するために導入されるものでしょうけど、それを決める方は必ずしも現場の事情を十分理解しているわけではないことが、却って現状を悪くしていっているように感じます。

例えば、擁護するわけではないですけど、セクハラで首になったDS氏にあれほどの処分をする必要があったのか、私は正直疑問です。結果は、DS氏だけでなく、キャリアを賭けて働いていた40人ほどの人々の人生を狂わせることになりました。ビン ラディンを一人を仕留めるために4万人のイラク市民を殺したアメリカ軍といえば言い過ぎですかね。

確かに話が本当で、立場を利用して性的関係を迫ったのなら、スケコマシのクソ野郎です。しかし、「被害者」の女性の方が、なぜ、事件があった時ではなく、自分のポジションが確保できたタイミングで告発したのか、を考えると、このセクハラがどういう性質のものであったのか、いろいろと想像してしまいますね。とはいえ、現在は、こうした職権濫用は許されないという規制ができています。結果として、ポリシー違反で研究室は閉鎖され、彼の人生のみならず、そこで働いていたなんの罪もないの多くの研究員の人生にも少なからぬダメージを与えることになりました。多分に見せしめ的な意味もあっただろうと思います。

そうしたセクハラ ポリシーがあることを頭脳優秀な「被害者」の女性は知っていたはずです。たとえ圧倒的な力関係の差がある立場であったとしても、研究室を移ったばかりのころに起こったこの事件をこの「被害者」がすぐに告発しなかったことは、下品な言い方をすると、これはある種の「取引き」の性質のものであって、少なくともDS氏の方はそのつもりだった、という可能性もあると思います。もしも「被害者」が、そうした性的関係を結ぶ前の時点で告発していれば、未遂に終わっていて、もうすこし穏やかな終わり方になっていた可能性もあるのではと思わざるを得ませんでした。つまり、40人もの人々の人生をこのような劇的な形で狂わせることは防げたのではないか、と思うのです。

研究室で共に過ごすもの同士で恋愛関係になるということは珍しいことではなく、立場に上下関係がある場合もしばしばあります。おそらく多くの場合はそこで揉め事が起きても個人レベルで解決されると思いますけど、今回の例のように、セクハラポリシーの罰則を、違反一回で、大勢の人を巻き込んで一人の人の人生を破壊するような形で適用するという前例は、こうした男女関係にある人を恐怖させたでしょう。DS氏が主張するように、悪意をもっていればこうした規制を利用して男女間の絡れに際して相手にリベンジすることも可能になるわけですから。

ただし、どうもDS氏のこうした研究室内の女性研究員との関係は常習的だったようですから、遠からず罰は与えられていたであろうとは思います。にもかかわらず、今回に至るまで、セクハラの告発に至っていないのはどういう理由だったのでしょう。被害者側がキャリアへの悪影響を恐れて泣き寝入りしたのか、あるいは取引きであったからでしょうか。

また施設側が「悪質」と断定し、弁護士の同席も許さずDS氏を尋問した結果、迅速にクビを切った理由は何だったのでしょう。陰謀論的になりますけど、今年のノーベル賞委員会は彼を推していたという話もあります。受賞後のスキャンダルを嫌った施設側が素早く彼の受賞の芽を摘んだのだという人もあります。(とすれば今年は比較的地味な研究がノーベル医学生理学賞に選ばれたのもそういう理由かもしれません。)

話がヘンな方向へズレました。法治国家である以上、法や規制を遵守するというのは原則ですけど、しばしば、その規制や法は実際の現実と乖離しています。また、法にはかならずグレーゾーンもあれば抜け穴もあり、解釈次第で悪用されることもあるわけで、結果、一つの規制はまた別の規制を生むという感じで、規制の自己増殖を促進し、また、その規制を厳密に適用することで、こ社会の構成員の自由度を制限し、恐怖を与え、彼らを萎縮させていっているのではないかと思います。結果として、大学の自由な活動を妨げ、当局の介入を許し、自治組織としての大学の健全さを失わせていこうとしているのではないかと危惧しています。

金と力の世の中で、大学だけが高潔、孤高でいられるわけがなく、いまや基礎研究も金になるかならないか、役に立つかたたないか、という基準で判断される時代ですから、大学が形骸化していくのも時間の問題なのかもしれません。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷めた理由

2021-11-19 | Weblog
単純に実験して何かデータが出てそれをもとにいろいろ考えて、という作業が好きという理由で、私は研究の世界に迷い込み、幸か不幸か比較的自由に放っておいてもらえたためになんとなくここまで続きました。私は二、三の譲れないことを除くと、楽しくないことでも比較的順応してしまうのですけど、ある閾値を超えかけると、なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と思うことがしばしばあります。どんな活動もそうでしょうけど、楽しい部分が一つあれば、イヤな部分はその数倍はあります。その活動を継続するか止めてしまうかはそのバランス次第と思います。

研究活動において言えば、いろいろ実験したり考えたりする楽しい部分のあとは、結果にガッカリするというあまり面白くない部分があります。それを乗り越えて面白いデータがでたら、今度は、それを発表して批判を受けるという楽しくない部分があります。方法的懐疑を手法とする科学では、批判は必ずネガティブなものであり、その批判者のネガティブな疑念を払拭していくという作業を通らないと論文にもならず研究費ももらえません。

しかしながら、人間は感情の動物であり、いくら頭では方法的なものだと理解はしていても、批判を喜ぶ人はまずいません。それが如何に建設的なアドバイスであったとしても、その向けられた批判に直ちに心から感謝できる人間というのはほとんどいないでしょう。まして、その批判が的外れであったり、誤解からきたものだったりした場合は尚更です。それを理性の力で感謝に変えるということをするわけですけど、これは大変エネルギーのいる生理的に無理のあることで、責任感の強い真面目な人ほど、この批判に晒されることのストレスとダメージは強いと考えられます。

ところで、山本太郎の街頭演説では、批判とも言えないようなメチャクチャな言い掛かりをつけて絡んでくる聴衆がいますが、彼のそうした人々の捌き方は感動しますね。そうとうな努力で心を鍛えたのだろうと思います。自分の感情をコントロールし、敵意を向けてくる相手と冷静に話をするのは普通は困難ですから。

私といえば、そうした研究の楽しくない面に加えて、強化される一方の規制とそれに付随する罰則や義務に縛られて研究現場の自由度が減少し、あちこちから小突き回されながら、だんだんとやりたいこともできなくなってきたという状況に嫌気がさしてしましました。一言でいえば、昔に比べて研究環境はどんどんhostileになってきたように感じます。そんな中でクリエイティブであるのは困難です。

最近、頼まれた論文のレビューをやっていて、研究という活動に対する私の情熱が急速に失われつつあることを実感せざるを得ませんでした。私は熱しやすく冷めやすい体質ではありますけど、研究だけは随分、長く続いたのです。

その論文は、かなりの量の実験とデータに基づいたもので、研究の着目も面白いし、比較的よく書けていました。多くの時間や研究費を割き、少なからぬ動物を犠牲にし、この研究をまとめあげたことは明らかでした。でも、その努力に対して、賛美したりなんらかの批判やコメントをして、それに応じてまた著者が実験をして原稿を書き直して「改善する」という活動が、言葉は悪いですけど、心からばかばかしいなあと感じてしまうようになってしまいました。もちろん口には出せませんけど、自分でも真面目にサイエンスをやっている人には冒涜的意見だなと思います。今後はもうこの手の活動には関わらないようにしたいと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週末のパン

2021-11-16 | Weblog
いつも週末にパンを買う店は、パン屋ではないのですがパンの種類が豊富でお手頃です。いつもは食パンとバゲットですが、バゲットの代わりにタスカン ペインという名のイタリア風のパンも美味しくてたまに買っています。

タスカン ペイン


この店で売られているパンの中でビジュアル的にもっとも惹かれるのが、ハッラー (ヘブライ語 Challah) ですが、食べたことがありませんでしたので、今回は買ってみることにしました。ハッラーは三つ編みが美しいパンで、もともとユダヤの安息日に食べられるものだそうです。見た目は美しいのですが、味は普通の美味しいパンでした。

