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アースダイバー

アースダイバー

中沢新一

 

東京の地形がなんとなくブームということで、書店でも本書が改めて平積みされる例が多いようだ。縄文時代の海岸線の位置が本当にこの通りだったのかどうかは否定的意見も実は出ているらしいが、ただ東京の現在の地形をみる限りでも、あきらかに武蔵野台地の切れ目から下町にかけての境界部分に複雑な山あり谷ありの地形があり、このあたりまで海岸線が来ていたのだろうと実際に想像できる部分も多い。

本書は科学的アカデミズムの方法論で考古学をしているものではなく、あくまでファンタジー、あるいは古代の地勢を由来に精神土壌をさぐってみた東京論である――という前提で読めば、とてもとても面白い(科学的検証を立場とした貝塚爽平の「東京の自然史」という古典的名著があり、半世紀近く前の本であるにもかかわらず、いまだにゼネコンや不動産会社が東京という地形・地勢をしらべるときに参照するという)。

著者の想像力が、B級なスピリチュアル本や、オカルト本と一線を画すのは、しっかり足で稼ぎ、古来の伝説・神話を検討していることもあるが、やはり、かつての海岸線の位置に古代の東京人の精神土壌は由来する、という大胆な仮説の切れ味の良さ(現在の古墳遺跡や貝塚の後や寺社がそこにぴたりとあてはまるという傍証)と、巻末におさめられた地図であろう。正直いって僕はこの地図だけでも本書の価格のモトはとれるのではないかと思う。

 

もし、本書に僕がぜひとても付け加えてほしかった視点があるとすれば、東京湾に注ぐいくつもの河川をめぐる攻防と思い、である。高田馬場付近の谷の深さをみるに、古代の神田川はかなりの暴れ川だったに違いないし、現在は城東地区のゼロメートル地帯に流れる中川、そしてその名も荒川、もっというとかつては利根川だったわけで水系が全然違う。

また、今でも、東京都心には首都高の下などで静脈のように水路が張り目ぐされていており、なんとはなしに見下ろしていると、がらくたを積んだ船が静かに往来していたりする。今では黒く淀み、暗渠化した部分も多い東京の水の流れも、古来の東京人のココロに多く作用したに違いないと思うのである。

 

 

 

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ののちゃん  −−「吉川ロカ」シリーズ

ののちゃん  −−「吉川ロカ」シリーズ

いしいひさいち

 

いしいひさいちによる朝日新聞の4コマ連載「ののちゃん」を丹念に読んでいる人でないとわからないネタであるのだが、おととい(3月24日)、、2年越しの「連載」の最終回をむかえた。作者のサイトで作者本人がそうコメントしているのだから、最終回なのだろう。

この「吉川ロカ」シリーズというのはなにかというと、

10年前の海難事故で母親を亡くした高校生の吉川ロカは、ポルトガル歌謡のファドの歌手になることを夢見て、路上でライブ活動をやっていたところ、町で食堂を経営している一家が彼女の歌にほれ込み、平日うちでバイトをすれば、定休日に店をライブ会場にしていいと言ってくれ、ロカはこの一家の食堂「キクチ食堂」で働くことになる。学校ではどちらかというと浮き気味であったが、高校留年を繰り返す同級生が、引っ込み思案のロカに代わってマネージャー役を買って出て、地元のFMやレコード会社とわたりあい、さまざまな人間模様もあって、ついに高校卒業を目前にCDメジャーを果たす。

という青春ヒューマンストーリーである。

で、この話、何が特筆すべきかというと、上記のような話を、まるまる「ののちゃん」の中でやっていたのである。

 

「ののちゃん」というのは、20年以上朝日新聞で連載されている4コマまんがであり、いしいひさいち特有のシュールで破天荒でとにかく(ファンには)オモシロおかしい連載なのだが、当然1話完結型であり、そのベースはギャグである。日本人離れしたののちゃんのお母さん「まつ子」も、いつも二日酔いでやる気のない藤原先生も、いつもお茶をこぼすミヤケさんも、朝日新聞紙上において読売新聞最高トップをモデルにした「ワンマンマン」も、ギャグをベースにしていて、そこには人情とか心温まるエピソードとかそういうものは一切ない。それどころか、いっさい時事ネタを絡めないことも有名で、3.11の際も、これはもう鉄の意思で徹底して日常のギャグを描き続けた(「地球防衛家のヒトビト」と好対照をなしていた。もちろんどちらが良い悪いという話ではない)。20年にわたって登場人物は年をとらず(いつのまにかいなくなったキャラや、設定が変わったキャラはたくさんいるが)、永遠の中をののちゃんたちは怠惰に生きていた。

その中で2年ほど前に始まったのが、この吉川ロカなのだが、最初から異彩を放っていた。これだけが物語にストーリーをもち、毎回毎回のエピソードはオチがあることもあるが、ギャグとしてオチるのではなく、むしろヒューマニティとか、あるいは切なさ満点のまま4コマを終える回も少なくなく、そして吉川ロカとその周辺は連載の回を重ねるにしたがって年をとっていく。「ののちゃん」のレギュラー登場人物で、「吉川ロカシリーズ」にかかわるのは、キクチ食堂の面々くらいであって、そこだけ異空間のようであった(服装やアクセサリーの描写、さらには頭身も少し違っている)。こんな話が2週に1度くらいの割合で、「ののちゃん」に出てきていた。

 

で、いしいひさいち本人によれば、これは「連載内連載」だったのだそうだ。コメントの前後の文脈から推し量るに、一種の実験作だったようである。

4コマ新聞連載の中に、ある種のヒューマンストーリーを盛り込むのはこれが初めてではない。アメリカで長期連載していた「ピーナッツ」(スヌーピーのこと)がそうだし、朝日新聞夕刊でかつて園山俊二が連載していた「ペエスケ」にもあった。だが、これらはみな短期集中であり、2年間にわたって、ちまちまと入れ込み、しかも本編のレギュレーションとあえて無視したシリーズ(まさしく「連載内連載」)というのはおそらく史上初である。

いしいひさいちという人は、僕が小学生の頃にはもう「がんばれタブチくん」とか「おじゃまんが山田くん」で一世を風靡していた。バイト君、忍者無芸帳、鏡の国の戦争など面白がって読んでいた。それから30年近いわけだが、いっこうにクオリティが衰えない。もう大御所なのに、連載をやたらに抱え、実験的試みをあいかわらず「ののちゃん」でしている。徹底した職人魂、4コマにかける情熱は世界一といって良いかもしれない。恐れ入るばかりである。

 

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現状報告

現状報告

ここ最近読んだのをまた列挙すると、

・中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史 與那覇潤

・日本とは何か 網野善彦

・南極点のピアピア動画 野尻抱介

・同人音楽とその周辺 井手口彰典

 

