読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

緊急提言 パンデミック 寄稿とインタビュー

2020年10月10日 | 政治・公共
緊急提言 パンデミック 寄稿とインタビュー
 
ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
 
 
 日本独自版なのだそうだ。いくつかの雑誌への寄稿とNHKのインタビュー番組の書き起こしで構成されている。
 
 コロナ禍におけるハラリの発言や寄稿は、この半年のあいだ随所で見かけたように思う。目にした際につまみ食いしていただけなので、そんなに強い記憶に残ってはいない。あらためてこうやってまとめて読むと彼の主張はわりと一貫していて、そしてシンプルだ。
 
 ・門戸を閉ざすんでなく、今こそグローバルで協調体制を。
 ・人類はいずれコロナを制する。冷静に科学を信用せよ。問題は、その後の世界がこれまでとはだいぶ違っていることだ。
 ・こういう緊急事態に強引に導入されたシステムや政策は、コロナが落ち着いた後もそのまま残る。ここに警戒しなければならない。
 ・独裁者の登場に気を付けなければならない。民主主義としてのリーダーシップがとれるよう、市民ひとりひとりが賢くあるべき。
 ・一挙に監視国家に傾くおそれがある。行動だけでなく、皮膚の下(意識や感情)までも監視対象になる。
 
 まあ、こんなところか。
 
 ここにおさめられた寄稿やインタビューは、2020年の3月前後が中心、つまり各国でロックダウンや緊急事態宣言が出されたころである。あのころの危機感・狂騒感の記憶はやや薄れつつある。慣れた、といってもよいかもしれない。このブログでは、キューブラー・ロスの「死の受容」になぞらえたりしたが、それで言えば今現在は「受容」のステージにあるといってもよい。
 とはいえ、経済の大打撃は言うまでもない。倒産した企業は数多いし、大学は未だにリモートだ。海外との行き来は制限が続いたままである。そしてウィルス流行は今でも下火にならず、毎日感染者数が報告されている。
 日本だけではなくて、海外でも相変わらずだ。とくに欧州では本格的な第2波としてふたたびロックダウンや国境封鎖が議論されているところもある。
 かたや、台湾やニュージランドのようにかなりうまく制御した国もあるし、タイのように観光客受け入れに動き出した国もある。国によってけっこう温度差が出てきているわけだが、日本は諸外国の中でうまくいっているほうなのかいってないほうなのか、ちょっとわからない。一時期はロックダウンもしないのに死者も少なくて「ミラクル」と呼ばれていたが、最近はどうなんだろう。
 
 コロナそのものの制御よりも、むしろ注目したいのは「ウィズ・コロナ」「アフター・コロナ」と呼ばれる、ウィルスと共存するこの社会の在り方だろう。「ニュー・ノーマル」という言い方がされるように、コロナ前の生活価値観や商習慣が通用しなくなった。新時代である。
 
 ハラリが警告を発するのはここである。
 ハラリは、人類はコロナそのものはいずれ制することになるが、その後の社会については悲観的だ。施政者の暴走を予言するのである。とくに監視システムにおいてそれは顕著になるとする。
 監視社会の絶望を描いた古典的SF「一九八四年」はこれまで何度も話題に上がった。トランプ大統領が就任したときもAmazonで売り上げ一位になったとされる。西欧では必須の教養書とされている。ハラリはこの「一九八四年」よりも恐ろしい監視社会を予言している。 
 
 社会が大きな災禍に見舞われたとき、普段ならありえないような独裁的で偏執的な指導者が現れやすい、と指摘したのは「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」を著した加藤陽子である。その加藤陽子は、日本学術会議の新会員メンバーとしての任命を菅総理から断られるという前例の無い仕打ちを受けた。
 
 デジタル庁の創設も、省庁縦割りの一元化やハンコ文化の撤廃など聞えはよいが、要はマイナンバー制度の普及と定着を担っていると思うと、国民監視強化への一里塚であろう。今はなんのためにあるのかよくわからないマイナンバーカードも、ゆくゆくの構想としては自動車免許証も健康保険証も学生証も公共施設の利用証もすべて一元化するとされ、ひとりひとりの移動・収入支出・学歴・職歴・病歴・思想すべてを国が把握することは技術的には可能である。
 
 リモートでどのようにして効率的に仕事するかとか、大人数での飲み会はもうやめようやとか、そういう生活習慣の「ニューノーマル」の裏で、行政システムの「ニューノーマル」が着々と進んでいることはもう少し意識していてよいのではないか。携帯電話の値段を下げるという一見利用者にとって良さそうな話も、こと生活インフラに直結する話だと考えると、何かの企みがあるのではないか、などとも思う。

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コロナ後の世界

2020年07月25日 | 政治・公共

コロナ後の世界

ジャレド・ダイアモンド ポール・クルーグマン リンダ・グラットン他 編:大野和基
文春新書


 世界的にビッグネームな知識人によるインタビュー集だが、このやり方を最初に行ったのはたぶんこの本だったと思う。初めてこの手の本をみたときは、その企画力に驚嘆した(新書の価格で読めてしまうという敷居の低さもふくめて)。
 たぶん、新書業界でも相当なインパクトがあったのか、その後べつの出版社でもこの手のものが出るようになった。

 あらためて考えてみれば、彼らに頼んでいるのは執筆ではなくてインタビューだし、今はSkypeもZOOMもあるから、見た目の豪華さに比べると案外につくりやすいのかもしれない。とにかく各人のネームバリューがすごいから、書店でも映えるし、そこそこ売れるのだろう。ヒット曲を集めたコンピュレーションアルバムみたいなものだ。