ハッラー

ユダヤ由来のパンと言えば、多分もっとも有名なのはベーグルだと思います。茹でてから焼いてつくられるベーグルの粘りのあるしっかりした味わいは私も好きです。私のかつての地元の街にもベーグル専門店がありましたが、いつの間にか無くなってしまいました。わざわざベーグルを食べなくても、日本のパンはそもそも美味しく、ほかにも数々の選択がありますし。でも、ちょっと寒い朝に、半分にスライスしてトーストしたベーグルに、奥志賀の朝一番のゲレンデをイメージしながら、プレーンのクリームチーズをたっぷり塗って熱いコーヒーと一緒に食べるというのは幸せなものです。

セサミ ベーグルとクリームチーズ

またよく行く別の店ではポルトガル パンを置いてあるので、たまに買います。Massa Sovadaと呼ばれるミルクや卵が入っていて少し甘みのある菓子パンに近いパン。お腹が空いているときにはそのままパクパク。スライスして軽くトーストしてバターで食べても美味しいです。この店では、Bolo Levedoというポルトガルの甘いマフィンも一緒に売っています。マフィンといってもいわゆるイギリス風のモサモサしたのでも、アメリカの砂糖たっぷりなケーキ風のものでもなく、これは比較的目の細かい生地のしっとりした食感で、甘味もほどほどで、加えてあるレモンが仄かに独特の風味を醸し出しています。これを半分に切っていろいろな具を乗せてサンドイッチにしたりもするようです。私はスライスしてトーストでシンプルに食べるのが美味しいと思います。

Massa Sovada

Bolo Levedo

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人に評価が低い国

2021-11-12 | Weblog
生まれ育った国を出て移住する人々が世界中で増えております。今やサービス業、情報業を主業とする人々が増えてきて、インターネットさえあれば仕事ができるという人は土地に縛られずに世界中を移動できます。そういうExpatと呼ばれる脱出者のための組織、InterNationsは、世界で400弱のExpat コミュニティーの約400万人のメンバーに、Expatsのサポート、情報交換などのためのプラットフォームを提供しています。同時に、この国外移住者のネットワークを利用して、興味深い情報も収集しています。最近、発表された移住者の投票による外国人Expatsが選ぶベストとワーストの国は興味深いと思います。

ところで、私はこの社会の隅々にまで行き渡っているランキングや評価によるメトリクラシーをいうもののネガティブな側面を昔から嫌悪しております。そういう社会に否応なく生まれ育ち、その中で生きていかねばならないという現実の中でこれまでなんとか折り合いをつけてきたのですけど、数年前にそろそろ私はこの社会から降りるべきだろう思い始めした。というわけでランキングそのものもちょっと抵抗があるわけではありますが、今日はそれは本題ではないので、飛ばします。

Expatsが考えるベストな国は、一位は台湾、二位はメキシコ、三位、コスタリカ、四位 マレーシア、五位、ポルトガル、、、、と続きます。生活コストや安全性、利便さ、気候、人々の態度、社会制度、仕事、、などの数々の因子が総合的に考慮された上での投票による順位と思いますけど、例えば、すでに老後の引退者の移住に人気のメキシコや中米、ポルトガルなどが外国人に優しく、ゆえに順位が高いのは理解できます。

ちょっと悲しいのが日本で、60近くの国々の中でワースト6位という順位。名古屋入管の事件や、日本人の排他性、官公庁の不透明さ、遅れているデジタル化、不景気、高齢化、言語の問題、悪化する気候、融通のきかなさなどなどを考えると、いくら食事が美味しくて物価も比較的安く都市生活は台湾なみに便利としても、外国人にとっては今の日本は住やすくはないだろうなあと思います。

ちなみにワースト5は、エジプト、ロシア、南アフリカ、イタリア、クウェートです。イタリアは気候や文化では申し分ないが、仕事をする点で困難ということがネックになったらしいです。日本よりまだマシと評価された残りのワースト10に入った国は、キプロス、トルコ、インド、マルタ、スウェーデンでした。引退者に人気があるマルタは意外でしたが、マルタはそもそも国が非常に小さく、緑に乏しく混雑している点が嫌われたようです。残りの国々の問題点は比較的明らかですね。