である。脈絡ないようで実はつながっている。

まず、「中国化する日本」はネット上でも評判になっていて、読んでみてたしかに面白かった。この大胆な仮説の作り方は京都学派に通じるなと思ったのだけど、どうやら本当に一脈つながっているようだ。物議をかもしだしそうなタイトルだが、要するに中国化=グローバル化という図式なのである。このレトリックは、グローバリズムというのは、西洋諸国が台頭する以前に、中国でそのための社会体制が整えられたというところからくる。僕は不勉強なので、本当に中国がそうなのか、平清盛や後醍醐天皇らが「中国化」だったのかなど、本書が語ることの真実の程度を判断するだけの材料も頭脳も持ち合わせていないのだけれど、その真逆が「江戸時代化」という指摘はなんとなくそうかもなあ、と思う。人情とかムラ社会とか終身雇用とか年功序列とか本音と建前とかこのあたり江戸時代くさいといえばたしかにそう思う。

「江戸時代化」の基盤は何かというとコメによる農業を前提とした政治体制である。士農工商と検地と石高制。これが人を土地にしばりつけ、身分の固定性を促し、集団で一単位という社会単位をつくり、貨幣経済との矛盾をつくってしまった。良くも悪くも、コメは日本人と日本国家の歴史の中枢にある。というのは多くが共有する日本史観である。

 

・・というところを日本はもっと多様性を保った歴史があり、石高と武家社会と天皇制だけが日本の歴史ではない、というわけで網野善彦の「日本とは何か」。網野史観として名高く、「中国化する日本」でもこの名前が出てくる。僕も随所で彼の名前が出てくるのを気付いていながら本気で著書を読んだことがなく、改めて講談社学術文庫を手に取った次第である。日本列島を囲む海岸線は内地への防波堤ではなく、むしろ外地へむかって開くものであった。このポジネガ逆転の発想のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。その観点からいえば、島国としての特殊性というのは、閉鎖性ということではなく、外地に開けることによる多様性の担保された社会ということになる。もっとも多様性というのは支配側にとっては厄介な状況であり、多様性の周辺部を切り捨てて真ん中を一律にすることに腐心することになる。鎖国政策なんてのもそのひとつで、支配側が外部から来る多様性の種を一律管理することになった。

というわけで、ボトムアップが多様性を担保するのに対し、トップダウンとはひたすらに均質性を求める。つまり、多様性と国家統一というのは互いに矛盾しあっていて、国家統一とは均質化をはかるということであり、学校で教える日本の歴史が、誰がどのようにして国家を統一したか、という話で語られるのだから(結論として次々支配者が変わって争いだらけになるわけだが)、「どの点で均質化させたか」という話に終始してしまうのはしかたがない。ボトムアップの

ただ、興味深いのは、そういう日本の均質化の動きはあくまで日本という次元の中において発揮され、グローバルでの均質化にはまったく乗ってこなかったところにある。むしろ、グローバルの均質化の中では、日本は「ガラパゴス」という特殊性をまとうことになった。だが、改めて思うに、均質化した社会で強みを発揮するのは、パワーゲームで勝ちにいくか、比較優位で個性を発揮するしかない。日本は均質化の波の中でガラパゴス戦略とでもいうべき後者を選び、これが世界市場で売り物になる時代があった。

もちろん21世紀になって10年が経過した昨今、かつての日本ブランドの威力が失墜しつつあるのは多くが知るところである。「ガラパゴス」がもつ精緻さは、グローバルのスピードとコストについてこれなくなった。比較優位性が薄れたのである。

じゃあ、もう日本はだめか、均質化するグローバルの中で塗りつぶされてしまうのか、というのが昨今の論調であるが、実は世界が魅了する日本というのがある。これのために世界は日本を無視できず、そこにマネーも動く。

それが何かというと、これが「南極点のピアピア動画」である。

唐突かもしれないが、そうなのである。

「南極点のピアピア動画」に出てくるのは、まず精緻さが要求される宇宙技術。日本が「はやぶさ」で見せた奇蹟の連続技はあれはまさしく日本が世界に誇る宇宙技術である。中国が有人宇宙船「神船」を飛ばしたのは確かに偉業であり、あれはウルトラDであったとすれば、「はやぶさ」はひいき目にみてもウルトラCを100回連続でやったようなものであり、どちらが技術的に困難かは即答が難しい。

それから深海探査技術が出てくる。深海探査は海洋王国ニッポンのお家芸と言われている。宇宙も深海も、素材技術が極めて重要であるが、ここでも日本の繊維メーカーや材料メーカーの研究はすごい。なぜマスコミがおいかけないのか。アップルばっかりおいかけてないで、こちらもちゃんと取材しなさいといいたくなるくらいだ。

それからこの小説はコンビニエンスストアのロジスティックスがでてくる。これも日本の物流マネジメントの極みであり、究極のサラリーマン巡回問題みたいなものである。この複雑怪奇な一筆書きを行うような仕組みは日本だけであり、Fedexもウォルマートもできない。

そしてこれらを横断するのは、なにをかくそう初音ミクとニコニコ動画である。これこそ日本のポテンシャルの極め付け、初音ミクが世界で引く手あまたなのは周知の通り。ニコニコ動画も要するにP2P技術なのであって、そのビジネスモデルと交わされるコンテンツの多様性はyoutubeに負けていない。

・・と、かなり乱暴に片付けてしまったが、今の日本も世界に誇れるものはある。ただ、問題があるとすれば、宇宙も深海もコンビニも初音ミクもニコ動も、奇妙にオタクっぽいところである。というか、本当に日本はもうこんなのしかないのか、とがっかりされるむきもあるかもしれない。

だが、ここで「同人音楽とその周辺」である。

個人個人が持つパワーが妨げられずに発露する機会が与えられると、日本人が作り出す世界はまだまだ世界を魅了できるのである。そのためには本書で再三強調されるように「妨げられない」という環境が重要になる。その意味で、インターネット社会、あるいは同人社会というのは「妨げられない」社会である。

つまり、「妨げられない」自発的なボトムアップという分野で日本が世界に誇るものが出現している。そして、これはボトムアップゆえにゆるされた「多様性」からうまれている。「中国化」というのはとにかく「妨げられない」社会をさしている。「江戸時代化」を憧憬に持つ日本は、「妨げられる」ことを自ら選んでそこに安住し、そして安楽死していくところがあったわけだが、ここに一番「中国化」した世界がなにをかくそう「同人」の分野であり、初音ミクであり、台湾返礼に見せたパワーなのである。最近になって国のほうでもクールジャパンといってこれらを持ち上げたり、大メーカーがキャンペーンに使うようになったが、トップダウンが完全にボトムアップの後塵を期した好例である。

  ただ、この「妨げられない」という、要するにネオリベラリズムが、政府主導である限りは格差云々の不公平感の蔓延を助長してしまうのは確かであり、ボトムアップのピープルパワーがかわりにそれを成し遂げるのか、日本人には本当にそれだけの分別と行動力があるのか、その出先が「初音ミク」に行ってしまう日本のカルチャーは本当にアジアの日本として世界に復権できるのか、それは本当にわからない。

