止まらず一歩

何かをさがして
舞台を増やしたり変えたりしながら
それを残していこうと思います

金北山(写真)

2010-08-28 16:00:34 | Weblog
 佐渡島は、ご飯を二粒ならべたような形をしている。
 北西側が大佐渡山地、南東側が小佐渡山地で、この二つの間に
 国中平野が広がる。 
 大佐渡山地の方が高く、島の最高峰・金北山(1172m)には自衛隊
 のレーダー基地があるため登頂が制限されている。

 日本が戦争に負けた直後からしばらく佐渡にあったレーダー基地は
 アメリカのもので金北山に向う軍用ジープが家の近くを埃を立てて
 走っていた。
 ある夜、にある小さな堂で人形芝居があった。
 小学校に上がる前だから誰かと一緒に行ったと思うが、面白くないの
 で帰ることにし夜道を一人で歩いていると脇にジープが止まった。
 何か言っていたが判るわけがない
 日ごろ、大人たちから「アメリカは怖い」と聞かされていた。
   (今、思えば、何かプレゼントしようとしたのかもしれないが)
 「怖い」が先立ち、田のあぜ道を一目散に走った記憶がある。
 
 田んぼの中に車の通る道ができて、昔の草道はなく
 初詣に行った熊野神社も畑に変わっていたが、道すがらに掘崎堂は
 残っていた。
 「昔の、掘っ立て小屋はダンプカーが突っ込んで壊してくれたので、
 新しく建て変わった」と、近くで農作業をしていたオジサンが教え
 てくれた。
 「たぶん、あなたは知らないと思うけど」 指がさす方向に、わずか
 な空き地があり看板が立っている。
 昭和48年新潟県指定史跡 "下畑玉造遺跡" である。
      その説明書の一部を以下に記録しておく
      この遺跡は、弥生時代後期に鉄石英(赤石)、碧玉(青石)、
      瑪瑙などを材料として細形管玉や勾玉など装身具を製作した
      玉造遺跡である。
      昭和46~47年にわたって発掘調査により多数の玉類および未完
      成品、工具などのほか、わが国最初の弥生時代玉造工人たちの
      集団墓が発掘された。~後略~
                 新潟県教育委員会・佐渡市教育委員会
 
 連日、晴れ渡った満天の星空を見上げて
 「今年の米はどう」
 今まで経験のない暑さが続いて予想がつかないという。  


二郎さん

2010-08-26 12:11:40 | Weblog
 朝の七時前
 山道を這うように降りてきたオジイチャンは
 「病院に薬をもらいに行くっちゃ」
 オジイチャンの速さに合わせ、途中の分岐まで歩くことにした。
 今年90才になる二郎さんは、10年前に連れ合いに先立たれ
 「田植は一人でもできたが、刈り取った稲のハゼ架けができんようになって」
 百姓をやめた。当然一人くらしだ。
 私のことも聞かれたので、実家の屋号を言うと兄達のことをよく知っていた。
 
 佐渡島の人口は約63000人、本島など四島を除く島の中では沖縄に次い
 で大きな面積をもつ。 
 米どころであると同時にリンゴ・洋ナシ・柿・ミカンなども栽培し、四面は海に
 囲まれている。 島民は「食料自給率100%以上だ」と豪語する。
 ここに来るとき 「どこも自然に溢れて」 と言われたが
 農道を除けば、広くもない道を車がソコソコに走って安心して歩けるところは
 少ない。
 そこで、車の少ない早朝に歩ける範囲内で寺社めぐりをした。 
 道中いろんな人と出会い、その一人が先の二郎ジイチャンで、
 また歩けば、88才のオバアチャンが田仕事をしている。暑い日中を避けて
 野良仕事をしている人が多い。
    <今回の行き先> *物部神社 *飯持神社 *御食神社 *引田部神社
             一宮神社・三宮神社・国分寺・妙宣寺・長谷寺・
             慶宮寺(*は延喜式神社) 

