気の向くままに

山、花、人生を讃える

小学校の卒業式に思ったこと

2020年03月20日 | 人生

昨日、畑の草むしりをして家に戻って来るとき、近くの小学校の卒業式を終えた児童や親たちが帰って来るのを見た。そして、児童が着ているド派手な衣装を見て、「あれ、今頃は小学校の卒業式で、こんな服を着るんだ!」と驚きました。小学生のそんな姿を見るのは初めてだったので、本当にびっくりでした。

 

家内にその話をすると、「今まではまだ少なかったのに、今年は多いねえ」とのこと。
最初は、多分東京の上流階級の子たちが集まる学校から始まったことだろうが、少しづつ伝播して、田舎にまでそんな風潮が広まって来たんだろうと思う。

 

しかし、生活に余裕のない家庭を思い、子供にせがまれ、愛する子供に肩身の狭い思いをさせたくないという訳で、余裕のない中から、こんなことにお金を使わなければならない親の気持ちを思うと、おめでたい卒業式のはずが、喜べないどころか腹立たしささえ感じてしまった。

 

たかが小学校の卒業式のことじゃないかといわれそうだが、そういう衣装を身につけた小学生たちの姿をニュースで見た時、私には何か薄気味悪かった。無邪気で元気溌剌の小学生が、まるで大人のように見栄で着飾っているように見えたからだ。

 

斯く云うわたしは、多分、凄く時代遅れの人間なんだろうね。

たとえば、まるで明治生まれのおっさんが、昭和の風潮を「怪しからん」と憤慨するような。

今まで自分が時代遅れと思ったことはなかったが、今回はそんなわけでコロナウイルスより衝撃だった。

 

私には今孫が6人いて一番上が今度小学校の5年生になるから、あと2年もしたら、孫の卒業式のそんな写真が東京から送られて来るんだろうね。そしたら、わたしは「格好いいね。素敵だね」と言うのだろうか。

 

時代がそういう流れなら、それに逆らって生きるのは難しいだろうと思う。

だが、息子よ、娘よ、わかっているとは思うが、こういうことはいつまでも忘れないでいて欲しい。

 

○あまりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの労苦なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面においては誠に不幸な人たちであります。なぜなら、そういう人たちは、すべての善き物はことごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。本当の幸福というものは自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。他から与えられた幸福は他が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さでないのです。自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自分自身に力がつくよりほかに自分の強くなる道はないのです。 『生命の実相(久遠仏性篇)』より

 

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2 コメント

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はじめまして (勿忘草)
2020-03-21 10:01:18
よろしくおねがいします。

そんな卒業式があるのかと、ビックリしながら読ませていただきました。
こちらの子供たちは、それほどのことは無いようです。
見栄は張ってはいけなせぬ。張ってもいいけど、解った上でやって欲しいものです。
私もたまには見栄を張ってるかも知れませぬ。田舎にしてはある程度いい着物を着たり。アァーこれは虫干しの心算でした。
はじめまして (スズキ)
2020-03-21 12:56:40
始めまして。
こちらこそよろしくお願いします。

そうですね、私は大人が着飾るのは問題ではないと思うし、
美しく着飾ることも必要なことだってあると思います。
それに、おっしゃるように、虫干しという事もあり得ることですし。
「なるほど~!」と思いました。

しかし、小学校の生徒のあのような衣装は、やりすぎだと思うし、
見栄を肥大化させるばかりで、子供たちにも好いことではないという気がします。
時代遅れのおっさんの杞憂にすぎないならいいんですが・・・。

コメント、ありがとうございました。

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