 とはいえ、このタイミングで「コロナ後の世界」というテーマで、「危機と人類」のジャレド・ダイアモンドや、「ライフシフト」リンダ・グラットンや、「GAFA」のスコット・ギャロウェイや、「21世紀の啓蒙」のスティーブン・ビンカーなど、大型書店の人文コーナーで高く平積みされた本の著者を横断的に捕まえた力技に感服する。


 さて。彼らの多くに共通していた見解は以下である。

 ①コロナ禍になったからといって、もともと彼らが主張してきたことに変化はない
 ②民主主義は有効である
 ③トランプ大統領はアホである

 ①は、コロナになっても彼らが従来から唱えていた学説が崩れそうとかそういうことはなく、彼らが繰り返し主張してきたことはここでも健在ということだ。日本のリスクは少子高齢化と女性活躍の遅れであり、GAFAの富と力はますます集中し、AIは生活インフラの深部にまで入り込み、我々は常に学習していかないと100年の人生を歩めないということである。
 持説が変わらないというのは牽強付会ということもあるのかもしれないが、コロナによってむしろ加速されたとみるべきなのだろう。もともとコロナ前に起こっていた変化への胎動は、コロナ前においては抵抗勢力というか旧来からの慣性の力も働いて、新旧のしのぎあいみたいなところがあったのだが、コロナ禍によって古い慣習の限界が露わになり、新しい社会への動きが加速したということである。
 つまり、糖尿病がもともと本人の悪いところをさらに悪化させてしまうように、この社会の旧弊となっていたものがその脆弱性を白日のもとにさらしてしまったのがコロナ禍なのである。

 ②については、ちょっと意外な気がする。知識人の間では民主主義の限界みたいなことがここしばらく言われ続けていたからだ。もっとも民主主義に代わる新しい社会思想が出てくる見込みもすくない。民主主義というのはダロン・アセモグルの「自由の命運」の説を借りればどうしてなかなか狭く細い道で、ちょっと右へ転べば専制、左へ転べばアナーキズムというなかなか困難なバランスを要求する。
 しかし、今回のコロナを出したのがけっきょく中国だったということで、やっぱりああいう体制の国ではコロナというものを起こしてしまう公衆衛生環境を野放しにしてしまったり、隠ぺいしようとしてけっきょく災禍を拡大してしまうということだ。都市を完全に封鎖し、国民を監視してウィルスの封じ込めをはかることができたのは中央集権制ならではの力業だが、そもそもその原因をつくってしまうところに非・民主主義体制ならではのゆえんがあるとみるのである。

 とはいえ、西洋諸国の首脳陣の判断や国民の動きも模範的だったかというとそうではない。政治的無関心や認知バイアスで、必ずしも全体最適ではない判断や行動をしてしまう。そしてトランプ大統領こそはそういった誤謬の上に乗った大統領であった。
 というわけで③である。仮にも知識人たるもの、トランプみたいな野卑な野郎の政策を少しでも評価することなどできぬと言った自縄自縛なところもなきにしもあらずだが、トランプ大統領の個人的資質はともかく、根っこの問題は、そういう大統領が選ばれてしまうアメリカという国の人々と社会装置や社会制度だろう。しかし、止まらないGAFAのビジネスや、進化するAIによるマーケティングの社会、そしてフェイクニュースの横行は、おそらく今のアメリカの状況をさらに加速させるように思う。それは分断とポピュリズムのさらなる格差である。


 ところで、本書を読んで僕が思ったことは、ちょっと予定調和すぎるかなというところだ。本書に登場する知識人の多くは「コロナだからといって我々の説はなにも変わらんよ」という態度なわけだが、基本的にはこれまでの持説を繰り返しているわけで、ちょっと柔軟性を欠いたきらいがある。本書は彼らの著作のダイジェスト本としても機能するんじゃないかと思うほどだ。それに全体的に悲観主義だ。
 もしかするとこんな大家ではなく、もっと新進気鋭の若手中心で同じような企画をしてみればまたずいぶん違うものになるのではないか。それでこそ「コロナ後の世界」なのかもしれない。


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現代アメリカ政治とメディア

2019年11月09日 | 政治・公共

現代アメリカ政治とメディア

前島和弘・山脇岳志・津山恵子
東洋経済新報社

 「フェイクニュース」や「ポスト真実」というものに興味を持ったのはもともと「140字の戦争」という本を読んだからなのだが、そうなってくるといよいよ来年に米大統領選をひかえるトランプ大統領に関心がいく。そもそもトランプ大統領を輩出してしまったアメリカの事情というのもまた気になるところだ。アメリカが抱える矛盾やうっ憤&メディアやデジタルテクノロジー技術の向上&トランプの個人的資質といったものが複合的に掛け算されて現在の状況に至ったと言える。ということは来年の大統領選はますます拍車がかかりそうだ。前回の大統領選ではロシアの介入疑惑がささやかれているが、今度は習近平国家主席率いる中国もなにかしら工作してくるんじゃないかという気もする。テクノロジーの進展はさらに突き進んでいる。

 トランプ支持者が主張する「公正中立を掲げる報道メディアそのものが中道というよりはリベラル寄り」という指摘は確かにその通りかもしれない。本書の指摘ではニューヨークタイムズもBBCもハフィントンポストもワシントンポストもMSNBCもCNNも「左側」なのである。「右側」なのはFOXだけである。「中道」というのは大衆のイデオロギー気分の平均値のことを指すのか、超絶的に絶対的基準として存在するものなのかも議論だろう。後者だとすれば、じゃあだれがその基準を判断するのかという問題になる。