同じアジアの国で食事が美味しく安全な国という点で共通する台湾と比べて、どうしてこうも日本は外国人の評価が低いのでしょう。台湾の物価が日本より安いというのは一因でしょうが、それが主な原因とは思えません。思うに主原因は日本の社会システムの劣化であろうと思います。多分にそれは政府の責任です。外国人居住者に評価が低い国は、その国民にとっては住みやすいということはないでしょうから、政府は日本に住むExpatからも日本の悪い点を指摘してもらって学べばどうでしょう。(政府が、縁故政治で国民の富を掠め取ることに熱心で、一般の住人から学んで住人のために社会システムを改善しようとする意思がないのが問題でしょうが)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語公用語化

2021-11-09 | Weblog
あまり面白い話が書けそうにないので、今日見たTwitterを紹介。

この日本企業が英語を社内公用語にするという話は数年前に聞いていました。当時も、英語の公用語化によってえ社内のコミュニケーションは可笑しいことになるだろうなあと誰もが予想したと思いますが、結局、その通りのことがおきたので、現時点ではこれは笑い話ですけど、今後も笑い話で終わるかどうか。
私は、この企業の現在とこの英語公用語以前との比較データに興味があります。

当時、日本企業で英語を社内公用語とすることが、「経営側」にとって、何のメリットがあるのか、という議論がありました。すぐに思いつくのは二つです。一つは英語能力という定量的メトリックが人事評価にすぐに使えるということ。これは普通の日本人は英語がそれほど得意でないという前提のもとに、非常に簡単な一つに指標によって、社員をランク付けし、それによって社員管理を容易にすることができます。英語が使えないから「グローバル企業」の社員として不適格という理由で昇給、昇進を阻んだり、クビにしたりすることも可能でしょう。もう一つは、実際に英語がしゃべれる外国人を安く雇うことによって、日本人社員の給与を抑えることができることです。英語が公用語に近いアジアの国々は多数あり、フィリピン、マレーシア、インド、などの人々は英語には問題はないわけで、英語環境で働けて自国よりもよい待遇があるとなれば、会社としては、そういう人を比較的安価に雇える可能性があります。その上で、彼らよりも英語ができないという理由で日本人社員の給与を抑えるという方法もとれるでしょう。

一方、日本企業としてのアイデンティティーや日本人雇用者の幸福を考えなければ、経営者側にとってのディメリットはわずかです。日本企業で日本人社員を雇いながら、英語が公用語というのは、自然と英語をうまく使えて英語を母国語とする人、すなわち英語圏のヨーロッパ系人種、を頂点にしたヒエラルキーを作り出すことであり、自らが二流人種だというクラス分けをすることを含意します。会社はそれによって、大多数を占めるであろう日本人およびアジア人職員を二流クラスにクラス分けすることで、さらにコストダウンもできるでしょう。

一方で、いくらこの会社の社長が流暢に英語で話して欧米人と握手していても、黄色い肌をしたアジア人が背伸びしているぞ、というようにしか白人社会はそもそも見ないし、まして英語を公用語化したといういうことは、自ら、その劣等性を認めるように見えるでしょう。結局、日本人はサル真似だけは上手いといういつもの差別的視線で見られるだけだと思います。

しかし、経営者にとってみれば、屈辱的で普通なら恥ずかしくてできないようなことでも、金のためだと割り切れさえすれば、社内英語公用語化は、社員管理を容易にし賃金を抑え、いざとなれば日本を捨ててよりコストの安いところにHQを容易に移すこともできる、というメリットがあるのではないかと想像します。

こうしたひねくれた見方が正しいのかどうかは、社内英語公用語化がはじまってからのこの会社の日本人と外国人社員の構成、給与の変化、ターンオーバーなどのデータがあれば、推測できると思うのですが、どうでしょう?