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死都日本

死都日本 (ネタばれほとんどなし)

石黒耀

年あらたまっても大震災の記憶は少しも色あせない。去年は大震災だけでなく、紀伊半島の台風と大水や、東北地方の大豪雪などもあった。そして霧島の新燃岳が噴火を繰り返した。

「死都日本」はまさしく霧島が噴火する小説である。瞬時に南九州を壊滅させ、数日後には日本全土を崩壊させてしまう。もっとも、この小説での噴火は、新燃岳とは異なり、あの地下に眠る巨大な火山、加久藤火山が大規模な水蒸気爆発を起こすというもので、いわば「最悪」を想定したシミュレーション小説だ。ただ、まったくの絵空事ではなく、この付近は火山帯としては極めてデンジャラスゾーンでいくつものカルデラが存在しており、日本の生態系を壊滅させた大噴火を、地球年代史的な意味では「たびたび」起こしている。最後の噴火は7000年前である。

 それにしても、規模の大小はあれ、自然の災禍というのは本当にどうしようもない。東日本大震災以降「防災」よりも、災害はおこるものという大前提においていかに被害を少なくするかという「減災」という概念が唱えられるようになってきているが、ほんと去年1年を通じて「防災」なんてのがいかに夢物語かというのを痛感する。

個人的には富士山の噴火とヒトの間で流行する鳥インフルエンザ(H5N1型の変異)と、南関東直下型の大地震は、いずれ起こるものという気がしている。そのいずれが、10年内なのか100年内なのかはそのもっと先なのかはわからないが、そういうとき、いったいどういう風に判断し、行動し、生活し、生存していくべきなのだろう。

 

本書「死都日本」はただのパニック小説ではなく、そこには日本国家の生存をめぐる大英断という視点も入ってくる。小説内での国家首脳陣は極めて頼もしい。有事に必要なのは、ピープルパワーとしての生きる気力、それからトップの決断力と行動力である。ピープルパワーの強さは「アラブの春」でも示されたわけだし、東日本大震災ではなかなか日本人も捨てたものではない動きがあったが、いっぽうで震災がれきの受け入れを拒否したり、福島の物産展が中止においこまれるなど、本当に一枚岩にはなかなかなれない。そしてなによりも、国のトップのほうは本当にうろたえ、権力闘争を繰り返すなど醜態をあらわにした。ここはほんと小説とは大違いだった。

 「死都日本」の噴火はもちろんフィクションの限りだが、そこに描かれた国の姿勢も幻想のままというのではなんとも情けない。プライマリーバランスがめちゃくちゃなのは周知の通りだが、後手後手の結果やっぱり消費税増税なんてたしかに虫がよすぎると思われても仕方がない。ついに野田改造内閣が発足したが、ぼちぼち本気でしめにかからないと、TPPどころかほんとにIMFの管理下に入りかねないのでは。

 

 

 

 

 

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階級都市 格差が街を侵食する

階級都市 格差が街を侵食する

橋本健二

 

マルクス主義観が散見されることにちょっと辟易してしまうところもあるのだけれど、なんとなくみんなが皮膚感覚的に思っていたことを、統計データとフィールドワークで明確に看破した感じの本である。ただし、東京23区に限定された話なので、それ以外の地域に住む人にはいまいちぴんとこない話だとは思う。

僕自身はついに人口減少に転じた千葉県住民だけど、職場が東京で、かつては区内に住んでいたこともあるので、本書の描写はどれもなんとなくわかる。私見の限りで言うと、90年代後半あたりから都心回帰現象が始まって、それが現在のジェントリフィケーションという都内格差をつくったわけだけれど、そもそも「都心回帰」というからにはそれ以前に「郊外進出」という時代があったことになる。その時代こそバブルの地価高騰の時期、80年代だ。団塊という最大人口ボリュームを持つ世代が、都内のサラリーマンとして働き盛りだったころである。このときは土地バブルで、一介のサラリーマンはとてもじゃないが、職場の近くに家など買えなかった。職場から1時間から2時間はかかる遠方の郊外に住居を定め、常軌を逸した満員電車で毎日通勤せざるを得なかったのである。だから、地価が下がって、多少なりともローンが組めるようになると、都心回帰するのは当然の力学なのである。

一方で、都市社会学的観点からは、都市の内部には必ず格差が出現する、とは本書でも先行研究事例として指摘している。東京、ひいては江戸においては、もともと江戸時代から、城西城南のほうが、城北城東より格上という地盤ができていた。それは江戸という西高東低の地形がそうさせたのである。その江戸が首都になり、そこに人口が集結すると必然的にこういうことになり、「格差の再生産」は容易に進む。発掘された下町の江戸時代の人骨を調査すると、けっこう貧しい暮らしを強いられた例も多かったことがわかるそうだ。

本書では多様性の保全こそが健全な都市のありかたということを終章で述べているが、根本的なところで日本人は多様性というのを信じていない国民だと思う。「一億総中流」という状況を心地よいと思うこの感受性を持つDNAが多様性をみとめるわけがない。

最近の報道では、東京23区では5割近くの中学生が私立中学通学者になっているそうだ。WEBと携帯電話で、土地をしばる社会組織力はますます弱まっており、土地柄を離れ、ステイタスで横軸に階層されていく都市像はますます加速していく様相である。本書でも指摘しているけれど、雑誌の「下町特集」とかNPOなどが行う「地域活性化プロジェクト」が最近随所で見られるということは、そういう動きが出るくらい、土地を縛る力が弱体化しているということに他ならない。モクミツ地域を睥睨する高層マンション。他の住宅街を通らなくてもよそに行ける張り巡らされた地下鉄網。ひとつひとつの殻がますます硬くなりながらモザイク都市はますます一極集中していく。

 

 

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13日間で「名文」を書けるようになる方法

13日間で「名文」を書けるようになる方法

高橋源一郎


 初めて読んだとき、とても感動した。

 それで年初に再読することにした。毎年、年初の本にしてもいいくらいだ。

 いい本である。タイトルはあえて実用っぽいが、ずっと汎用と抽象の本である。言語論でもあり、哲学書でもあり、福音書でもあり、教育論の本でもあり、認識論の本でもあり、発想法の本でもあり、プレゼンテーション技法の本でもあり、いっそ小説のようでもある。この本が語っているのは「名文の書き方」ではなく、「ことばのつむぎかた」であり、一貫して信じられているのは「ことば」が持つ力、「ことば」が人を動かす力の強さだ。

 「ことば」の力とは、その「ことば」が文字が羅列した文章というものでも、口から声として発話されたものでも、あるいはみんなの心の中にしまわれた暗黙的な単語でもなんでもよいが、そのつむぎ方次第では、一国の大統領さえなれてしまう、ということだ。たしかに4年前、オバマを大統領にしたのはあの「演説」だった、と言えなくもない。