中学校の同級会

2010-08-25 13:11:46 | Weblog
 「早く死んだ方がいいかも知れないけど・・・」
 別れしな "莞チャン" の呟きがいつまでも残りそうだ。
 48才のとき "パーキンソン病" の宣告をうけ、それまで勤めていた会社を
 解雇された。 筋肉がこわばり、動作にいろんな障害が出てくる難病だ。
      中学時代、スポーツも得意ではなく、勉強も中くらいで
      目立たない似た者同士の4~5人グループに私と彼がいた。
      当時を振り返って 
      「神社の境内で飯ごう炊飯をして、固い飯を食ったことがあった」 
      私がいうと
      「あんたの親父さんから鮎の獲り方を教えてもらった」と彼がいう。
      年賀状の交換はしていたが、今回家を訪ね50年ぶりの再会になる。
 8/22 は中学の同級会。
 50年前に卒業したときは三クラスで
 100人くらいに案内状を出して、28人が揃った。と報告があった。
 5年に一回だから 「これが最後かもしれない」 そう思いながら
 今回も参加した。 日ごろ、何の接点もない人たちだが逢えば別れが惜しく
 なって二次会まで付き合い、次もまた遭いたくなる。
 親は死に、家を継いだ兄も亡くなって故郷はだんだん遠のいて
 こういう "会" が田舎に帰る口実になっている。
      同級会の記念写真を莞チャンにあげる。
      しみじみ見つめ 「コレ誰」
      「誰も訪ねてくれる人がいなくて・・・」 奥さんが寂しそうに言う。
      莞チャン、次は一緒に行こうよ  

"セミ" だらけ

2010-08-17 17:57:26 | Weblog
 晴れ渡った空から水滴が "ポツ" と顔にかかる
 「ジジッ」 真上をセミが飛び立った。
 子供のころ、セミを取るには
 竹の切先に細い竹を差し込んで輪を作り、蜘蛛の巣で膜を張り
 静かに近づいて、上から "ペタッ"
 蜘蛛の巣にかかった昆虫を見て誰かが考えたのだろう。
 思い出してみると
 田舎にセミはそんなに多くなかった。
 それも「アブラゼミ」とか「ニイニイゼミ」ばかりで
 透明な羽のセミは珍しかった。
 
 今、都会では朝から
 そこらじゅうにせみが転がっていて
 掴むと 「ガガーッ」。まだ生きている。
 羽の透明なクマゼミが 「起こすな」 と怒っているようだ。
 緑地に踏み込むと
 その辺の小枝や藪から "ワーッ" と飛び立ち、顔といわず腕といわず
 ところかまわずぶつかってくる。 突然の人の進入を妨害するように。
 何世紀か先には
 地球から人が消えて、セミの惑星になるんじゃなかろうか。
 
 盆が過ぎ 
 緑地の斜面にはタカサゴユリが咲き、ツクツクボウシも鳴き出した。
 5年ごとの中学校の同級会に誘われて
 いろんな昔を取り戻しに、田舎に帰ってきます。
 

広田遺跡のこと

2010-08-15 11:42:31 | Weblog
     昭和30年の台風22号によって砂丘が暴かれ、
     人骨や貝で作った物が砂浜に転がっているのを地元の人が発見した。
     ここは鹿児島県
     大隅半島の南に浮かぶ種子島の南東部の海岸に面した広田遺跡。
 8/14 この調査に関わってきた "金関恕先生の発掘回想" が西宮市にある
 宮水ホールで行われた。2/28 土井ケ浜発掘に続く回想講座である。