 我々はどうやって世の中の「真実」を知りえるかといえば、それはメディアを通じて(SNSもメディアである)ということになるが、メディア自体が中道の座標点に存在しえない以上、「真実」は常に相対的なものにならざるを得ない。本書によればかつてのアメリカには報道メディアに対して中道として自制するための法規制があったのだが(一方の陣営へのメディア露出があれば反対陣営の露出時間も同じだけ確保しなければならないなど)、時代が進むにつれてどんどん緩和されていく方向にある。この規制緩和が資本主義や利益至上主義を呼び込む。より人々の関心を感情レベルで誘い込み、囲い込むメディアになっていく。そして人々の間で「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」によってその人なりの「真実」が定着していく。

 アメリカでは政治家の発言が嘘か本当かをチェックするNPOがあるそうだ。その結果が本書にも紹介されている。嘘にもいろいろなレベルがあって「誇張」とか「あえて歪曲した解釈」とか「真っ赤なウソ」とかあるのだが、トランプの「嘘」の量はやはり他の政治家を抜きん出でているらしい。
 ただし、このデータからは他の政治家ーーオバマにもヒラリーにも多かれ少なかれ「嘘」の発言があったことを示している。道義的にはこういうのは昔から「五十歩百歩」という言い方がある。
 つまり、政治家の発言は「嘘」があるのだ。そんなことは百も承知であろう。我が日本の政治家の発言だって「嘘」ばかりだ。

 もちろんこういった問題は、良識ある人々は百も承知で、だからこそ事実チェックのNPOやAI技術開発に取り組まれたり、真のジャーナリズムを目指した組織がつくられたりする。
 ただし、それさえも「真実」かどうかはわからない。個別の小さな「嘘」は見抜けるかもしれないが、こういった事実チェックの動機そのものが、右なら左から、左なら右からのけん制行為であることがほとんどである(そのことは本書でも指摘されている)。右も左も関係ない。とにかく事実だけを明らかにするのだ、というのは本当に可能なのだろうか。また、それを実現できたとして、そこにあらわれる世の中とはどんな世の中なのだろうか。これはもはや思考実験の域である。

 

 こういった観点とは別に、あらためて考えてみると、人間というのは「嘘」をつく動物である。最初の人類であるアダムもイブも、その長男であるカインも嘘をついたではないか。
 これは心の底の底のほうでは「真実なんてどうでもいい」という人間の生来的な心理なのではないかと思う。大事なのは真実ではなく、真実はこれということにしておこうやというみんなの「握り」である。社会はそれでできている。サピエンス全史ではこれを「虚構」とか「物語」と表わしている。

 したがって、かつての時代も「フェイクニュース」や「ポスト真実」はあったのだと思う。程度の差はあっても「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」という現象は起こっていた。いわばこれは人間の本性であり、人間社会の必然ともいえるのである。たとえば本書は東洋経済からの出版だが執筆陣は朝日新聞関係者が多い。つまり、本書さえも、朝日新聞社そして新聞というメディアのバイアスが蓋然性として存在することになる。完全に無色透明な中立という「真実」は存在しえないという哲学的な問題もまた明らかである。良識派の本音は、たんに肥大化してきた今日の状況をせめてもう少し前の穏当な頃に戻したい、というところだろう。
 するとそれは「事実チェック」を徹底すればいいという問題ではないのだと思う。あえてヒントになりそうなのはスマートニュースがやろうとしているような、イデオロギーの強制的な交流(混戦)かもしれない。しかしこれとて対処療法という気もする。あとは右左を飲み込む「大イデオロギー」(むかしは「大きな物語」と言っていた。けっきょくこれだってフェイクニュースなのである)」の出現かもしれない。

 

 そもそも、真実を追求する態度、すなわち科学的態度は、安直に逃げる人間の反省から始まっているとも言える。「真実なんてどうでもいい」というイージーモードからあえて自らを律し、真実を追求しなければならないのだといばらの道を選ぶことが近代的人間の態度となった。科学的態度を突き進むこそが真に平和で幸福な人間社会を招来すると信じて疑わなかった。

 しかし、科学的態度による真実の追及こそが理想的な社会に至らしめるのだという進歩史観そのものがもはや色あせつつある。ここにきてトランプのような大統領が出現するアメリカを進歩史上の「退化」とみなすこともできるが、アメリカに限った話ではない。あれだけ経済が発展しながらもいっこうに民主化する気配をみせない中国、破壊と殺戮の歴史の果てに平和的団結を見せたEUからのイギリスの離脱、世俗化から離れていくトルコ、一党独裁化して不都合なものにはどんどん蓋をされていく日本などみていると、進歩史なんてものがそもそもなかったんだと言いたくなる。「真実なんてどうでもいい」人間の本性はむしろ顕わになってきている。これまで「真理の追及」によって抑制された分、暴発してきたように思う。

 僕個人の考えとしては「フェイクニュース」も「ポスト真実」も、むろん大歓迎などではなく多いに問題ありと思っているが、世の常・歴史の必然として必要悪的に存在してきたとも思っている。嘘をただすだけではなく、嘘は嘘としてこういった情報時代におけるサバイバルの仕方は何かというのを考えるのがいよいよ大事であろう。


