止まらず一歩

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安重根碑で応酬

2013-11-21 12:57:04 | Weblog
     初代韓国統監を努めた伊藤博文を1909年に暗殺した『安重根』の評
     価が日韓両国の新たな火種となっている。
     安重根を英雄視する韓国は、暗殺現場のハルビン駅(現・中国黒龍
     江省)に記念碑を作るよう中国に働きかけているが、日本政府はこれ
     に反発。
     日韓両国政府は19日、この問題をめぐって応酬を繰り広げた。
 きっかけは韓国の朴槿恵大統領が18日、ソウルで会談した中国の楊潔篪国務
委員に「記念碑設置が両国の協力でうまく進んでいる」と謝意を示したことだった。
朴大統領は6月の訪中時、習近平国家主席に記念碑設置を要請していた。
 これについて、菅義偉官房長官は19日記者会見で「わが国は、安重根は犯罪
者であると韓国政府にも伝えている」と語り、容認できないとの考えを強調。 
「このような動きは日韓関係のためにならないのではないか」と述べ韓国をけん
制した。
 これを受け、韓国外務省の報道官は記者会見で「(安重根は)わが国の独立と
東洋の平和に命をかけた方だ。犯罪者という表現は大変遺憾だ」と菅氏の発言
を批判し、歴史問題で “謙虚な反省” を要求。さすがに菅氏は、その後の会見で
「過剰反応かと思う」と、やんわり反論するに止めたが、日韓両国の溝は一層深
まった。(毎日新聞11/20)

 安重根の放った銃弾によって伊藤博文は命を落とした。
 留置中に伊藤の死を知った安は、暗殺成功を神に感謝し十字を切り「私は敢え
て重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。
これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという。
 その愛国者としての行動に走らせたものとは?
 彼は、伊藤博文を暗殺した動機を検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際15の理由
を挙げている。
<伊藤さんは>で始まり、次のようなことを言っている。
 ・韓国王妃を殺害し、皇帝も廃位させた 
 ・韓国に不利益な条約を押し付け、それに反対した韓国良民を多数殺させた 
 ・韓国の兵隊を解散させた
 ・韓国の学校で使用していた教科書を焼却させた 
 ・韓国人民に新聞の購読を禁じた 
これらは、日韓併合の道筋なんだろうが、国を奪われる側にしてみれば屈辱で
あり、韓国統監の伊藤博文を銃殺した安重根は英雄になる。ところが、我が国側
にしてみれば安重根は犯罪者になるが、その認識を「正しい歴史観」として韓国
に押し付けるのには無理がある。
 日韓併合は当時の日本の正義で、韓国にとってみれば屈辱だったということで
二つの国には二つの正義があるから、菅義偉官房長官さんがカッカするのはスジ
違いのような気がする。

ところが、
安重根は暗殺理由として先に挙げたもののほか次のようにも語っている。
「今ヲ去ル42年前、現日本皇帝の御父君ニ当ラセラル御方(No121孝明天皇)ヲ、
伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハ韓国民ハミナ知ッテオリマス」
 孝明天皇は攘夷の意思が強く、公武合体を推進し幕府の力による鎖国維持を
望んでいた。京都守護職の会津藩主・松平容保への信任は特に厚く、一方で尊
王攘夷派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあって長州
藩には嫌悪の念を示し続け、1864年と1867年の二回、幕府に対して長州征討の
勅命を発している。
     伊藤は1841年に周防国(現・山口県光市)に生まれる。
     1862年には公武合体論者の長井雅楽の暗殺を計画したり、品川御殿山
     の英国公使館焼き討ちに参加。山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎の
     暗殺にも加わり活動していた。
 孝明天皇は1867年1月30日に崩御した。
 その崩御をめぐっては病死説、毒殺説、刺殺説がある。安重根は伊藤博文の
 刺殺説を取り上げた。

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