人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神.自由.悪

2017-12-17 18:06:17 | 
"相次ぐ猟奇殺人、テロ...一向に収まる気配の無い各地の戦火...連日のように報道される社会的不正の露見...一体神は存在しているのなら、何故この世に悪は放任され続けるのか? "

というようなことは、神の存在について考えた事のある人なら、誰でも一度は感じたことがあることでしょう。
それについて様々な観方、感じ方があると思いますが、私は"世界がこのようになっているのは、神は我々を野放しにされているから...つまり我々には自由意志というものが、本源的に与えられているためである"と思っています。
又"善悪というのは、本来無いもので我々の観念の中にしか存在しない"という観方もあるでしょうが、善悪の問題は、これまであまりにも法や倫理、掟といったもので規定され過ぎており、あまりにその具体的な意味が蔑ろにされ続けていたように感じずにおれません。
上からの、傍観的な目線でなく、例えば自分自身に凶事が降りかかった時、どうしてネガティブな感情に苛まれるのか...世の人から悪とみなされることをやり過ぎた結果、著しく身も心も衰弱するに至った...というような事象から見直さなければならないと思います。
つまり、悪というものは、"そうしてはいけないもの"、"許されないもの"という以前に自他ともに何らかの不都合をもたらすものであるはずなのです。
この事が自覚されなければ、ただ学校で、教会、家庭、社会などで"そう言われているから"という理由だけで"決められたコト"を守るだけの、事なかれ主義の主体性を欠いた人間ばかり増やし続けることになるのではないでしょうか? 
これはそれを施行する方も、される方も双方の問題だと思います。
それでも我々はその事を分かっている者も、分からない者も、法の目を誤魔化す者も、あからさまの傍若無人の者も悪いコトをヤル人はヤってしまうことでしょう。それが唯一自由意志を与えられた動物のサガというものでしょう。
悪というものは、このように自由意志の落とし子と言えるでしょう。
自由が無ければ悪も無いのです。
逆に"イイコトをしなさいi"と"決められた善"に自由などありません。

何度か触れているように、神的なハタラキに捉えられる、ということは全くそれまで経験したことの無いような自由に預かることなのです。
それまで自由だと思っていたものは、正しく思われた自由だということが分かります。
思われた自由が雷の如き光により、こちらの全存在を射ぬかれることで奪われてしまうということは何とも逆説的ですが、思いが無化されることで本源的自由が開かれるのです。
それは、どこまでも自由であることが実感されるもので、こちらの自由意志が断ちきられて神に服従させられる、ということではありません。
これは、近頃の自由意志が有るとか無いとかの論議を超えたもので、そこには"超"絶対自由意志とでもいうべきものしか無いようなことですi
そこで、人間は本来自由であることが示されるのですが、それは神からも自由である、ということでもあるでしょう。
如何なるものと言えど、隷属関係からは自由というものは無いからです。
そこに悪というものの発生があります。悪とは本来のあるべき様態からの逸脱なのです。
しかし...神から切り離される時、我々は致命的な不都合に見舞われるという、これ又逆説的ですが不自由を強いられるに至ります。
端的に言えば、生の道が絶たれてしまうということです。神的なハタラキとは命そのもののことでもあるから ...
悪はおそらく他からの断罪、裁きということからは克服されることは無いでしょう。
強制による法でなく、命に根差した法に照らされ、自らその命に外れた自滅の道が示されない限り...
我々の思いを超えた形なき命の顕現がそのことを明らかにしていくでしょう。




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