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楽しい縮小社会 「小さな日本」でいいじゃないか

2017年11月24日 | 政治・公共

楽しい縮小社会 「小さな日本」でいいじゃないか

著:森まゆみ 松久寛
筑摩書房


 さいきん、読書がおっくうで間があいた。たまにこういうことがある。こういうときに無理に読んでも、一冊読むのにひどく時間がかかったり、文字を目で追うだけで頭に入らなかったりするので、しばし本から離れていた。

 で、たまたま本屋で手にしたのがこれ。
 以前も書いたが、森まゆみは僕にとって一種の清涼剤である。口うるさそうなオバサンだが、日々追い立てられている生活をはたと見つめなおす視点があり、オレはなんでこんなに毎日あせってたんだっけ、と立ち止まらせてくれる。


 
 日本の人口問題は、少子高齢化社会というところに尽きる。
 少子高齢化というのは、非生産世代の数に対して生産世代が減ることを意味する。それも「少子化」だから将来になるほどその傾向は激しくなる。将来、生産世代になる子供たちの数が減っているからだ。
 このことは決して日本だけの現象ではなく、多かれ少なかれ先進国の宿命となっていて、だから欧州とかは労働力を移民で賄おうとしているが、周知のとおりそれはそれでいろいろと問題がある。

 ただし、日本の場合は、この少子高齢化のスピードが先進諸国の中でもっとも速い。先進諸国はどこも少子高齢化の道を進んでいるが、日本はトップランナーよろしく超・少子高齢化ゾーンに突入しているのである。

 さらに日本という国の足元を心もとなくしているのが、食糧自給率とエネルギー自給率だ。
 日本の食料自給率は約40%。欧米諸国は100%以上をキープしているのに、日本は半分にも満たない。実は、北朝鮮なみだという試算もあるらしい。
 エネルギー自給率はもっとひどくて、原発が動いていたときでも30%、原発が動いていない今は一桁台といわれている。
 燃料も食料もすべて外国に依存しているのにこれだけ平和で健康な国でいられたのは、GDPが成長して稼げていたからだ。自動車や電化製品を輸出し、外貨を獲得した。経済成長を担保に国債を発行し、その前借金で経済をまわした。

 しかし、これからはその稼ぎ手である生産世代が縮小する。すでに日本は輸入超過国で、貿易大国を名乗っていたのは過去の話である。

 また、燃料や食料の供給元だった途上国も、経済成長が進んでまずは自分の国のものから、ということになる。気象異常も進んできて、かつてほど小麦が安定的に供給できなくなった。

 言い方をかえると、日本という国は、兵糧攻めにあうとあっという間にゲームオーバーになる局面にきている。


 というわけで、いかに上手に風呂敷をたたんでいくか、というのがいまの日本の課題なのである。

 だけど、日本政府はあまりこのことを大っぴらに認めていない。いやおそらくとっくに真実は気づいているのだろうし、霞が関の官僚は死に物狂いで計算して対処策を練ってはいるのだろうが、本書で松久先生が何度も指摘しているように「縮小論」はウケが悪い。ポピュラリズムと相性が悪い、と言ってもよいかもしれない。


 「量」より「質」だよ、とはよくいわれるのだけれど、どうしても我々の生活は数字で判断される。おバカ番組でも視聴率がよければよしとされるし、玄人筋にはうけても視聴率のとれない番組は淘汰される。受験生は偏差値で大学を選ぶし、婚活では相手の年収が重要である。食べログの星の数でレストランを選び、SNSはいいねの数がステータスである。数字で全ては判断できないが、数字で判断しておけばそう大きく外すような判断はしないだろう、少なくとも数字で判断できないものを意思決定することのむつかしさ、あやうさ、間違いやすさに比べればまだマシだろう、ということで、どうしても我々は「量」で計れるものに頼ってしまう。

 だからどうしたって経済成長が指標になってしまう。経済成長よりも幸福度のほうが大事だとはよく指摘されるが、幸福度を量で把握するのはかなり難しい。「いくら稼げばよい」という経済成長に比べて、幸福度は人によって違うし、その処方の仕方も人と時と場合によってさまざまだ。

 ただ、経済成長にかわる何かを「定量化」しなければならないとは思う。経済成長を物差しにするとどうしても「縮小論」になるからだ。「幸福度」をどうやって万人に納得できる形で定量化するか。どうすりゃいいんだろうね。


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ポスト西洋社会はどこに向かうのか 「多様な近代」への大転換

2016年08月18日 | 政治・公共

ポスト西洋社会はどこに向かうのか 「多様な近代」への大転換

著:チャールズ・カプチャン 訳:小松志朗
勁草書房



 グローバル・スタンダードと呼ばれたものは、実は西洋キリスト教文化圏のローカル価値観に過ぎない、ということを中世西洋史からもういちど振り返ってみて暴いた本。なかなか勉強になる。

 

 グローバル・スタンダードというのは、本書によれば①自由民主主義②資本主義③世俗ナショナリズムということらしい。

 この3つは分かちがたいと思われたのだが、中国の台頭により、そうでもないということが明らかになってきた。つまり中国は一党独裁主義なのだが、いまやまごうことなき資本主義である。ロシアも強権的な政治体制ではあるが資本主義をとりいれている。中近東の国々は政治と宗教が分かち難く結びついているのは周知のとおりだ。