 昭和32~34年にかけて行われた調査の結果、90箇所の埋葬遺構と
 158体の人骨・44,000点の貝製品が発見され、弥生時代後期から
 古墳時代後期にかけての墓地遺跡であることがわかった。
 出土した貝製品の中には、南海産の貝を使った腕輪、首飾り、貝符が
 あって、その形や文様は南島文化との関連を示唆する一方で、広田遺
 跡特有のものもあって、ここに暮らした人々は南島文化を取り入れつつ
 独自の豊かな文化を形成していたと考えられている。
 発見された人骨は、後頭部が異様なほど扁平で短頭性が強く、著しく
 低願で小顔傾向があり鼻根部周辺は立体的だった。 成人の身長は、
 男性が約154Cm、女性が約143Cmで、これまで日本で発見された
 古人骨集団では最も背が低く縄文人的特徴を残している。
 貝製副葬品の文様から大陸南部からの渡来人との説もあるが、その系
 統はわかっていない。
       
       種子島には、わが国唯一の実用衛星打ち上げ基地がある。
       遡れば、鉄砲伝来の地で火縄銃を造り始めた場所だった。
       昔も今も、日本の歴史に関わっているこの島には、
       34,000人が暮らす日本で10番目の面積をもつ島である。 
                             
                             <写真=タカサゴユリ> 
       

 役行者に合いに行く

2010-08-12 09:14:15 | Weblog
      小角(役行者)は68才でその生涯を閉じた。
      全国各地を回ったあと、天上ケ岳に戻って昇天したと伝えられる。
      親思いの小角は昇天の前、母を鉄の鉢(蓮華座)に乗せ空中を飛び
      唐天竺(中国・インド)に連れて行った。 という話がある
 9時20分に箕面駅を出発。滝道から自動車道に上がり、百年橋まで50分
 かかった。 橋の袂を右にとり急登の石段が続く研究路2号線を行く。
 休みながら30分も歩くと政の茶屋の方から来る道に合流し、ここから天上
 ケ岳に伸びる道は "箕面自然歩道" になる。
      昔、段差道を構成していた丸太が朽ちて、それを止めていた錆び
      たボルトだけがところどころに残っている。登りはユックリ進めば
      なんとかなるが下りは恐い道だ。
 上り詰めたところの標識は 「←政の茶屋、五月山→」。
 その標識の下に10Cm角のブラスチック板がつけてある。マジックで書いた
 文字が消えかけているが、目を凝らすと「天上ケ岳」と読み取れなくもない。
 南方向に伸びた獣道を100メートルほど入ると、前が開け大坂平野が望まれ
 左に海が広がる。
 箕面自然歩道から30分の天上ケ岳は標高520メートル。
 台地の中央に梵字を刻んだ石碑が立ち、その傍らに岩座に座って脛を露に
 頭巾を被り、高下駄を履き、右手に錫杖、左手に巻物を持った小角の銅像が
 ある。 銅像と向き合い持参の握り飯を頬張る。

 三角点に戻り、五月山の方向に歩くと20分で自動車道に出る。
 そこを下って "ようらく台園地" から山に入って一時間くらいで落合橋に出る
 つもりだったが園地の進入路にはゲートがかかり通行止めになっている。 
 どうしよう ・ ・ ・
 天上ケ岳に戻るだけで一時間はかかる。五月山に出てみよう
 道の両側は公園墓地とゴルフ場ばかりが続き、時折車が行き交う。
      下っていくと麓の方から、かなり疲れた感じの母娘が近づいて
      「どこかに休憩できるところはないでしょうか」
      聞けば
      池田から2時間も歩き、昼時を過ぎて「何も食べていない」という。
      「公園墓地なら何かあると思うけど、どこまで行く予定ですか」
      と聞くと「ようらく台園地から箕面駅に出るつもりです」
      その、コースが通行止めで
      「天上ケ岳から下った場合は三時間以上かかるでしょう」
      と説明すると、道を引き返し、その辺の公園墓地で食事をとるという。
 炎天下の車道を一人トボトボ歩き、池田駅に着いたのは14時15分。 
 車を交わしながら2時間も歩いたことになる。熱中症寸前だった(8/11)
      
      
   
 

カラスにさせろゴミ拾い

2010-08-08 11:45:11 | Weblog
 8時前だというのに、セルシー広場では若い子が長蛇の列をつくっている。
 「誰がくるの」 最後尾を案内しているスタッフに聞く。
 「シンセングミ△×」 ちゃんと聞いたのだが、新撰組に続く名前は家に帰る
 間に忘ていた。 「新撰組」というから男の子のグループだろう。
 開演時間までには相当あるし
 この炎天下で喰い散らかしは仕方がない。 その分、売り上げにもなってい
 るから周辺の売店もそれに対応している。

 昨日は、大きな袋を手にゴミを拾うボランティアが多数街に出ていた。
 車で信号待ちをしながら見ていた。
 道路中央の植え込みの中には、空き缶や壜・カラ袋が多い。
 ゴミを散らかすのはカラスと人である。
 歩きながら(車を運転しながら)物をほお張り、終わればその場で手を離す。
 悪意のない習慣だから世の中からゴミは無くならない。
 タバコのポイ捨てに世間の目は厳しいが、ゴミの害はその数倍の大きさに
 なる。
 この辺の義務教育関係者に
 「週に一回くらい、生徒に通学路のゴミ拾いをさせたらどうだ」と、言ったら
 「そんなことをさせたら父兄の抗議が大変だよ」
 モンスターベアレンツがカラスを育てているようなものだ。
 「ウチの子は」
 フン 「カラスですよ」 ・ ・ ・

箕面のガイドは外人

2010-08-06 19:22:48 | Weblog
 西の東海自然歩道は、箕面ビジターセンターから始まる。
 悪路を喘ぎながら45分も行ったところに開成皇子の墓がある。(写真)
 標高540メートルの最勝ケ峰の山頂で、麓には西国三十三番札所の勝尾寺。
     開成(カイジョウ)は光仁天皇(No49=770~781)の皇子で桓武の庶兄に
     あたる。
     765年、開成は善仲、善成兄弟の草庵を訪ね
     二人に師事して仏門に入り、777年に大般若経600巻の写経を終え、
     勝尾寺の前身になる弥勒寺を創建した。
     880年、住職の行巡が清和天皇(No56)の病気平癒の祈祷を行い
     "勝王寺" の号を賜るが「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多い
     として勝尾寺に差し控えたという。
 しばらく行くと山が開け、大坂北部の市街地や生駒山系が望める。
 進むべきか、引き返すべきか迷っているところに女性の二人連れが
 「どちらに往かれますますか?」
 私と同じコースを来て 「勝尾寺に降りるつもりです」 とのこと。
 「初めて来て、道が判らなくて引き返そうと思っていました。途中まで付い
 て行っていいですか」ビジターセンター駐車場に戻る予定だと言うと
 「ここには何回も来て道はいろいろ知っています。案内しましょう」
 変な形だが、いろいろ案内してくれるのは外人で、もう一人の日本女性も外人
 の彼女を頼っているようだ。
 28年前にアメリカのフロリダから来日し大坂に来て3年
 毎週、山に登って今まで一番感激したのは剣山(1995m=徳島県)だという。
 勝尾寺に下る分岐には標識がない 
 「ここから入ると拝観料をいただけないからでしょう」 何でも知っている。
 下りた先は塀で閉ざされている 「山から動物が境内に入らないようにして
 いるのです」 と言って結わえているワイヤーを解いて私が行く先の扉を開
 けてくれる。
 彼女たちは勝尾寺の売店でオヤツをいただいて帰るという
 「また、遭えるといいですね」 礼を言って別れる。
 自然研究路に入ると落葉樹林が広がり、勝尾寺から遠のくにつれ常緑樹
 の林になる。
 東海自然歩道と比べると道は平坦でゴロタ石もない「歩きやすい道です」
 と彼女が言ったとおりだ。
 寒くならないうちに何回か来て、誰かを案内できるようになろう。

              

犬かわいがり

2010-08-03 11:07:16 | Weblog
  猫かわいがり
   猫が子猫を舐めて育てることから生まれた言葉だそうだが、
   人が飼い猫を可愛がる様も "猫かわいがり" になっている。
   有名な話だが
       一条天皇(No66=986~1011)と皇后・定子は非常な愛猫家で
       愛猫に「命婦のおとど」 という名を付け位階を与えた。
       「命婦」というのは五位以上の女官で、
       従五位以上でなければ昇殿が許されていなかったので、ネコ
       に位階を与えたという。
  
  そこで 「犬かわいがり」という言葉をさがしたが、今はまだない。
  犬はもともと外で飼われ、いろいろな責任も生じたことから "躾" が求め
  られていたので、ネコを飼う人々ほど溺愛することがなかったからだとい
  われてきた。
  しかし、近年の犬は
  屋内で飼われ、季節に合わせた衣装をまとい "オ散歩" に出かけるしまつ。
  「この子は足が悪いから」 と、車イスでドライブ気分の犬さえいて、
  わが子以上の可愛がりようである。
  そして、犬もしだいに社交的になって、手を差し伸べれば誰にでも尻尾を
  振って寄ってくるようになった。
  朝の公園でオバチャンたちが
  犬の名を呼んでは撫で回し「○○チャン、賢いねー」などと言っているが
  吼えなくなった犬は番犬の役を果たせないし
  誰にでも付いていく犬が賢いとは到底思えない。
      そんな犬にしてしまってから「この犬を捜しています」というポスター
      を公園で見かけることが多い。
  「犬かわいがり」 という新語が生まれるのも近い。

           <箕面の川遊び>
            箕面ではカナカナカナ・・・・の蝉の声
            子供のころはその鳴き方から「カナカナ蝉」と呼んでました。
            秋が近いのでしょうか   
  

包摂をめぐって

2010-08-01 16:33:12 | Weblog
  クルド人は、
  トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアの各国にまたがる民族で、
  彼らが暮らす土地をクルディスタン(クルドの地)と呼ぶ。 
  現在、イラクとイランのクルド人の行き来は陸路で国境を越えて活発に
  行われ国境沿いに点在する村々には国は違うが親戚関係にある者も
  少なくない。
  映画(わが故郷の歌)で
  夫(ミルザ)とともに歌手として音楽グループを率いてきた "ハナレ" は
  1979年のイラン・イスラム革命によって「女性が公の場で歌うことを禁止」
  されたため、同じグループの別の男とイラクに駆け落ちした。
  その後、イラクの「アンファール作戦」に巻き込まれた ハナレ が助けを
  求めていることを告げられた ミルザ は、もとの妻を捜しに息子が運転
  するオートバイに乗り込み、イラク国境地帯に出かける。

  映画を見たオマツ様が
  A4ポスターのサブタイトル<包摂と自律>を指して
  「包摂って何? 広辞林で調べたけど判らないのよ」と聞く。
  帰ってから辞書で見ると
    ・ある概念が、より一般的な概念に包括される従属関係
    ・普通に特殊が従属する関係
  もう少し、平たく説明できないのだろうか・・・と思う。
  「この映画と、どういう関係なのよ」と、聞かれるに決まっている。
  私も、こんな言葉は使ったことはないし、その映画も見てはいない。
  
  そこで、映画を見たつもりになるため<解説>に目を通すと
  クルド人は3000万人もいるが国土を持たず、分散して住んでいる国の
  政情や国際紛争の影響をうけ、追われたり虐殺の対象になってきた。 
  映画は、その歴史を歌手 ハナレ の身に置き換えている。
  たぶん、この映画を推奨する日本の民族学者は
  民族とか宗教の違いを認めて、人として受け入れる(包摂)ことを提起
  しているのではなかろうか。
  ミルザが言う 「歌は永遠だ。人から歌を取り上げることはできない」 は
  制限を受けず、自分の考えに従って行動(自律)できる社会の実現を訴
  えているのだろう。
  包摂とは「のけ者にせず手を差し伸べ仲間にする」という意味でもある。

  「学者って、やさしいことを難しく表現したがるから」 と、オマツ様。
  たぶんそうだ。
  私は、この言葉も、ほかの言葉も思いつかない