 それはけっきょく「ことば」がなければ、物は覚えられないし、世の中がどうあってどう動いているのかを把握できないし、生きるとは何か、死とは何かさえ、認識できないということだ。そしてなによりも人と人が結びつかないということだ。事態を我々の脳が把握するとき、いちいちカシャカシャとキーボードを叩くように文字化・言語化しているわけではないが、それでもやはり「ことば」による輪郭の形成・秩序立て・順序立てがなんとはなくあって頭の中で整理される。人によっては、絵画的に、あるいは造形的に事態を把握するかもしれないが、部分的には「ことば」の作用、たとえば2つ以上の要素を関連立てて組み立てるとき、それが順接だろうと逆接だろうと、なにかしら関連しているだろう。あるいは十派一からげで非論理的だろうと、右脳左脳に関係なく、やはり「ことば」は有形無形に作用されていると思う。「ことば」がなくなったとき、我々は孤独に1メートル先も見えない濃い霧の中に永遠たたずむだけの存在になる。

 それにしても、当時、氏の3才の息子が「急性脳炎が濃厚」とされ、障害が残るおそれがある、というところのこのエピソードは、これだけでひとつの本になる。本書では、その後の予断は決して許されぬ感じで幕切れになっているが、その後の彼の発表している文章をみていると、どうやら完治したようであり、他人事ながら安心した。

 

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レトリック感覚

 レトリック感覚

 佐藤信夫

 講談社学術文庫に収録されており、既に名著の誉れが高い本書であるが、白眉は、冒頭の序章だと思う。以後の具体的な分類も考察と示唆に極めて富んでいるが、肝心なところは序章に集約されている。

 序章は2つにわかれていて「レトリックが受け持っていた二重の役割」「レトリック・修辞・ことばのあや」となっている。これらにて総括されているのは、長い間レトリック(修辞学)と呼ばれるものは、「相手を説得するための表現の技術」と「相手を感動させるための芸術的表現の技術」という役割論で語られ、それに対して著者は「(人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく)、私たちの「認識」をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要」と説いた。

 「認識したこと」を相手に伝える道具として、言葉や文章がある。なるべく自分の認識と合致したものを相手に伝えたいが、往々にして、与えられた言葉から相手が「認識」した姿は、当初、語り手が持っていた「認識」と微妙に、あるいは大いに違うことが多い。このへんは、コミュニケーション論とか認知哲学とか、メールの応酬はケンカになりやすい、とか、でおなじみの話である。

 これを、語り手の語彙力の問題とするか聞き手の「ものわかりの悪さ」とするか、はそれぞれだが、通常は会話は何度も往復して行われるので、そこで相互の「認識」のズレが少しずつ微修正されて、まあだいたいは事なきを得るのである。

 その「ズレ」をなるべくつくらないで投げかける技術がレトリックだ。場合によっては「言語の常識的なルールにわずかにさからってもいいから、あえて意識の深層を忠実に表現しようという工夫」でもある。それは、ほんのちょっとした“てにをは”の違い、文章上のリズム、対象と微妙な距離感のものを持ち出してくる比喩などを繰り出す技術である。

 本章の各レトリックの分類でもそうだが、著者は徹底的に、そのレトリックによって得られる「効果」を至上としてレトリックの世界を見ている。古典レトリック学の多くが、その構造に注目し、分類のための分類になってなんだかよくわからなくなっているのに対し、著者は聞き手に与える「効果」の違いから見ている。その「効果」とは、先の夏目漱石の言葉「「扇の要のような集注点を描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」を借りるなら、語り手が、その言葉を使うことによって、どの方向に連想の世界を暗示させたいか、ということであり、その手法の選択肢としてのさまざまなレトリックである。

 "百聞は一見に如かず"、英語圏では"A picture is worth a thousand words"とあるように、正確を伝えるために「ことば化」するというのは実に困難な作業である。これら「ことばにならない」さまざまな事柄を、しかしそれでも、相手に自分が伝えるためには100や1000の“ことばのあや”を駆使しなければならない。小説や詩だけではなく、論文やレポート、業務報告書だってそうだろう。

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誰も教えてくれない人を動かす文章術

誰も教えてくれない人を動かす文章術

齋藤孝

たしかに誰も教えてくれないだろう内容なので、読書感想文から大学のレポートから会社の報告書まで、文章書きに直面すると気重いっぱいになってしまう人にとってはアンチョコそのものといっていいほどの威力を発揮しそうな本である。もっともその文章術をここで書き写してしまうと営業妨害だからそれはできないのだけれど、しかもそれは本当にここにちゃちゃっと書き写せてしまうほどシンプルなものだったりするのだけれど。というわけでデスクに1冊置いておきたい本である。

ところで、僕はどこにむかうのかわからない即興で文章を書きすすめていくのがけっこう好きである。だから、このブログなんかほとんどいきあたりばったりである。うまく着地することもあれば、自分でも想像してなかったところまで到達してしまうこともあれば、なんだか支離滅裂で無茶苦茶な場合もある。

このブログは益も害もないからいいけれど、会社の業務レポートとか提案書はそうも言ってられない。取り掛かる前に「設計」がいる。始めはここから開始させて、それとこれを扱いながら、最後はあそこに着地させよう、という構想が必要となるのだが、僕はこの「設計」してから書くというのがあまり好きではない。もちろん、業務レポートに好き嫌いなんか言ってられないので、筋道をある程度組み立ててから取り掛かることも多いのだが、あんまり触手が動かない。許されるのならば行き当たりばったりいきたいのである。

だが、時間もなかったり、なんか気分が高ぶっていたり、あるいは逆にやる気がなかったりすると、もうそのままどうにでもなれと書きだしてしまう。企画書を書かなくてはいけなくなって、何の企画アイデアもないのだけれど、とにかく最初の1ページ、最初の一文を書いてしまったりもする。

情報は情報を呼ぶ。情報は常に新たな情報にくっつくことを求めている。これを言っているのは松岡正剛だけれど、情報は言いかえれば文章でもある。だから、何か書けば、次の何かの文章はアフォーダンスのようにひょいと出てきたりする。もちろん、袋小路にぶちあたって二進も三進もいかなくなり、大退却することもあるのだが、なんだか最後までいけてしまったりもする。

で、これを推敲、校正する。

するとなんとしたことか、けっこう読ませる、と自分で自画自賛してもしょうがないから、他のひとに読ませて、わりとウケがいいことも実は案外に少なくない。もちろんすべることだってあるのだが、あまり褒められた書きかたではなさそうにもかかわらず、前回の綿密な計画で書かれた企画書よりも評価されたりする。これはどうしたことか。

これが「設計」の罠なのであるる。とくにパワーポイントみたいなフォーマットはこの罠に陥りやすい。設計は要素を分解して配列するから、情報としてはつながっているように見えるけど、そこにあとから文章をあてはめていくから、どうも文をつないでいくという観点からすると細切れになりがちなのである。各パートの情報は完結するのだが、ぜんぶつながていくと、畳み掛けるような、あるいは早く次のページをめくってみたくなるような感興性をどうも発揮しにくい。各パートの独立性が際立ってしまって、全体の文脈が後退しやすいのである。つまり、リレー競走で、それぞれのランナーの足はとても速いのだけれど、どうもバトンの受け渡しがぎくしゃくするようなものである。