 もともと、近代西洋史の経験でいえば、中間層の台頭が既存の支配的な国家体制を揺るがすとされた。中国も、このまま一人当たりGRPが上昇していけば、いかなるプロセスになるかはさておき民主主義に移行すると言われた。「シフト」でもそう論じている。

 

 ところが、現在の非西洋の成長の様子を観察すると、中間層の台頭が必ずしも革新になるとは限らず、むしろ体制側に取り入れられたり、宗教的に保守的になったりするらしい。

 前者は中国のやロシアがそうであり、後者はトルコがそれにあたる。

 つまり、西洋史が経験したこと、すなわちヨーロッパ史における宗教革命からウェストファリア条約によって形成された社会構造フレームは、グローバルスタンダードでもなんでもなく、単なるその場の条件がたまたま導き出した一解答でしかなかったのである。

 そして周知のように、「グローバル・スタンダード」は制度疲労を起こしつつあり、EUは分裂しかかっているし、アメリカ合衆国は、モンロー主義に戻ろうとするトランプ候補はもちろん、ヒラリー・クリントン候補も、TPPの見直しを言い出すようになった

 ひるがえって我が日本も、憲法改正に踏み出そうとしている。もちろん憲法9条が焦点である。改正賛成派の人もけっこういるとのことだが、この背景にアメリカが西太平洋から手を引こうとしているのだということまで気づいている人はどこまでいるのだろうか。アメリカは日本に、もうこれ以上自分たちをアテにしてくれるなと言っているのである。君たちだけで中国と対峙しなさいと言っているのである。

 

 本書は、これからの国際社会はひとつのスタンダードは存在しない、多様な価値観社会が並行する時代になると予言する。

 そんな中、アジアの中で「西洋型グローバルスタンダード」であった日本はどうなるであろうか。

 既に自由民主党以外に国家を運営する政党が存在しず、経団連など経済界とも密接な日本は、「日本型一党独裁体制」というポスト西洋社会にいつの間にか繰り出していると言えなくもないのだ。


 


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明仁天皇と平和主義

2016年07月30日 | 政治・公共

明仁天皇と平和主義

斉藤利彦

朝日新聞社

 

 生前退位が報じられてクローズアップされた明仁天皇であるが、実は昭仁天皇という人が、どのような人なのか、そもそも現代日本における天皇とは何なのかを、本気で考えたことはなかった。

 そこで本書を読んでみたのだが、思わず涙が浮かんでくる内容だった。著者の書きぶりはやや主情が勝りすぎた部分がなきにしもあらずだが、とはいえ、様々な文献や明仁天皇の発言録にあたっての考察の体をとったものであり、迫真に迫ってくる。

 

 「天皇は日本の象徴である」というのは、日本人にはよく知られた定義である。しかし、「日本の象徴」とは何か、というのは実は難しい問題である。

 たとえば富士山は日本の象徴という言い方をする。桜は日本の象徴という言い方もあるだろう。しかし、天皇と富士山と桜が同列というのも考えにくい。

 

 本書は、明仁天皇が「象徴天皇とは何か」をつねに自ら問い続け、責任をもって実践してきた「人」として論述している。

 「人」としての天皇の対義には、「制度」としての天皇がある。

 「制度」としての天皇がいかにがんじがらめであるかは皇室典範を始めとしてよく知られたところであり、その公務の在り方は雅子さまの体調ひとつ見ても十分に察せられるものであるが、昭仁天皇は「制度」としての天皇あるいは皇室というものを十二分に自覚し、全うしながら、しかし「象徴天皇」としての試行錯誤というか不断の決意で日々に挑んでいる。それは明仁天皇がインタビューで答えた「立場上、ある意味ではロボットになることも必要だが、それだけであってはいけない。その調和が難しい」と述べたことにも現れている。

 その「調和」こそが、「象徴天皇」とはなにか、という明仁天皇の内省と実践によって追い求めていることだ。

 

 明仁天皇が「象徴天皇」として挑んでいることは「国民への共感と共苦」というものであった。「国民の現実の苦楽に常に関心を寄せ、共感と共苦を求める」というものであった。

 そして、そのために国民の苦楽のあるところは進んでその中に入っていて、一生懸命にその渦中にある国民の心情に寄り添い、そして平和への希求を願う。

 この「平和」とは単に「戦争のない状態」だけではない。本書の記述を借りれば、国民の命の尊敬、人権と民主主義の尊重、自然と環境の保全、国際親善、そして甚大な自然災害の下でも人々がともに支え合い、復興の課題を見出していこうとする状態を含んだものである。

 本書では、その実例として、東日本大震災後における明仁天皇と美智子皇后の行動を追っている。

 

 明仁天皇と美智子皇后のそのありようは、まさに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にうたわれる人そのものである。

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ

 

 明仁天皇とはまさにサウイフモノなのであった。

 それはまさしく「国民への共感と共苦」への積極的関わりそのものであり、それが「日本の象徴」というものなのだった。そういった明仁天皇の「人格その識見」に寄せる民心の支持こそが、日本国民の総意として天皇制を支えるという、日本国憲法第一条につながっていくのである。

 

 実は、初めから「象徴としての天皇」としてその座についた天皇は、明仁天皇が最初である。昭和天皇は天皇在位中にその立場の在り方が「主権」から「象徴」に変わったのである。

 つまり、明仁天皇は皇太子時代から「象徴天皇」としての前提と覚悟で過ごし、1989年に「日本国民の総意に基づく日本の象徴としての天皇」に即位した。純粋な象徴天皇としては、明仁天皇が日本史上最初とも言え、初代「象徴天皇」としての責務を追い求めたのであった。