いずれにしても日本語が母国語同士の社員なのに、わざわざ使いづらい英語を使って話すというのは、二人羽織でそばを啜るようなもので、茶番といわれても仕方がないし、多くの外国人からみれば理解困難であろうとは感じます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DS氏のその後

2021-11-05 | Weblog
数ヶ月前、セクハラを理由にアメリカトップの研究所を解雇され、40名近いスタッフを抱える研究室の閉鎖に至った著名な細胞生物学者であるDS氏ですが、ふと、その後どういうように過ごしているのだろうと思っていたら、続報がありました。われながら人の不幸のゴシップをネタにするのはどうかなあと思いますけど、これは単純な話ではなく、あるいは「藪の中」的な話なのかも知れないと感じました。

最近のボストン・グローブの記事では、「セクハラの被害者はかつての恋人であるDS氏に復讐をするために虚偽の主張をして、DS氏を失脚させた」と主張してDS氏と代理人が裁判に訴えたことが報道されています。記事の中では詳細は書かれていませんが、訴状を読んだ人がコメントに捕捉を書き込んでいます。セクハラ「被害者」は、もとはMD/PhDの学生で2012年にDS研究室に来たようです。DS氏は「被害者」の学位審査員であり、「被害者」は、無事にPhDを終えて、2017年にこの一流研究所の研究員のポジションに抜擢されたようです。この研究所のフェローのポジションを得るというのはなかなか大変なことで、DS氏ももとはこの研究所のフェローから昇進したのでした。この時点で少なくともDS氏は「被害者」のキャリアに多大な貢献をしてきたことになります。その後、訴状によると、2018年に二人は男女関係となったが、2019年にDS氏は別れを切り出し、それに納得しない「被害者」がつきまとい、そして事件をでっち上げたとしています。これが本当だとすると実はDS氏のほうがセクハラの被害者ということになります。しかし、仮にこの話が本当だったとしても、「被害者」の今後のキャリアにも多大な影響力をもっていて恋愛関係にもあった人間が、梯子を外すように突然去っていくというのは相手にとっては大きなダメージであったことは想像に難くありません。もうひとつの(多分、女性の人による)コメントでは、「被害者」の女性の心情について、仕事の上でも今後のキャリアの上でも重要な人間との間に男女関係ができたとき、女性の方は永続的な関係、結婚し家庭を持つということを期待したはずだが、同じ職場のボスである男の方が別れを切り出して離れていったことに傷つき、打ちのめされ、屈辱を感じたと考えられる、しかし研究室という特殊な職場の中で逃げ出す場所がないという状況にあった、と推測しています。

MD/PhDは8年の大学院プログラムですから、仮にストレートで行ったとしても、この被害者の人は2017年時点で30歳を超えており、別れを告げられたのは32-35歳ぐらいと想像されますから、女性が家庭や子供を持つことを考えたら時間的な余裕がない状況です。そんな中で関係が一方的に終わり、女性としての幸せやプロフェッショナルとしての成功の約束が突然に失われた結果、愛情が恨みに変わり、これまでの関係をセクハラであったと解釈するようになるのはありえることだと思います。このコメントをした人は、(訴状が真実と仮定して)「昔であれば、このような行為はハラスメントとは見なされず、解雇や公的な訴訟も起こらなかったでしょう。最近では、性別が逆転しているのを目にします」と続けています。

しかし、DS氏、確かに年の割には若々しく、若いときはなかなか二枚目でしたけど、この「被害者」の女性とは20歳ほどの歳の差があります。たとえ魅力的な人間で職場で親密になったからといって、DS氏を長期的な将来を考える相手として見るでしょうか?DS氏が地位を利用して関係を迫ったのか、あるいは二人が同意の上で男女関係になったのかどうかが争点になるのでしょうが、その辺は解釈は難しいと思います。最初は強引なアプローチで関係に入ったがそのうち情がわいてミューチュアルな関係になるというよくある浮気にパターンだとすると、セクハラで始まったが、あとは合意の上での関係継続であった可能性もあります。男の方はセクハラと思っていなくても女性の方がそう解釈することもあるし、どこまでがセクハラでどこまでがちょっと強引なアプローチなのかは、確たる証拠がなければ、双方の解釈次第の水掛け論になるでしょう。ただし、施設側の解雇の判断が迅速であったことは、なんらかの証拠があったということだと思います。それが、確固たる拒否があったのを力でねじ伏せたのか、あるいは「イヤよイヤよも好きのうち」的拒否でむしろ誘惑されたぐらいだったのか、それさえも解釈次第というところがあります。