ところが、即興でつらつらと書きつなげていくと、そこはリニアに物語が流れる。だから、細切れにならずに、読み手からすると自然にその流れにのっていけて、いつのまにか結論までふっとカタルシスをもって共有できたりするのである。若干そこにはだまされた気分というものもつきまとうことは否定しないが、細切れ感はない。ただ一方で、冗長さが出るおそれがあるので、これはしっかり推敲しなければならない。

文章というのは、かならず流れがあって、読み手をこの流れに乗させることは実はすごく重要なのである。この流れに乗れない文章は、いくらそこに大事で慧眼な情報が入っていようと読み手の頭には入らない。学術書にありがちな読みにくさはどうもここに起因しているように思う。初めから終わりまで一気呵成に読ませてしまうことによる読み手の満足感、高揚感、感心はけっこうバカにならないので、どうしても「設計」ができない場合は、とにかく書き始めてしまう、というのもひとつの方法である。

 

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上司は思いつきでものを言う

上司は思いつきでものを言う

橋本治

タイトルのインパクトという意味では、「人は見た目が9割」と双璧。

本書の真価はこのタイトルにあるといっても過言ではない。だから逆に言えば、このタイトルさえ瞥見してしまえば中身は読まなくてもいいかもしれない。それくらい破壊力のあるタイトルだ。実際、僕はタイトルだけでもう満足してしまっていて、だから中身を読んだのはつい最近なのである。

もちろん中身を読めば、あくまで著者の私見としてだが「なぜ上司は思いつきでものを言うのか」が述べられており、その思考は儒教思想の名残りというところにまで行きつく。だが、著者の私見があってようがあっていまいが、結論としてニッポンのサラリーマンはみんな「上司は思いつきでものを言う」ことを知っているし、日々それにまきこまれている。本書の価値は、その理由を解題していることではなく、ずばっと「上司は思いつきでものを言う」と、つまり「王様はハダカだ!!」と同じように、言いのけてくれたカタルシスにあるのだ。

 

まあ、そんなわけで、中身を読んでもタイトル以上のカタルシスはもはや望めないわけであるが、中身を読んで、そうだよな、と思ったことは「よく考えてみる」と「ちょっと考えてみる」というこのニュアンスのところだ。なるほど、「よく考えてみる」は、相手の立場、すなわちどういうアイデアならば相手は受け入れてくれるか、という視点であり、「ちょっと考えてみる」は自分の立場、自分だったらどうするか、という時点で考えるということである。前者は世の中にごまんとある「正しい答えが、受け入れられる答えとは限らない」の罠に陥った場合の苦しい状況であり、後者はわりとストレスがなくて自由度が高いことが多いような気がする。少なくとも、そんな気分がある。

本書では「思いつきでものを言う上司」には「あきれた態度」を示しなさい、というまことにエレガントな提案が用意されているのだが、とはいえ再考を求められた時のつぶやきかたとして「ちょっと考えてみます」といういいかたは精神状態としてかなり良いんじゃないかと思った。ちゃんと考えてみる、よく考えてみる、と自問自答するのは苦痛だが、ちょっと考えてみる、ならば気はかなり楽になる。

それどころかそもそも仕事とはこれでいいのだという気もする。ちゃんと考える必要はない。よく考える必要もない。ちょっと考えればいいのである。それで、思いつきでものを言う上司にダメだしされたら、また「ちょっと考えれば」よい。なぜなら、よく考えても、ダメだしされることにかわりはないからである。

だいたい「ちょっと考える」というのは、これはこれで「思いつき」なのである。思いつきには思いつきで答える。あとは時間が解決する。世の中よくできているのである。

 

 

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知の編集工学

知の編集工学

著:松岡正剛

 

前の職場、そこは事業コンサルティングとかマーケティング上の戦略企画とか、そういうのに毛がはえたようなことをやるところだったのだが、そこに新卒で入社したとき、とにかく右も左もわからず、先輩からどやされてばかりいた新人時代ですっかり自信を喪失していた日々が続いたわけだが、そんなときに出会ったのが本書である。15年前くらいかな。

僕はこの本を読んで、嘘でもなんでもなく、仕事が3倍速くなった。もちろんたまたま仕事になれてきた時期とタイミングが重なったともいえるだろう。いろいろ仕事の内容や自分の立ちまわりが腑におちると急に仕事がまわるようになる。ただ、当時の自覚として、僕は本書の内容に自信と手ごたえを感じ、あきらかに自分の仕事に自信を持つことができた。

 

最近、ゆきづまりを感じてきて、初志を思い出す意味もあって本書を再読した。座右の本ではあったものの実は10年以上開いていなかったので、だいぶ内容は忘れていて、いったい自分が本書のどこに琴線に触れたかを確認したかったのだった。

で、松岡正剛の本はどれもそうなのだが、はっきりいって何が書いているのかさっぱりわからないのである。博覧強記を母体にする彼の著書は衒学趣味に溢れていて話は右へ左へ手前へ奥へと自由自在に移動し、文脈を追うのも一苦労なのである。彼の著書の味わい方というのは、一生懸命文章を追って理解するのではなく、なんか言語のシャワーを浴びて、そのところどころになんだかココロにひっかかるもの、ひざをたたくものがぐぐっとクローズアップされ、そしてまた遠景へと去っていく感じを味わう、そんな読書スタイルがあっていると思う。彼の本は、プログラムとしては日本語の文章による一本の流れで成り立っているけれど、彼流にいえば「ノンリニア」に味わうものである。少なくとも僕はそのように読む。(というか、そのようにしか読めないのだが)。

で、当時の僕がなぜ仕事が3倍速くなったと自覚するほど本書に学ぶところがあったのか。なんとなくぼんやりと覚えているのは当時の僕は「仕事には正解がある」と硬直して信じ切っていたのだが、本書を読んで「自分の信じるように、自分の持ち前の知識と技術でやって問題ないんだ」と肩の力が抜けたことである。この「脱力」こそが最大の成果だったかもしれない。

 

再読してみてけっきょく具体的にはどの個所にそこまで目ウロコされたのか思いだせなかった。むしろ内容をほとんど覚えておらず、初読とかわらないほどだった。

だが再認識したこともある。報告書も提案書もついつい書きこんでしまう。誤解や解釈の多様をなくすために硬直化した論理構造と文章をとろうとする。でも実はちっとも読み手に感激も関心も与えないのである。むしろ「示唆を与える」程度で投げだしたもののほうがずっと相手にとって歩留まり、関心され、感謝され、お買い上げになることが多い。本書的に言えば「相手に編集させる」ということなのだが、これまでの実体験を省みて、正しいように再認識した。

 

とはいえ、今の僕が読んでもやはり全部の7割くらいは読んだ先から忘れていく。15年前の僕はいったいこれらのどこを読んで、そんなに目ウロコだったのだろうか。自分で自分を神話化してしまったような本である。

 

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ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

京極夏彦

 ようやく読んだ。けど、全作が10年前。そのとき僕は分厚いハードカバー新刊を買った。あれから10年。

 登場人物もどんな話だったのかもほとんど記憶にないのだ。この10年はあまりにも長かった。結婚もしたし、子供も生まれた。仕事も変わった。住んでいるところも変わった。

 だから、正直いってなかなか読みにくいのだった。しかも、2つのエピソードが交互に現れる方式‥・古くは「怒りの葡萄」とか、最近ならば「1Q84」とか「涼宮ハルヒの驚愕」とか。そんなもんだから通勤の行き帰りなどの垣間読みだと、なかなか全体の流れをつかめなかったりするもどかしい読書となってしまった。

 

 とはいえ、ここはストーリーテラーの京極夏彦だから、最後まで読みきったわけである。これ以上のネタばれは避けながら、所感を書きます。

 全作もそうだったとおぼろげに思うのだが、ここは物凄く過敏なまでのコミュニケーションによるカタルシスと障害が描かれている。最近の中学生の空気を読む感覚は、おおげさでなくこんな感じなんだろうかと思うとやるせなくてしょうがない。実際、会社に入ってくる新入社員(いよいよゆとり世代)のあの息をつめるような顔色の窺い方はいったいなんだろうかとむしろ心配になる。

 これをして、大胆さが足りない、とか自分に自信がなさすぎと批判するのは簡単だが、一方で、彼らがこうせざるを得ない空気がそこにあるのも事実だろう。我々世代の知らない世界がそこにある。いったいなんでそうなってしまったのだろう。

 訳知り顔に、親が叱らなくなって甘やかされたからだとか、学校の先生が腑抜けになったからだ、とかいう声も聞くが、どうもそんな単純な理由ではないような気がする。もっというと、ここにはかなり本能的な生存競争が支配されているのだと思えてならない。我々世代には想像もつかない深刻な生存競争が今の中学生世代にはあるのだ。

 生存競争が激しくなるときというのは、多様性を失ったときである。多様性が担保されているときは、それぞれの居場所が確保されていてそれなりに均衡を保つのだが、多様性を失うと少ないリソースを奪い合う必要があるため、生存競争は激しくなる。

 これだけ、価値観の多様化とか個性の重視とか言われているのに、むしろ真実は多様性を失ってますます画一化されているのではないか、というのは僕の憶測である。実は、日本人は多様性の良さなんてものをちっとも信じてやいないのではないか、というのは僕の仮説である。3.11以後、ますますこれは加速化したように想う。

 画一性というのはファッショなわけで、これはやはり余裕のない時代を背景に生まれる。どこの誰がみても今の日本に余裕などないのだが、逆に余裕がないのを言いわけにして、誰も余裕を取り戻そうとしていないようにも思う。つまり、「どうすれば余裕がうまれるか」は誰も考えない。「ゆとり教育」は大批判されてついには撤回されたわけだが、「どうすれば意義あるゆとりがとれるか」というアジェンダはついぞ設定されなかった。「ゆとり」なんて邪魔なだけだ、という前提がここにはある。

つまり、日本人DNAとして「ゆとり」は敵なのである。ゆとりはなんだかよくわからない自分の価値観にあわない多様性を創出させてしまう。それはどうもおもしろくない。ということで否定されてしまうのだ。金子みすずの有名な詩に「鈴と小鳥とそれから私、みんな違ってみんないい」というのがあり、極めて人気が高いのだが、人気が高いというのは現実の世の中がこれを体現するのがほとんど絶望的なまでに困難だということの裏返しでもある。人々はここにユートピアを求めているのだ。

 この小説が持つ破壊的カタルシスも、SFエンターテイメントではありながら、実はやはりユートピアを描いているような気がしてならない。我々はこの破壊的な世界にあこがれを持つ。徹底的な清潔と制御がもたらす安寧と抑圧。ここに喜びはない。この小説の登場人物が得る喜びは、この絶対安定をどう崩していくかというところに終始ある。江戸末期にええじゃないかが日本中を席巻したように、暴発のカタルシスをいまの日本は探し求めているような、いやな予感がしてならない。

 

 

 

 

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民意のつくられかた

民意のつくられかた

斎藤貴男

 民意とか世論とか有権者の声とか、一見ボトムアップの民主主義のように見えながら、実は政府と官僚とマスコミによって知らず知らずにつくりあげられたものであった、という話。といってもねつ造ではなくて、そういう機運になるように周到にしむけられた、あるいはしむけようとしたが結局うまくいかなかったというものをとりあげている。特に電通や博報堂などの広告代理店が一枚かんでいるのが、最近の国策PRの特徴ということである。

 

 世論というものが、実はオピニオンとマスコミのたくみな仕掛けによるものだというのは「輿論と世論」でよくリポートされている。また、PR会社がひとつの社会価値観をつくりあげていくこの極北としては、ボスニア紛争でセルビアを徹底的に世界の悪者に仕立て上げた「戦争広告代理店」が知られている。戦時中の日本の新聞社が戦争高揚に一役買っていたのもよく知られた話であるし、これのもっとも大々的なのがドイツナチスによるものというのも有名である。

 で、これをけしからんというのは簡単なのだけれど、では、なんでこういうことになったのか。なぜここにきて広告代理店やマスコミを間に介在させて、こんなややこしいやり方をしなければならなくなったのか。

 思うに、有象無象にうごめいている人民をひとつの方角に意思統一しなければならなくなった最初のきっかけはやはり「戦争」だったと思う。人と物を集め、前線から銃後までをひとつの気運ならしめる総力戦。近代以降の戦争はそうでなければ推進できなくなった。無理やりトップダウンで徴兵徴発するのでは戦争はできても、「勝てない」のである。よく「大義」のない戦争は絶対に勝てない、と言われているが、「大義」こそ、全国民全資産をひとつの目的に集中させる御旗だった。

 で、そのためにどうすればいいか、ということで、国と軍と科学技術が懸命に研究し、成立させたのが「マーケティング」なのであった。逆に言えば、人心を把握する近代的方法はすべてここから出発している。
 戦後、すべてを総動員するような戦争は、ひとまずアメリカ、西ヨーロッパおよび日本ではほぼなくなって、この手法が民間にとりいられるようになった。現代のマスコミジャーナリズムやコマーシャリズムはすべて近代戦争の申し子といってもいいくらいである。

だから、最近になって、国策PRが、あたかもメーカーのキャンペーンのようになったというのは、決して異様なわけでも、国がなりふりかまわなくなっただけでもなく、行政のやり方の本来の姿に気付いただけなのである。マーケティングとかキャンペーンというのは、国策が元祖なのだ。それどころか原子力政策だけは戦後も脈々と続いていたのである

 

 この「やり方」に国民が気付いたのは、やはりインターネットという一種アナーキーな情報社会の出現があったからだろうと思う。つまり、国と国民の関係がどういう方法で成されていたかを、国民が自省的に観察・検証できるようになったからに他ならない。つまり、国民の成熟である。


 だから、最近になって急に国策PRがキャンペーンのようになったというのは間違いで、初めから国策はキャンペーンだった。ただ、それに気付かなかったのである。最近は、そのことに気付くほど、国民の情報リテラシーが上がったのである。最近のテレビはジャーナリズム面して実はやらせや筋書きありのものが多いと言われているが、なんのことはない。昔からそうだったのである。そのことに気付くほど、国民の情報リテラシーが上がったのである。

 だから、国としては、キャンペーン型はもうやめたほうがいい。国民は、仕掛けに気付いてしまったのだから。だが、国の経験知はこれしかない。広告代理店もマスコミも他に方法をしらない。では、国が、国民が、みんなでひとつの目標にむかってコトを成さねばならないような事態に遭遇したら、いったい既政者はどうすればいいのか。国民はどう受容すればいいのか。その方法は誰も知らないのである。(というか、福島第一原発の事故の対処は十分このレベルに相当すると思うのだが見事に国も国民もバラバラである)

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森見登美彦・涼宮ハルヒの憂鬱・他

森見登美彦・涼宮ハルヒの憂鬱・他

 

とにかく仕事のほうがむちゃくちゃ忙しかったのである。こんなに忙しいのも何年ぶりかといくらいの数カ月となってしまった。

だから、まともに本が読めない。

とはいえ、こういうときは仕事ばっかりしていてもよくない。僕はとくに仕事が好きなわけではないので、本でもなんでも、ココロの逃避上をつくっておかないと精神が荒廃していく一方だ。

というわけで、こういうときはあまり頭を使わない―というか、気軽に、深刻ではなく、だがしかし、次はどうなると推進力のある小説を携えておくことが理想である。小説といっても、読後が重たいの、たとえば社会派めいていたり人間の暗部をついたようなのはこういうときはNGだ。だから「告白」とか「八日目の蝉」とかかなり面白いらしいのだがひとまずパスした。また、本格推理とかハードSFのような、常に油断ならないものもあまりふさわしくない。「虐殺器官」読もうと思っているのだがまだ手をつけていない。

さらにこれらに加えて文庫本であることも重要である。食事や通勤、あるいはエレベーターの待ち時間などにささと引っ張り出して読めることが求められる。

 

というわけで、この3カ月の間、ひたすら読みやすいエンターテイメント小説を手に出していた。それが以下である。

・森見登美彦 夜は短し歩けよ乙女
・森見登美彦 四畳半神話体系
・森見登美彦 恋文の技術
・森見登美彦 走れメロス
・森見登美彦 美女と竹林
・有川浩 阪急電車
・有川浩 図書館戦争
・鯨統一郎 新・日本の七不思議
・三上延 ビブリア古書堂の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち
・越谷オサム 陽だまりの彼女
・谷川流 涼宮ハルヒの憂鬱
・谷川流 涼宮ハルヒの溜息
・谷川流 涼宮ハルヒの退屈
・谷川流 涼宮ハルヒの消失
・谷川流 涼宮ハルヒの暴走
・谷川流 涼宮ハルヒの動揺
・谷川流 涼宮ハルヒの陰謀
・谷川流 涼宮ハルヒの憤慨
・谷川流 涼宮ハルヒの分裂
・谷川流 涼宮ハルヒの驚愕

 

こうやって並べてみると、涼宮ハルヒシリーズの存在感あるな。

 

まず、森見登美彦だが、実はまったく初見で、やたらに平積みだけされていたのだけは知っていたのだが、立ち読みさえしたことがなかった。たまたま、職場の同僚が「夜は短し・・」がめっぽう面白い、というので、どれどれとあまり期待せずに読み始め、そのまま没入した次第である。

好悪わかれそうな文体だが、個人的にはけっこう好きである。清水義範をちょっと思い出させる。最初に読んだのが「夜は短し歩けよ乙女」で、けったいな世界観と不思議にひきこむ文章で、そのままひきこまれた。しかも、彼の小説はなんとなく舞台や小道具が各作品つながっていることもあり、そのまま次々と読むに至った。「恋文の技術」なんてけっこうな離れ業でしかも、荒唐無稽と思いきや、なかなか説得力もあって、最後のほうはけっこう唸ってしまった。「四畳半神話体系」は、最初はなんじゃこりゃとむしろ引き気味だったのだが、第2話を読み始めて、ああ、そういうことなのね、と作品の「主旨」がわかったら、俄然たのしくなった。

有川浩は残念ながら二冊で打ち止め。ちょっと自分の琴線と違うかも。大人気なのはわからなくもないが、個人的にはあと半歩、ココロか仕掛けかギミックに踏み込んでほしいという感じ。

越谷オサムの「陽だまりの彼女」は、これも行き帰りの電車と食事中に読破したものの、実はしてやられた。この喪失と安寧がごちゃっとなる読後感は、あんがい類例がない。最後まで読んで、ああそういうことかともう一度随所を読み返す。

鯨統一郎の「新・日本の七不思議」は、作者自身が小説の体を諦めたのではないか。言い方悪いがやっつけ仕事のようにも見えるぞ。彼の歴史ミステリーは、なんだかんだでデビュー作の「邪馬台国はどこですか」が秀逸な気がする。

三上延のはなかなか選書がマニアックであってシリーズ化希望。

 

涼宮ハルヒシリーズは、これも存在はむろん知っていたわけだが、この手のジャンルにまったく無縁だった。だが、「驚愕」が東京駅の本屋で平積みされ、都内の大型書店でランキング1位に入ってきたり、ユリイカで特集が組まれるとなると、本好きとして知らないわけにはいかないような気概にかられ、購入した。この文章と内容なら多忙であっても1日1冊のペースでいける。最初の1冊目「憂鬱」は、まあライトノベルというのはやっぱこういうやつなんだなという具合で読んでいたのだが、「消失」あたりからけっこう面白くなった。いい感じに作者にエンジンがかかった気がする。やたらに衒学な引用をちりばめてきたり、いろいろなSFプロットを借用してきているなど、なかなかどうしてやるもんである。今まで完全無視してきた不明を恥じたといっていいくらいである。たまに入ってくる挿絵が、電車の中などで読んでいてハズカシイのが欠点。

まあ、そんな感じである。ここ数カ月はとにかく仕事が忙しく、とにかく殺伐としたココロにだけはならないよう気をつけたい。

 

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平凡倶楽部

平凡倶楽部

こうの史代

本ブログでは何度目かのこうの史代である。彼女の単行本はたぶん全てコンプリートしてきたつもりだが、多忙にかまけて本書の刊行を見逃していた。本日、ようやく手にとって読んでみて、凍りついていたところである。

なんという発想と表現の多様性の持ち主かとおそれおののく。これまでの諸作品でも随所に実験的な試みが散見されてきたが、そんなこうの史代の実験ラボみたいである。観察対象は「平凡」であっても、ここにくりひろげられる世界は非凡極まりである。はっきりいってこれで1200円は安い。5、6000円の芸術書や思想書に匹敵する内容である。

とにかく驚くことは、実験が実験に堕しておらず、それが作品表現の深みを2倍も3倍もしていることである。

たとえば「古い女」は、ここで描かれる世界そのものが戦慄と福音が同居する摩訶不思議なテイストをもった作品だが、これが古いチラシの裏に描かれることで、ちょっと尋常でないリアリズムをつくりだす。父親の病院見舞いを手書きで記したエッセイ「遠い目」は、望郷と諦観がにじみ出たまさしく「遠い目」を感じさせる文章であるが、この文字の配列や太さの妙で、遠目にみると、病院の廊下の光景になるというだまし絵になる。この廊下の光景というのが、逆光に照らされてコントラストがきつい不安げに満ちた廊下なのである。これひとつでトラウマになりそうだ。予定調和なマスコミインタビューにわだかまりを覚える「なぞなぞさん」、記号的かつ抒情的という高度なバランスで沈黙の哀歌を描いた「へ海らか山」、正岡子規よろしく病床からの夕顔観察「花かぜの夜」、いずれも生半可でない対象への観察の思いと、そして表現上の試みがある。

こんなことばかりしていてこうの史代の健康は大丈夫なのかと思っていs舞う。なんかもう命を削って描いているようで、長生きしないのではないかとまで危惧してしまう。だから、最後のあとがきで“愉快だったなあ‥”と書かれると、ほっとすると同時に、これを愉快の一言で済ませられてしまうことにまた戦慄を覚える。

誤解をおそれずへんな言い方してしまうと、凡人の神経の持ち主ではないんだろうと思う。鬼才級の詩人や芸術家のみが持ち合わせているような感覚知、ある種の狂気までも感じる。鋭利な観察眼とたしかな創作技術、もはや漫画家や単なる表現者の枠を超えてしまってた、思想家の人である。

 

 

 

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失敗の本質 ―日本軍の組織論的研究

失敗の本質  ―日本軍の組織論的研究

野中郁次郎 他 著

 

平時の際に安定的に機能してきたことがわざわいとなって、有事の際にまったく機能しなくなる…となると、まさしく今の政府とか東京電力みたいだけど、日本の伝統的組織は、どうも有事の際に失敗に陥りやすい。失敗の原因となる因子が、組織をつくりあげるときにプログラム的に組み込まれているとも言える。その顕著な例を太平洋戦争時の日本軍にみる。

その原因を一つにつきつめると、「目的の二重性」に陥りやすい、ということになる。ある戦略ないし事業の目標が2つ併存してしまう。この2つのどちらがメインでどちらがサブかという合意がなく、各自が各自で都合のいいようにいずれかの目的を主眼にしてしまう。本書によれば、ミッドウェー海戦も、レイテ海戦も、インパール進軍も、沖縄戦もこの罠にはまっている。

目的がダブルスタンダード、それは「原則論」と「現実論」だったり、各セクションそれぞれの「理想論」だったりするわけだけれど、なんでこういうことが起こってしまうのか。本書ではこの起因として、

1.固定化されたパラダイム(ものの見方)
2.論理性よりも情緒性が優先される人間関係重視型意志決定
3.官僚型の縦割り組織

を指摘している。1に関して言えば、陸軍では歩兵の白兵戦、海軍では主艦同士の大砲決戦こそが勝利の方程式、というのが完全に金科玉条になっていたわけだが、要するに過去の成功体験にあまりに引きずられ過ぎて、現実の対応ができなくなるということである。こういった、現実を見失った「原則論」が、戦術の選択肢の幅や、想定外のことが起こったときの臨機応変さを喪失させていく。こういう原則論は当然のことながら現場ではそのままでは通用しないことが多く、その微調整は現場の個人の才覚で成されていく。こと、戦時中にあっては「超人的」な精神と技量で、この矛盾を克服していくことになる。

しかしこうした個人の技量に依存したやり方は、方法論の他者との共有とか後任の育成とかが困難になり、組織全体としてはやはり変化スピードを遅くし、環境変化についていけなくなる遠因となっていく。しかもここに2や3が入ってくると、誤謬や錯誤を修正するプログラムが働かず、相互チェック機能も不全となり、むしろ1を強化、つまり過去の価値の強化のほうにベクトルがむいてしまうのである。

 

こういった日本の伝統的組織の悪弊は、“大企業病”とか“イノベーションのジレンマ”とか呼ばれて、21世紀の今となっては自明の理である。にもかかわらず、こういう組織は未だに多く、今回の有事でもやっぱり同じようなことになっている。いったいなぜだろうか。

 

ここで大胆な仮説を考えてみた。

どうも、日本の組織というか意思決定には「詰めない文化」というのがあるように思う。目的であれ主張であれ、解釈の誤解ないところまで思想を共有する「詰め」が甘く、どこかで「後は察してくれ」という期待がある。本書によれば、この相手への「察し」を期待し、結果、うまくいかなかった例がかなり多い。

コトバとして詰めず、あとは相互に「察す」ことで、意志共有と意思決定をはかっていくから、どうしても手前に都合のよい解釈と期待がそこに残る。これが、戦略目的の二重性を生む温床になっているように思う。

だが、なぜ「詰めないのか」というのをそれこそ極力まで詰めて考えると、これは「日本語」という言語体系と言語特色に原因があるのではないかとも思う。つまり、日本語というのは、外国語、なかんずく西洋言語に比べて、きわめて意味の冗長性と省略の文化がプログラムとしてこめられている言語であり、もともと「解釈のあそび幅」をほとんどなくすように意志共有していく記号体系としてむいていないのである。また、そういう言語を平時からあやつってきたわけだから、「察する」ことまで織り込みずみでコミュニケーションを相互にする。これの拡大したのがいわゆる「空気」というものになっていくのだと思うが、そういう言語だから、逆に「コトバだけで詰めていく」ことは日本語という機能にしても、あるいは日本語を解したコミュニケーションとしても、逆に不自然で不自由な空間がそこに出現することになってしまうのである。

ユニクロや楽天が社内公用語を英語にする試みをしている。これはもちろんグローバル市場への対応ということもあるわけだが、そうすることで、企業の意思決定や組織の運用そのものががらりと変わる可能性がある。解釈の多様性の入る余地がない、ガチガチに論理構造化された意思決定集団となる可能性があるのだ。

 

まるで日本語が悪いかのような書きかたをしてしまったが、「失敗の本質」という切り口から考えるとそういうことになる。

だが、もちろん逆も言える。本来、日本語というものは、「詰めなくても」相互の意思決定がそれなりになんとかなるという、逆に西洋言語からすると信じられない離れ業のような奇蹟の言語体系なのである。5・7・5の十七文字で宇宙を語れてしまう言語なのである。それが逆に「成功の本質」として起因する時と場合だって当然あったはずだ。ここの可能性をいつか本当に考えてみたい。

 

 

 

 

 

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