 これはもしかして、究極のリーダーシップの姿ではないかと思う。リーダーは「象徴」でなければならない。こんなに厳格で悲壮でしかし誇り高きリーダーの在り方があるだろうか。

 


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シフト

2016年01月05日 | 政治・公共
シフト

著:マシュー・バロウズ 訳:藤原朝子
ダイヤモンド社



 未来予測本のひとつ。帯のコピーは「2035年、米国最高情報機関が予測する驚愕の未来」。著者はNIC(国家情報会議)にいた人。

 いろいろ示唆に富んではいるが、なかなか日本人に気付きにくいのが中東と中国であろう。前者はどうしても我々の日常と疎遠のところであり、剣呑なところであることだけがイメージとして伝わってはきているものの、その実何がどうなってあのような危険なことになっているのかは我々はなかなか頭に入ってこない。僕としても教科書的な近代史をふりかえってはみても、変数が多くてちっともわからない。民族と宗教と軍事技術と資源をカードにしての貸し借り、敵の敵は味方、敵の味方は敵なんてのが複雑に絡み合っていて、そう簡単にはひもとけない。しかし本書を読んでいると、イランとサウジアラビアの潜在的敵対関係に触れていて、そうなんだイランとサウジアラビアは敵対しているのか、なんて改めて確認していたら、まさに新年早々イランとサウジが国交断交に至るってしまった。バロウズすげえ。
 イスラエルとサウジアラビアという親アメリカと、イランとパレスチナという反アメリカがあそこにはあるけれど、アメリカがシェールガス革命でエネルギー自給率を高め、中東依存度を減らすとこのへんのパワーバランスがかわるわけだけど、アメリカに去ってほしくない中東の国もあるわけだ。

 中国のほうはもっと気づきにくい。日本人のメンタリティとして気づきたくないバイアスが働いているようにも思えるが、事態はもうすでに進行していて、端的にいうと、未来のグローバルは中国のご機嫌にかかっているということ。
 これまでの経済史観に照らし合わせれば、あと5年もすれば中国では民主化革命が起こるとのことである。それが成功するか失敗するかはわからない。民主化革命に成功しようと失敗しようと、あるいは何事もおきずに中国共産党がさらにパワーアップしようと、いずれにしても日本を含むアジア周辺諸国、そしてグローバル全体にわたっての影響力は良いことも悪いことも含めて相当に大きいことは間違いない。

 問題なのは、それが今までのわれわれの価値観や規範の想像を超えたカタチをしていることである。

 たとえばGDP。われわれ日本人はいくら中国のGDPが日本を抜いて世界2位になろうとも、一人当たりGDPは全然ダメじゃん、とか思って優越感を保つ。だがこれの本質は、そもそもこのGDPという経済指標が従来のような意味を持たなくなってきているということだ。確かに、GDPというのは「国民一人あたりGDP」×「全国民数」ということになるのだけれど、かつての経済史観だと、国民ひとりひとりの生産力の増強がひいては国力の物差しすなわちGDPとしてみることができた。ひとつの国が抱える人口規模というのがある種の想定内にあったということである。しかし、21世紀以降、かつてない人口爆発の国が次々現われると、一人ひとりがほんのちょっとした生産性向上でも、国のGDPは跳ね上がることになる。だからアメリカと中国のGDPがほぼ同じになったとしても、その内訳がまったく異なる。中国だけではなくて今後はインドや中南米やアフリカ諸国にこういうGDP強大国が現われる。つまり、ひとりひとりの生産力はたいしたことがなくても、桁外れの人口がゆえにGDPが大きい国という、経済史上現われたことのない国が今後続々と出現する。で、そういう国はいったいグローバルにどのような影響を与えるのか。経済や環境や外交にどういう力学を働かせるのかは、実は誰も経験がないのである。

 もうひとつ重要なことは、これらの国のほとんどが非西欧文化圏であるということだ。
 このことは日本にとっては実にやっかいで、というのは日本という国はアジアではあるけれど、基本的には西欧文化圏に属している。もちろん日本は日本独自の規範や文化や常識知があるわけだけれど(そしてもっとも英語が通用しない国でもあるのだけれど)、大きなグループで考えれば西欧文化圏である。法律の考え方、行政の進め方、道徳の持ち方、国家間での秩序の約束事は、キリスト教を中心とした西欧文化の範疇にある(つまり明治時代以降、国際法とか国際化というのは西欧化のことだったのだな)。
 しかし、中国はじめ、これから台頭してくる新興国のほとんどは非西欧の国である。法律の考え方、行政の進め方、道徳の持ち方、国家間での秩序の約束事が、非西欧的ということである。尖閣諸島や南沙諸島をめぐる中国の動きは、西欧の目から見れば非常識極まりないが、アジアの目から見れば、あれはあれでひとつのやり方であったりする。我々はイスラム諸国の商慣習やあるいは法律のありようがまるで理解できないが、彼らにとってはあれがスタンダードである。

 本書の指摘にもある通り、生物分子学や遺伝子技術や量子物理学といったテクノロジーをどう有用に使い、悪用を防ぐかというのも、この規範の問題に関係してくる。われわれ日本人は、何にどう使うのが人類史の上で良いことであり、何に使うのはやりすぎだ、あるいは良くないことだというのはぼんやりとは線引きできるだろう。そしてそれは西欧諸国の線引きとそれほど大差はないと考えるだろう。たとえば子どもを産むときは、優秀な遺伝子を持つものだけ選別して受精させる、なんてのは倫理上よろしくないと思うだろう。だがこれらはすべて「西欧の規範」にのっとったものである。しかし、非西欧のある国が、国民すべてを優秀にしたいと考え、選別受精に乗り出すかもしれない(実際のところ「一人っ子政策」というのは現代人類史においてかなりいびつとしか言いようのない政策である)。環境問題も教育問題も、われわれ日本人が認識しているのは「西欧の規範」である。(もちろん例外はいくらでもある。「死刑制度」は日本人的感覚ではあってしかるべしと思う人が大半であるが、西欧ではそうではない)。

 非西欧の規範を持つ国が中国を筆頭にいま世界を覆いつつある。インド、コロンビア、インドネシア、メキシコ、トルコ、ブラジル、南ア、ナイジェリア、さらにイランやエジプトが台頭してくる。そのときの「国際秩序」はまったく「西欧秩序」ではないのである。

 これは日本にとってそうとう未知の恐怖だ。日本は数少ない「アジアなのに西欧文化の国」なのである(あとは韓国・フィリピン・シンガポールくらいか)。だから、日本はアメリカが離れていくのをもっとも恐れている(ヨーロッパもアメリカが離れていくのを恐れている)。非西欧の台頭に太刀打ちできるのはアメリカくらいだろうと「西欧諸国」はみんな考える。しかし、アメリカがエネルギー自給を達成し、エネルギー純輸出国に転じれば、もう「世界の警察」なんてやる必要もないだろう。冷戦はとっくに終わっているし、最近の「ポスト国家的」な勢力は、どうにもアメリカも手を焼いていてめんどくさいし国内からの支持も得られにくくなっている。実際のところ、アメリカという国は歴史を振り返れば孤立主義をとりたがる遺伝子を持っている。歴代の日本の首相は実はみんなアメリカが離れていくのを恐れてきたんじゃないかと思う。
 日本と韓国の、強行とも思える慰安婦問題決着(手打ち?)も、今年は大統領選のあるアメリカからなんらかの牽制があったんかもしれんなあ。


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ノーベル平和賞で世の中がわかる

2012年12月07日 | 政治・公共

 

ノーベル平和賞で世の中がわかる
 
池上彰
 
 ノーベル平和賞は、文学賞とともに、一連のノーベル賞の中では異色である。平和賞だけがスウェーデンの王立アカデミーではなく、ノルウェーから授与されるところも特色があるが、これまでの受賞者をみると、他のノーベル賞と違って、実績がはっきりしないものも多い。オバマ大統領の受賞なんかはもろにそれであった。
 
 そのあたりを、一人ひとりの受賞者を紹介することで、ノーベル平和賞というのがどういう性質の類のものかを浮かび上がらしたのが本書、著者はご存じ池上彰。
 
 
 他のノーベル賞と同じように、誰がみても文句がない実績を持つ者に対して授与する場合もあるが、それ以上にノーベル平和賞がねらっているのは、世界に対し、ここにこういうイシューがあるというアドバルーン効果、あるいは、いまみんなでこれを考えなければならないのだというアジェンダ設定を果たそうとしているのだなというのがわかる。
 だから「表彰」というよりは、そのイシューに対しノーベル財団が「みんなも注目せよ!」と旗を掲げているのに近いわけである。
 
 たしかに2010年の劉暁波の受賞は、中国の人権侵害というイシューを世界的に知らしめるアドバルーン効果を示したし、2007年のアル・ゴアとIPCCの受賞も、「地球温暖化」というアジェンダを国際上にゆるぎない形で据えることができた。
 イスラエルとパレスチナ、イスラム国での宗教理由による人権抑圧、以前であれば南アフリカの人種差別問題、北アイルランド問題などが、たとえ解決の半ば途中であっても、改善努力にかかわった人が平和賞として授与されるのは、世界の目をそこに意識させ、逆に当事者や当事国に、世間から注目されていることを意識させ、下手なことはさせない、という抑止力みたいなことを働かせようとしているからである。 
 東ティモールやポーランドみたいに実際にそれがうまくいった例もある。
 
 
 しかし、そうなってくると、ノーベル平和賞を決める委員「ノルウェー・ノーベル委員会」が国際情勢の平和を考える際に何をアジェンダとして持ってくるのか、というのが問題になる。他のノーベル賞と違って、客観的な根拠を持ちにくく、こと国際政治とか国際平和というものは様々な利害関係の上になりたつから、場合によっては一方への肩入れを過剰にもってしまう側面もある。実際に、冷戦時代には共産圏よりは西側諸国のあり方をもって平和と成す見立てが強かったようだし、ゴルバチョフの受賞なんかはもろに「脱社会主義エライ!」というメッセージである。
 
 近年では、アフリカ、女性、核廃絶、貧困層や少数民族の自立といったあたりがキーワードで、わりと万人が納得しやすそうなテーマだが、一方でイスラム国のあり方に平和的見地からモノ申すという態度もあり、やはり当事国からみれば一方的という誹りはあるのだろう。
 逆に言えば、批判覚悟で強気でアジェンダを設定することこそがノーベル平和賞に課せられた意義と期待ともいえる。ノルウェー・ノーベル委員会はオピニオンであり、試されるのは期待を背負った受賞者と、そのアジェンダを知った世界ないし我々である。
 
 2012年はEUが受賞。頼むから破たんだけはしてくれるなよ、とプレッシャーを与えているようにも思える。
 

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民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか

2009年10月06日 | 政治・公共
 民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか? 神保哲生

 少しく旧聞になったきらいもあるが、先の選挙や、その前の小泉郵政選挙なんかを観ていると、小選挙区制というのは暴発するおもちゃみたいなものだな、と思う。カタルシス抜群だが、その結果がどれだけ国民に利の形で帰ってくるのは、正直いってまだわからないのだ(少なくとも小泉郵政選挙の結果が国民にとって「利」だったのかどうかは、まだまだ評価が定まらないところだろう)
 というのは、小選挙区制における得票率と議席数の関係を、あまり多くの人がまだいまいちピンときていないのではないか。僕自身もすんなりと咀嚼できていない。そこの調整をするのが比例区制だが、自民党大物の復活当選が目立ち、この比例区制は国民感情的に評判が悪い。しかも民主党はこの比例区による議席数を減らす公約を出している。
 まあ、日本も小選挙区制の「毒食らわば皿まで」的な威力の経験を積んで、成熟していくのかもしれない。


 ともあれ政権交代である。官僚に緊張感が走るだけでもその効はあるに違いない。
 問題はその民主党が何をするのか、だ。なにしろ顔ぶれの多くが元自民党でもあるし、自民党の劣化コピーでは、なんて陰口もたまに聞かれる。

 ただ実際において、民主党に期待している人もそうでない人も、実際に民主党が政策として何をやろうとしている連中なのか、というのをはっきりと見えている人はそういないのではないか(民主党本人も実はわかってないんじゃないか、という説もあるが)。
 かくいう私もそうで、高速道路の無料化とか、子供手当てとか、農家の個別保障とか、歳入庁の設置とか、国家戦略局とか、無駄使い撲滅とかもろもろメニューは見えても、総体として、日本をどういう国にしたいのか、はいまいち見切れていない。脱官僚・政治主導といいつつ、断言してしまうが、多くの人間は官僚と政治の違いがいまいちわからないと思う。

 が、8月30日の投票前日。池袋駅前での鳩山代表の演説の中継で、支持者が感極まった声で「がんばってください」「日本を変えてください」と握手を求めるのに対し、逐一「一緒にやろうな」「一緒に変えような」と答えていたのに妙に印象を覚えた。

 で、本書を読んだわけである。ちなみにこの本の優れたところは、最初に概要・総論を大きく扱い、その個別具体内容として、99の施策を並べていることで、この最初の総論が非常にうまくまとまっており、結果的にその後の具体策も非常に腑に落ちやすく構成されている。だから読みやすい。

 この鳩山代表の「一緒にやろう」は実は単なるその場限りの言葉ではなく、民主党は、本当に「一緒にやらなければならない」国をつくろうとしている。つまり、義務と権利を背負う。逆に言えば、自民党は、政治を「お任せ」する、あるいは「お任せ」できる政党だった。任せることができたから、自分たちは何もしなくてもよかった。何もしなくてよかった代わりに、何か悪巧みをされてもわからなかった。
 民主党は、国民が政治に参加しなければならない。税金も社会保険もきちんとおさめなければならない。要求し、主張しなければならない。裁判員も務めなければならないし、地方の自治、地方税の使い方も学校の運営も参画を要求される。今まで自民党という政治家(と官僚)に任せていたことを、民主党が変わりにやってくれるわけではない。むしろ、民主党は市民が参加するそういう機会をつくる、ということだ。本書の指摘するとおり、民主党の「お手並み拝見」なんて言っていては、そもそもダメということである。「参加の機会が与えられる代わりに、参加をしない人の利益を代弁してくれる人がいなくなってしまう」、つまり怠惰な人には向かない国づくりを目指している。この理屈でいえば、国民の裁判員参加制度も、成人年齢を18才に下げることも、民主党的にはアリになる。じゃんじゃん司法や行政や立法に参加せよ、ということだ。

 そして、国民の政治参加の実効性を高めるため、国民への監視能力はむしろ自民党時代のそれより高まり、違反に対する懲罰はむしろ厳しくなる。政治がクリーンになるために、国民もクリーンになるというわけで、乱暴にいうとシンガポールみたいな国である。あるいは「寛政の改革」での松平定信みたいなものかもしれない。その対比はもちろん田沼意次である。新自由主義とは要するに田沼時代のことで、彼はかつては悪人の代名詞だったが、その経済観から、最近は再評価のむきが大きい。その反対に、「改革」とまで称された松平定信政治は、いわゆる緊縮財政のそれで、経済史学的には失敗の典型のようにも言われている。

 果たして「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」となるか。それとも、本当に住みよい日々になるのかどうか。
 ただ、少なくと、亀井静香の「徳政令」は、いったいなんだありゃと思ったものだが。

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裁判員制度の正体

2007年12月27日 | 政治・公共
裁判員制度の正体----西野 喜一----新書

なんだか厄介な法律である。結局、審議された背景も導入された理由もいまいちよくわからない。
裁判員制度の導入が最終的に決定したのは2004年5月。なぜ国民の大きな関心も反対運動もないまま可決されてしまったのか。メディアは何をやっていたのか?
調べてみると、この時期は国会議員の年金未納が続々発覚(管直人とか福田康夫とか)し、そして例のイラク人質事件(「自己責任」が吹き荒れたやつ)があった。そっちに国民やメディアの目が行っている間に粛々と可決させられてしまったようだ。
どうもうまく政府にしてやられた気がする。

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