しかしながら、一歩下がって考えれば、そもそも、かなりの力関係の差がある状態で、職場の学生に遊びで手をつけたこと自体が大間違いであったのは間違いありません。この訴状からは、DS氏のセクハラ事件はビル クリントンの事件を思い出させます。もしも、トランプ タイプのセクハラだったのなら、他にもいろいろ前科があってすでに悪評が立っていたはずだと思いますし。

この事件から学ぶべき点があるとすれば、君子危きに近寄らず、李下に冠を正さず、平たく言えば、職場の部下と深い関係になってはならない、ですかね。

追記。さらに詳細な事情の考察(推測)をしているサイトがありました。
どこまでが推測でどこまでが事実なのかよくわかりませんし、DS氏の研究不正の話が混じっているので、多分にバイアスの入った意見のようですが、解雇当時、研究所の調査で「深刻な問題」と表現されたように、セクハラやパワハラは常習化していたのかも知れません。

また下の記事では、DS氏の裁判は、その被告になっている研究所が継続中の調査を妨害するとして、裁判の開始を遅らせて裁判を非公開にするようにと要望を出したということです。

世界トップの研究所でのドロドロのドラマ。研究どころではないですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衆院選のこと

2021-11-02 | Weblog
衆院選の結果は、ガッカリでした。自民は議席を減らしたと言っても、政権交代には程遠いレベルでした。野党が議席を増やしたとはいっても、増えたのは、自民の補完勢力、野党もどき、ゆ党の維新でした。これをイギリスの新聞、Gurdian紙は「右翼ポピュリスト」が大阪で大勝、という見出しで報道。思想、政策的に近年の自民党と重なる部分が大きく、本来、保守支持していた人々が自民に変わる政党(自民党はすでに保守ではなく、過激な右翼だと思いますが)と考えて投票したと思われます。Gurdianの見出しから想像すると、彼らには維新がトランプと重って見えただろうことが想像されます。人々の不満に手を突っ込んで扇動するポピュリスト、少なくとも彼らの目にはそう見えたのでしょう。

予想はされたことでしたが、野党第一党であった立民も議席を随分減らしました。比例復活したもの小沢一郎が選挙区で落選、立民副代表だった辻元氏は選挙区比例区ともに落選し議席を失うという波乱がありました。辻元氏を破ったのはほぼノーマークの維新候補。小沢一郎もさすがに若い頃のカリスマはもうなくなってしまったようです。

れいわが比例で3議席を得たのが数少ないうれしいニュースで、共産党とともに与党の腐敗を追及してくれることとは思いますけど、今はそれができる最大のことになりそうです。共産党からは比例復活した宮本たけしさんの活躍が楽しみです。共産党は本当に良い人材が揃っていると思います。人々も共産党という党名ではなく、それぞれの議員の仕事ぶりをみて支持、不支持を決めて欲しいものだと思います。

残念ながら、自民と公明が与党に残り、岸田氏が総理を続けるということは、アベ スガ政権の腐敗政治の総括はなされることもなく、国民生活は今後も切り捨てられ、ネポティズムは蔓延り、田舎は見捨てられて「囲い込み」で都市へと集中する労働力はこれまで以上に低賃金で使い捨てにされ、急速に高齢化する老齢者は見捨てられ、国力はますます衰微し、独裁化はますます進んで、国民が総玉砕する中で富裕層は安全地帯で刹那的な快楽に耽るということになるのでしょう。経済的な指標で言えば、すでに国民の大多数が世界的基準から言えば「負け組」となりつつある日本で、この十年、民主党政権時代からほとんどの指標を下げ続けて貧困化を加速させてきた張本人がアベ スガの腐敗政治なのに、まだまだ有権者の多くが自公を支持しているというのには絶望を感じざるを得ません。思うに、多くの人は自分の生活に忙しくて、外からみたら、日本人の多くが負け組であって、日本の与党政府は異常極まりない腐敗ぶりだということにあまり注意を向けていないのでしょう。

こんなツイートがありました。

それでも識者は「れいわ」の議席に一縷の希望を見ているようです。れいわは参院選以降、コロナで集会の制限もあって、一時の勢いを失っていましたが、これから山本太郎の個人的な政党ではなく、しっかりした組織として、切込隊長的な役割以上の大勢力へと育っていって欲しいと思っています。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする