裏面打法は単板で

10mmの単板に両面ラバーを貼っている男が,卓球についてまとめます。

変化攻撃の女戦士

2021-01-24 18:01:42 | 選手
懐かしのネタを連続して投下してきたところで,久々に選手紹介を

今回紹介するのは村田瞳

右シェークの異質速攻型で,バックには表ソフトを使用しているが,その戦い方が通常の選手とは異なる。

バック表となると普通はミート打ちでバチバチ攻めていくのだが,彼女の場合はそこにカット性のブロック等を混ぜることで緩急をつけ,相手を翻弄するというスタイルだ。


実際のプレーを少し。

かつての統一コリア女子代表のユ・スンボクを彷彿させるダイナミックな投げ上げサービスから,バリエーション豊かなバック系のテクニックで相手を自在に揺さぶる。

特にカット性のブロックの切れ味が抜群で,ツッツキもナックル性になるから相手は会わせにくいはずだ。

3球目フォアドライブも,幅広いコースに打ち分けているのが特徴だ。

球質の緩急の差にこだわったその戦型は,かつての鄧亜萍を思い起こさせる。

ちなみにかつてはLili卓球スタジオ(現在は閉鎖)でコーチもしていたが,現在ではYouTuberとして活動を開始したとのこと。

自身の戦いのノウハウを全国に,そして世界に広めてほしいものである。

では,また

噺家のエース

2021-01-07 13:53:44 | 選手
前回は昨年12月に亡くなった林家こん平師匠の話をしたが,そのつながりでもう1人紹介したい人がいるので

今回紹介するのは,三遊亭小遊三

1947年3月2日,山梨県出身で,いわずと知れた笑点を盛り立てるレギュラーメンバーの一角。

彼自身もまた,こん平師匠と共に「らくご卓球倶楽部」を盛り立てた重要な人物でもある。

その腕前は確かなもので,高校生の頃にはキャプテンも務め,大学進学後には地元山梨の県大会で優勝経験もあり,当時の東京オリンピックの時には聖火ランナーを受け持ったこともあるほど。

まさに生粋のアスリート


2018年3月の東京選手権にて。

当時71歳なのだが,年を感じさせないほどに,軽快にラリーを展開している。

高校生の時に見た卓球レポートで,横浜で行われた世界ベテラン選手権でも,結構いところまで行ったのを覚えている。

伊達に県大会のチャンピオンとは言えまい

こん平師匠なき今,彼の分まで少しでも末永く現役で頑張ってほしいものだ

では,また

越後の太陽,暮れる

2021-01-05 16:32:55 | 選手
お正月に昨年秋に亡くなったセクレタンについて軽く触れたと思うが,実はもう1人,卓球界にも縁の深い著名人が亡くなったので,今日はその方について話していきたいと思う。

今回紹介するのは,林家こん平

ここに来て選手ではなくてなぜ落語家?と思われた方も多いかと思う。

実は彼自身,落語家としてのみならず,卓球界を盛り立てるのに地道に取り組んできた功労者でもあるのだ。

1943年3月12日,新潟県はチャーザー村(千谷沢村,現長岡市)の出身で,日テレの長寿番組「笑点」のレギュラーメンバーとして長く出演し続けた。

本業の落語に励む傍ら,阿佐ヶ谷にあるバタフライの卓球道場に通い,「らくご卓球倶楽部」なるチームを率いる立場でもあった。



ここからは自身の記憶にある,こん平師匠の思い出を少し。

こん平師匠を初めて知ったのは中学校3年のころだったと思う。

ほかの笑点メンバーがそれぞれ思い思いの自己紹介をした後,必ず最後で

1,2,3,チャッラ~ン

と叫ぶのがお決まりだった。

まさにメンバーたちにとっての,明るい太陽のような印象だった

それから1年ほど経った頃だろうか,徐々に体調を崩すようになり,弟子のたい平さんになって今に至っている。

降板の前後ぐらいに出た卓球レポートで,横浜で行われた世界ベテラン選手権にも参戦し,レギュラーメンバーの三遊亭小遊三師匠,そして普段時折弄っている座布団運びの山田君と共に,楽しそうにプレーしていたのを記事で知ったのも,今となっては懐かしい思い出。

表舞台に出る機会も段々と減り,去る2020年12月に訃報を知ることになった。

故人のご冥福をお祈りいたしますm(_ _)m

では,また

華の国のレジェンド

2021-01-01 13:41:40 | 選手
新年あけましておめでとうございます

去年は何もかもがいびつに歪んだ2020年ではあったが,今年も卓球にまつわる物事をしていきたいので,どうぞよろしくm(_ _)m

早速ではあるが,昨年末にある人物の訃報を知ることとなったので,今日はその方の話をしていきたいと思う。

今回紹介するのはジャック・セクレタン

中陣からの両ハンドドライブによるラリーを得意とし,主に1970年代から80年代にかけて活躍。

ヨーロッパチャンピオンのみならず,世界選手権においては77年のバーミンガム大会で混合ダブルスにおいてチャンピオンともなった。


何とバラエティー出演のために来日したことも

全盛期を過ぎてからは,独自にエキシビションとしてのパフォーマンスを披露するために世界中を飛び回ったそう。

過去の紹介したシーラやエロワと言った,特異なスタイルを誇る個性的な選手たちも,彼がいなければ生まれてはこなかっただろう。

故人のご冥福をお祈りいたしますm(_ _)m

では,また